暫く書き込みを怠けていた。表題のテーマを考えていて、なかなかまとめることが出来なかった。あるきっかけがあり、実行する事にした。
話の発端は松井教授の
小冊子を読み、講演を二回聞いた事が始まりである。二回目の講演は4月末に学士会で聞いた。演題は「我々とは何か、何処から来て、何処へ行くのか」であったと記憶する。
初めの講演については既に書いた.
それらを随時引用しながら書くことにする。現生人類がアフリカに発生したのは16万年前と言われているそうな。最初は狩猟生活をしていて、食料を確保するために各地を移動し、世界中に広まった。しかし、農耕生活を始めたのは一万年前で、地球の気候が安定したからだと考えられている。どうして安定したかは今でも不明だが、観測的に確かめられている。農耕生活を始めてから、地球システムに人間圏が生まれた。生物圏から人間圏が離れたのである。ネアンデルタール人、クロマニヨン人は農耕生活をしなかったのである。だから、生物圏に留まり、人間圏を創出しなかった、出来なかった。松井教授は人間圏を現生人類が維持できたのにはもう二つの理由があると提案している。一つは生殖期間を過ぎたおばあさんが現生人類の化石を調べると居た事を上げている。当時困難だったお産を経験者として安全なものにするに大いに頼りに成っただろうし、子育ての強い担い手だったろう。石原知事が勘違いしている、女でなくなった婆が無駄に生きている、というあの話題である。三番目には言語と共同幻想の存在である。共同体の目的を遂行するには言語と仮想がなければならないだろう、ということである。
「判る」と言う事はこうした共同幻想の一つを具体的に提示し、それを他人が実行すれば、その通りになる。と言う事になる。物理、化学、天文学などではこれは当たり前のことである。査読付学会誌に論文を投稿して、あれこれの紆余曲折の後、無事受理され、印刷され、発表される。
こうした論文発表システムは「判らない」ことを「判る」ようにする、過程の一つの大切な構成要素であり、その過程全体はアカデミズムと呼ばれる。このシステムは近代西欧で生まれた。ニュートンが月は落ちないのに、何故林檎は落ちるのか、を考えたと言う良く出来たエピソードがあるが、あの頃が始まりだろう。
自然科学の分野ではこれらのことはごく自然に日常的に国際的に行われている。しかし、経済学では仮説があっても定説はないようだ。例えば東谷 暁著 「エコノミストは信用できるか」文集新書 を読むと現代の著名な経済学者、エコノミストが競馬の予想屋のように評価されている。更に、ノーベル経済学賞といのがあるが、どうして経済学賞が生まれたのかについては疑問があると聞いた事がある。ここではこれにはこれ以上触れない。
従って、経済の上に乗る政治については更に怪しい。政治家の言う事は誰も信用しないが、選挙になるとあれこれの尤もらしい提案が出て来る。昔は政策と言ったが、今はマニフェストというそうな。こうした政策提案を最も大規模に行うのは米国大統領選挙であろう。ブッシュ政権はまだ残任期間があるが、次期大統領選挙戦は既に始まっているとか。各候補者の後ろにはシンクタンクが控えていて、大規模な複雑系シミュレーションを行っているだろう。
こうしたシミュレーションが正しくない事は新任大統領の人気が着任後急速に下落する事からも「判っていない」ことが明らかである。
自然科学以外の、自然科学でも複雑系のシミュレーションの結果の正しさを実験、観測で実証する難しさがあることは忘れてはならない、自称「科学」、社会科学、人文科学等などではどのようにして「判らない」ことを「判る」ようにするかは緊急焦眉の重要課題である。
こうした自称「科学」の世界ではカリスマ性とか信頼度とか曖昧な要素が重んじられ、信ずる世界に近づいて行く。それは宗教の世界に限りなく近い。現に政治と宗教は公明党と創価学会のように密接なつながりがある。カリスマ性などが跋扈する共同体では派閥が生じ、スパイ活動、組織防衛などの非科学的な活動が活発になる。
松井教授は似非科学を排除して専門科学技術について
納得する仕組みを新たに構築する必要がある、と提起している。