自分の弱点の一つである、英語を遣っていると本当に日本語初学時代を思い出す。
周りの人がなんとなく文章を理解できているのに、なぜ自分はまったく頭に入らないんだろうと。何だろう。悔しいと思うのが普通なんだろうが、「情けない」という気持ちに陥っていた。
先生から、文章がバラバラで単語の羅列にしか過ぎないと。
確かに。自分でもそう思っていた。でも、自分では頭の中に在るものをそのままというのだから、それで良いと思っていた。
こういう事って言うのは昔から有るんだよなー。
言葉を額面どおりに受け取るって言うのが。
まあ、逆に良い先生に出会えれば伸びる、否、伸びたか(苦笑)
そして、要求に答える為に考えに考え抜いて、その日では答えが出ず、考え抜いた3日目に(やはり3という数字(笑))やっと、一つの結論。
心を開放するしかないという結論に立った。
心を開放して、空のような、無のような状態にし、そうすると自分の中に浮かんできたのは文字ではなく「絵」模式的な絵でもいいし、モヤッとしたものを表すのは絵でしか表せなかったというのが正確か。
メタ認知というらしいが。教科書にも別の本にも書いてあった。
そう考えていると、英語を学習することは日本語、自分の本質の日本語学習に迫ることであるという言葉が脳裏に浮かぶ。
大学の友人が自分の話したいことが、予測変換に出てくると話していたことがあったが、私の場合はそういう事は稀にしかない。
携帯などでも特にそうだ。
私は当然だと思う。文字で表しているのは私の場合は絵だからである。千変万化する絵。絵から得られる情報は膨大で一つとして同じものはない。絵というより像である場合も有るか。
こんなことを気づかせてくれた菊乃さんに本当に感謝したい。