押しても駄目なら

風が吹けば、と共に非線型現象の第二例でしょう。

「判る」とはどういうことかーその3

2007-06-19 07:39:40 | 気になる話題
その1、その2で自然科学の分野を駈足で概観した。いわゆる社会科学、経済学などについても、再現性のある定説は何もない、と言う事を述べた。こうした分野では「判らない」ことを「判る」ようにする仕組みを作り上げることが我々の緊急の課題であろう。
少し飛躍するかも知れないが、こうした判らない世界をいわば出鱈目に動かしている政治経済に翻弄される大多数の庶民は、その気持ちを広い意味での娯楽で発散させている部分が大きい、と思われる。
かつては文学がそうした気持ちを代弁し、共感を得ていただろう。そうでなくなったのはかなり昔で、文学、文学運動などが一定の活躍する場面がなくなってから久しい。今は漫画がその役割を担っていると筆者は実感している。「キャプテン翼」には息子もジタンもトッティも影響を受けたそうな。自衛隊のイラク派遣隊が建物、車体に主人公の漫画を描いて、攻撃を免れたとか・・・。
また飛躍して、例えば、小沢信男の「通り過ぎた人々」を読むと判らない、再現性のない、世界で悪戦苦闘していると私には思えて来る。また、田所泉の「楠ノ木考」は同じ文学運動体をもっと正面から捉えようとして苦渋の年月を描いている。この本には運動体のレビューが書かれていて、これは「判らない」世界を「判る」ようにする努力の一つとして理解出来る。
文学と文学運動、文学運動体については少し私の理解を説明する必要があるだろう。前の段落の解説には少し飛躍があるかもしれない。文学は人間を描くのであって、描かれ方の良し悪しは如何に共感を得られるかで評価されるだろう。運動、運動体は人間が生きている社会、その背景となる政治、経済をどう捉えるか、を見据えて、表現方法、手段などなどについて論考を進める、のだろうと思う。
だからその1で述べたように経済、政治が「判らない」世界にあることを斟酌すれば、政治的な事柄に命を掛けるなんて私にはとても出来ない、と思うのが。
つづく

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