日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

数学史 その二 20190220ー28追記

2019-02-15 01:21:25 | 日記
 数学史を学んでいる過程で浮かび上がる感覚ということは記述した。


そして、数学史は誰に求められている訳では無いので、必ずしも学ばなくても良いのだが、私の中で数学史は必ず学ばなければならないモノとして認識されている。


私の感覚の中では認識されていることでも実際に言語化していない事で、数学史を学ぶことは何であろうかと考える。


これは私が完全に自分のものと出来ていない論理学に繋がる様に思う。つまりは物事の位置付けだろうか。「何処から何処をミる」のか、それは教授が話してくれた「事実と真実」の致命的な違いを思い出させる。(追記:そんな思いもありながらも)、推測を記述するとすれば恐らくは複数の事が交錯している様に思ってもいるがベイズの定理の様に。


 歴史というものは無数の事実が雨の様に起こり、何を選び出すかに非常に悩まされると武田邦彦も何処かの専門家の先生に聞いたらしい。此れに似ているが、此れが何だが量子の話にも似ている様を想像してしまう。(微笑)


更に言えば、私が「何によって」自分の中へ、素朴に抽出し取り込み出来るのか、己でも解らないと、感じ考えてもいるから。


直感で解る数学という本を読んだことはあるが、此れは解ることが前提に存在してとあった、この文書自体に私には違和感を覚えた。誤って解っていると思い込んでしまう場合はどうなるのだろうと。それ故なのか続編は出たが読んでいない。


 翻って、私が先生と思って呼んでいる長岡亮介でさえ、対数の中にある幾つかの証明問題で、伝えきれていないという状態に思える。此れは何であろうかとも思う。このことと直接繋がるのは「数学はなぜ哲学の問題になるのか イアン・ハッキング」なのだろうが、今回は数学史を中心に。



数学史の中ではそれはワイン樽の話として出されているが、未だ私の中に消化し内省化に至っていない。



 現在存続している、数学の歴史的背景を学ぶことで、どういう文脈の中で、各々の数学分野が発展してきたかが分かることにより、「人々が何を以って、歩を進めて来たのか、来られたか。」


此れを学ぶことに、拠って(この言葉を使う理由は砦を利用する城の感覚)、幾万と重ねられて来たであろう思考の結果でさえ、何百年を要した事柄から、人の陥りやすい「錯覚か?」を見極められると、思ったからだ。



 現在の日本では一見しただけで、何故こんなにも奇妙な事が罷り通っているのだろうか?という感覚に襲われることが多分にある。この様な事が多分にあるというだけでも想像できるが、私自身でさえも、錯覚していると思われていること、さらには倒錯している事もある筈なので、余計に必要と思うのか。



 拠ってという言葉を見てもやっぱり、自身の特質に付いてのことを思ってしまうな。(微笑)




蛇足 数学史の述べている中での事で、現在の私の認識はタルターリアの言葉通りの事なのだが、自分が間違っている様な気がしているのが何だが複雑(笑)


「タルターリアの述べている中で、 事物の様々な原因を知りたいと望むものは数学的諸学問を学びなさい。この数学的諸学問によってのみ事物の様々な原因は明らかになるでしょう。」とある。ので尚更なのだが進めば違うのかな(笑)


コメント
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