本でも教科書でもしっかり読み込むと、と言っていいのかすると、そのもの本を凝らしてみた時に何だか色とりどりの立体的な模様なのか、絵なのかが感覚的に浮かび上がってくる。その立体的に浮かんでくるものはまるで万華鏡を立体的に表したもので囲んだようなもの。
それは不思議な感覚なのだが、小学生時代から時々起こり、当時は気にも留めて居なかったのだが、ある時に少々意識した時に頭が変になった様な気がして無視するようにしていた。
心理学を学び続ける中で共感覚を知り、そういう事が頭が変になったのでは無いことに気づかされ、自分を受け容れられる様に為って、それは漸く自身の性質なのだと認識出来た様だった。
けれども不思議なことに、しっかりと読み込んだつもりでも浮かび上がって来ないものが多くあり、その違いは何なんだろうか。浮かび上がって来るのは昔の書物に多い気がする。
そして段階があり、現代に近づくに従って立体的な紋様が無くなって行き、平面になって更には平面でもない線の束が幾重にも連なってるという様になっていく。
そう言う感覚での数学はどうであろうかと思う時、数学は空間となり、映像に為っていく。
本当に何なんだろうな。
記号論理学では人の話に見えていたものに近いものがあって感動したんだけどな。以前にも書いたかも知れないが。
それは不思議な感覚なのだが、小学生時代から時々起こり、当時は気にも留めて居なかったのだが、ある時に少々意識した時に頭が変になった様な気がして無視するようにしていた。
心理学を学び続ける中で共感覚を知り、そういう事が頭が変になったのでは無いことに気づかされ、自分を受け容れられる様に為って、それは漸く自身の性質なのだと認識出来た様だった。
けれども不思議なことに、しっかりと読み込んだつもりでも浮かび上がって来ないものが多くあり、その違いは何なんだろうか。浮かび上がって来るのは昔の書物に多い気がする。
そして段階があり、現代に近づくに従って立体的な紋様が無くなって行き、平面になって更には平面でもない線の束が幾重にも連なってるという様になっていく。
そう言う感覚での数学はどうであろうかと思う時、数学は空間となり、映像に為っていく。
本当に何なんだろうな。
記号論理学では人の話に見えていたものに近いものがあって感動したんだけどな。以前にも書いたかも知れないが。