知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

日本料理の歴史(抄) by 原田信男氏

2022年02月27日 22時04分48秒 | 原発
私は数年前からロカボ(炭水化物制限)をしています。
厳しく制限するのではなく、
ご飯を食べない、
パンやパスタを食べない、
芋も食べない、
という“主食抜き”の食事です。

提唱した医師は、その昔、玄米食を提唱した医師でもあります。
健康を考えたら1000年前の食事にたどり着いた、
糖尿病食を考えたら10000年前の食事にたどり着いた、
と著書の中で記述しています。

なるほど、と思いながらもずっと私の頭に引っかかっていることがありました。
それは日本の伝統食である神饌と精進料理の栄養バランスはどうなっているかということ。特に蛋白質と炭水化物の比率は、現代食と比較してどうなのか?

時間がないのでまだ本格的には調べていませんが、
ネット検索したら以下の文章に出会いました。
発言者の原田信男氏は国士舘大学教授で、食文化の研究者です。

日本の食文化の歴史を俯瞰しており、
なかなか興味深い内容です。
料理としては、歴史上以下の順番で登場したとのこと;

神饌
大饗料理
精進料理
本膳料理
懐石料理
会席料理

神饌は昔は神と共食する料理だったはずなのに、明治時代に生もの中心にすり替えられてしまった経緯があるそうです。残念。

大饗料理は平安時代の貴族の食べたもので、庶民の口には入らなかった様子。

精進料理は禅宗に伴い鎌倉時代に日本に入ってきた料理で、植物性のものを動物性に似せるよう工夫して調理したもの。

本膳料理は武士の時代に発達した料理。室町時代には今は馴染みの“だし”も登場したそうです。

懐石料理は戦国時代の茶の湯の一期一会の精神の元にもてなしの心を尽くした料理。

会席料理は江戸時代に発達した料理屋さんでみんなが集まって食べる料理。

等々。

■ 第3回日本人の長寿を支える「健康な食事」のあり方に関する検討会 議事録
・・・
・一番古い日本の料理様式は、実はわかりません。つまり、これは文字で書かれることが非常に少ないわけです。ただ、考えられる一番古い日本の正式な料理は、恐らく神とともに食べる食事、神饌であっただろうと思われます。ただ、神饌は現在変わってきてしまっています。もともとは人間が神様にお願いをして、そのために食べ物をささげる。そして神に食べてもらった食べ物を人間が食べる。つまり、先ほどの言葉で言うと、神人共食、神と人間が共食をすることによって神の恩恵を得ると同時に、神への感謝を示すという料理ですから、これが最高の料理形式であったと思われます。
・ただし、明治になって国家神道になったときに、祭式を改めて以降、神饌は全部生饌、生のものに改められました。そのように神社庁が指導したわけです。しかし、もともとは熟饌、料理したものを上げていたはずです。・・・神が食べた後に食べるということが重要なわけでありまして、直会というのがそれに当たって、神道の儀式の中で非常に重要な意味を持つわけですが、ただ、先ほど言ったように、わからない。
・現在残っている神饌について資料に上げておきましたけれども、これは春日大社の神饌です。これは中国大陸の影響を受けております。まず、色がついている。さまざまなものを盛り上げている。これは中国大陸からの影響です。
・日本の神は素木、色をつけないのが本来です。色をつけるのは仏教の影響です。春日大社は神社であるけれども、興福寺との関係で色をつけているわけです。したがって、現在残っている神饌料理からかつての神饌料理のあり方はわからないということになってしまいます。
・その次が大饗料理です。これは平安貴族などが天皇たちをもてなすための料理であって、台盤、テーブルが出されて、そこに料理が並びます。この料理は、後で数えていただくとわかるのですが、膳組みが偶数仕立てです。偶数仕立てということは、中国料理の影響です。そして、手元のところに白い皿があって、その横に箸とスプーンが置かれているわけです。スプーンも中国料理で、朝鮮半島まで参りましたけれども、日本には入っておりません。
・大饗料理には料理の原形が示されております。それはどういうことかというと、ここには生ものとか干物とか、そういうものが並んでおるのですが、味つけは自分でするのです。手前に四種器という4つの器がありまして、そこに酢とかお塩とか、醤だとか、そういう調味料が盛られておりまして、白いのはとり皿であって、ここに並んでいるものをとって、自分なりの味つけをして食べるということです。実はこれが料理の原型なのであります。
・・・
・大饗料理は中国の影響が強いのですが、1つだけ日本的な特徴があります。それは何かというと、切るということです。皆さん、切るというのは料理でないと思われるかもしれませんけれども、刺身は立派な料理なのです。刺身のどこが料理かというと、片刃の薄い包丁で魚の肉の細胞を壊さずに切るということです。つまり、肉汁が逃げない。あれを西洋料理とか中国料理の包丁で切ったら、あの刺身の味は出ません。そういう意味で、日本は、切るという料理技術を物すごく重視し、発展させた文化です。それはこの大饗料理の中にあります。ですから、庖丁人というのはこのころから使われておりますけれども、「包丁」という言葉が料理の代名詞になるということであります。
・その次は精進料理です。精進料理も中国の禅院から伝わったもので、いかに植物性のものを動物性のものに見せるかということです。動物性のものに見せるためには、粉食、小麦粉とかいろんな粉を強烈な調味料、つまり、ゴマ油とかみそとか、そういうもので特別な味つけをして肉の味に近づけさせるということですから、これは先ほどの大饗料理みたいに自分で味をつけるということではなく、要するに、料理人が徹底して味つけをする、調理するというのが示されたのが精進料理で、これが鎌倉時代に日本に入ってまいります。しかし、これも中国文化の影響でありまして、日本独自のものとは言いがたいことになります。
・そうした日本文化の中で日本料理というものがいつ成立するかというと、室町期なのです。料理に限らず、今日的な日本の伝統文化というものは室町時代に成立しております。お茶、生け花、香道とか、能とか、大体伝統的な文化は室町時代に発達し、日本料理もそのときに発達してきている。
・それまでも日本料理のだしとして昆布とかつおは用いられていましたが、特に昆布などの場合は食べるだけでありまして、それをだしとして用いるようになるのは遅かった。かつおは初め、堅魚煎汁という形で煮出してだしをとっていたわけですけれども、それをかつおぶしという形で今日的なだしをとり、それに昆布を合わせる。これが成立したのも室町時代の話であります。
・そして、これでつくり上げられたのが将軍の御成の際に出される本膳料理という料理様式であります。本膳料理は、まさに膳であります。膳を使っているのは東アジアの中では日本と朝鮮半島と沖縄だけです。そういう意味で、日本的な膳を使う料理文化というものがまさに室町時代に生まれた。しかも、膳組みは七五三の本膳組みです。ですから、今日の奇数組みの日本料理にここで初めて変わった。ある意味で言えば、室町時代に日本料理が成立したと言っても過言ではありません。
・それと同時に、それまでは宮廷を中心とした大饗料理などの料理流派であった四條流が主流だったわけですが、ところが、室町時代にかなりの数の武家の庖丁流派というものが生まれてくる。生間流とか進士流とか大草流とか、そういう庖丁流派が生まれてきて、さらに日本の食事文化の発展というものが基礎づけられ、そしてそのものを秘伝として残す料理書、つまり、何とか流料理書というものが室町時代にたくさん成立を見てくるわけです。そういう形で日本料理が成立するわけです。
・・・
・最後に、本膳料理を発展させたものとして懐石料理が出てくるわけです。まず、千利休が大成するわけで、これが戦国時代のことであります。これは本膳料理のいいとこ取りをして、なおかつ、茶の湯には一期一会という考え方がありますから、どうやって最高のもてなしをするか、それが茶会の理想であるという形で、もてなすためには、そのときそのときの1回の出会い、季節感をいかに大切にするか、盛りつけをどうするか、部屋のしつらえをどうするか、そういう中で今日代表されるような、世界にも通じる料理としての懐石料理が戦国時代に成立しております。
しかし、戦国時代、中世までの料理というのは、食べられる場所と人間が決まっていた。茶会に招待される、あるいは将軍、貴族の儀式に参加できる人間は限られております。場所も時間も限られております。
・江戸時代、近世になると、これは封建時代というふうに皆さんは考えられているかもしれませんけれども、かなり発達した時代で、近世になって初めて自由な料理が成立したと思っております。つまり、料理屋の成立です。料理屋があるから、そこに行けば、もちろん予約することがあるかもしれないし、ふらっと行くこともできますけれども、そういう形で、いつでも好きなときに、お金さえ出せば誰でも料理が食べられるようになった。
・先ほど申しました秘伝の巻物として伝えられた料理書が、江戸時代になると出版されます。秘伝書が出版されるということになってきてしまうわけであって、これによって料理法も金で買えるという形になった。江戸時代になって料理の体系そのものは変わらないのですが、それが非常に浸透し、普及していったのが江戸時代。
・なおかつ、さらにそれに磨きがかかった。特に宝暦・天明期から文化・文政期、18世紀の後半から19世紀の前半にかけて料理文化というものは著しい発達を見ます。まさに江戸では八百善だとか、聞いたことがあると思いますけれども、そういう会席料理。これは「会席」で、料理屋で食べる日本料理です。これが非常な発達を見る。
・・・
そしてそのまま明治維新を迎えて、それまで国家の正式な晩さん料理であった日本料理から、明治天皇が主催する晩さん会では西洋料理、フランス料理に変わってまいります。実は肉食を禁止しましたけれども、明治4年に天皇は肉食再開令を出しまして、みずから進んで肉を食べるということをやっているわけです。これも細かいことは省きますが、しかし、そう簡単に西洋料理が広く受け入れられるわけではありません。
・すき焼きというのは江戸時代からあって、まさに農具のすきで焼く料理でした。江戸時代のすき焼きは鳥と魚だったわけです。ところが、それに肉を使って牛鍋という形とかで肉食が入ります。しかし、明治の後半、30年代、女学校の料理教室で教えていたのは何かというと、西洋料理と日本料理の間に折衷料理というのがありまして、牛肉のかす漬けだとか、カレー粉入りの味噌汁だとか、まさに今日的なコラボレーションの料理ではあるのですが、今の我々からすると、えっと思うような、まさに和洋折衷の料理を苦心して女学校で調理の時間に教えております。
・やがて大正ぐらいにると、洋食がかなり普及してくる。その後、戦争の間、日本の食糧事情は物すごく落ちますから、食文化の料理も衰退してしまいます。
・戦後になって、高度経済成長の波に乗って再び日本料理がかなり身近なものになる。もちろん、これにはコールドチェーンの発達、要するに、冷凍技術とか施設・設備のもので今日的な食文化、まさにグルメブームが出てくるわけです。
・注意していただきたいのは、日本人は米を食べてきたと言われていますけれども、日本人が腹いっぱい米を食べられるようになったのは1960年代のことであります。逆に60年代に何が起きているかというと、米の排斥、米食はよくないという形、米偏光、是正というような形での運動も起きている。
・日本料理の成立というのはそんなに古いことではない。しかも、その後、さまざまな変遷があった。つまり、私に言わせれば、和食とか日本料理というものは時代によって概念が変わるものであるということ、この点にも注意していただきたいです。
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“おみくじ”の意味を再確認してみました。

2022年01月06日 11時41分52秒 | 原発
吉凶を占うおみくじ。
お正月に初詣をしておみくじを引き、喜んだり落ち込んだりした人が多いことでしょう。

実は近所にある「元三大師」の本家本元の比叡山の高僧であった慈恵大師良源さんが発明したとも聞いています。

しかし私はあるときからおみくじを引かなくなりました。
だいたい、
「今はコツコツ努力をするとき」
「いずれ明るい未来が来るでしょう」
という同じよう内容であることに気づいたので、その都度、
「ハイハイ、わかりましたよ」
と反応することに意義を感じなくなったのです。

また、神社への参拝は感謝を伝えるためであり、
願い事を頼む場所ではないことに気づいたことも一因です。

それでもおみくじは気になります。

・一般的な吉凶は、
「大吉・中吉・吉・小吉・半吉・末吉・末小吉・凶・大凶」
派生して、伏見稲荷では32種に細分化されている(例えば「凶後大吉」「吉凶相半」「向大吉」など)とか。

・昔々は「平」という“平穏”を意味するくじが人気だったが、人々が刺激を求めて「吉」→ 「大吉」、「凶」→ 「大凶」とインパクトのあるくじが出現するに至った。

・・・「平」は漢方医学の「中庸」の考え方に似てますね。体の状態が実証(有り余る体力)でもなく「虚証」(不足した体力)でもない、中間の「虚実中間証」=「中庸」をよしとして、そこへくすりで方向付ける治療が漢方です。

・「大吉」を喜んで有頂天になっていると運勢が落ちる。「大吉」とは“要注意”という意味も含んでいる。

・「大凶」はこれ以上悪くならない、努力すれば吉に向かうというありがたいくじ、という側面もある。

・・・なんだか“方便”という気がしないでもない言い回しですねえ(^^;)。

・「平」のくじは年々減り、一時は京都の石清水八幡宮くらいしか扱っていなかったが、近年は再び増え始めている。
例)氷川神社(埼玉県)、戸隠神社(長野県)、住吉大社(大阪府)、生國魂神社(大阪府)、下鴨神社(京都府)、伏見稲荷大社(京都府)、厳島神社(広島県)、金刀比羅宮(香川県)、青島神社(宮崎県)、太平山神社(栃木県)、日光の二荒山神社(栃木県)

・・・一番近いのは大平山神社、いつか行ってみよう。

・おみくじの起源は、日本書紀の短籍(ひねりぶみ)? それとも室町時代初頭中国から入ってきた『天竺霊籤(てんじくれいせん)』?・・・いずれにしても、天台宗の中興の祖と呼ばれた元三大師(慈恵大師良源)により「観音みくじ」として広まり、現在のおみくじの原型になったらしい。

・・・そういえば、おみくじは寺院にも神社にもありますね。日本的というか中国的というか・・・微妙な雰囲気。

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鹿が増えた理由と影響、そして対策

2022年01月06日 11時00分30秒 | 原発
私が子どもの頃は、野生の鹿に出会うことは珍しく、またディズニーのアニメ「子鹿のバンビ」の影響もあり、かわいい&憧れの動物でした。

小学生の時、知り合いのおじさんに日光へ連れて行ってもらった際、立ち寄った家で初めて野生の鹿を目にしました。
ケガをして動けなくなっているのを保護した、と記憶しています。

それから数十年、鹿の数はどんどん増えて樹木の根本付近をかじり枯れさせてしまう“害獣”扱いされるようになりました。

なぜ、鹿が増えたのでしょう?
そんな疑問を漠然と抱いてきました。

要点を抜粋しますと・・・

■ 鹿が減少した理由
1.天敵の不在:天敵であるニホンオオカミが絶滅していなくなった。
2.降雪量の減少:冬の降雪量が減り、冬の餌不足の期間が短くなった。
3.スギとヒノキの植林政策:スギとヒノキの稚樹は鹿の餌になる。
4.鹿の保護政策:かつて鹿は絶滅の危機に陥り、1950年代までは禁猟、齟齬の徐々に解禁されてきた。
5.里山の荒廃:人が手放した放棄地が生息地に変わった。
6.狩猟者の減少:狩猟免許取得者は一時期より半減している。

■ 鹿の増加による影響
1.森林の生態系破壊:草を食べ尽くすと山の保水能力が低下し災害が増加、鹿が好む特定の植物のみ減少するので多様化が低下、など。
2.農業への影響:自然界と人間界の境界が曖昧になり、農作物を食べるという被害が増えた(総被害額の1/3)。
3.林業への影響:植樹した幼樹の葉や樹皮を食べて枯れてしまう。総被外郭の7割を占める。
4.山での交通事故:山道・林道に鹿が突然飛び出してきて避けきれず、車と衝突する事故が増えている。

■ 鹿増加への対策
1.許可捕獲
2.鹿柵の設置

そして記事の最後は以下のように「鹿肉を食べましょう」で締めくくっています。

「しっかりと処理されたお肉は、臭みもなくとっても美味。シカ肉は赤身で脂肪分が少なく、鉄分豊富なヘルシー食材です。ジビエ産業の普及は、地域産業の活性化や、狩猟者の狩猟意欲の向上、そしてなにより捕獲した動物の命を無駄にしないことにつながります。」

この50年で日本人にとっての鹿の存在は、
「かわいい!」
から
「おいしそう!」
へ変わってきたのですねえ・・・ちょっと複雑な気分です(^^;)。
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日本人とネコ

2021年03月04日 15時01分48秒 | 原発
日本人がどのように動物と関わってきたのか・・・ちょっと興味があります。
今回はネコを取りあげます。

日本にネコが中国から輸入されたのは奈良時代、というのが通説です。
※ 諸説あります(近年、2000年以上前の遺跡から猫の骨が出てきたという報告も)。

目的は「仏教の経典をネズミから守るため」だったそうです。
そのため、飼われていたのはお寺中心でした。

平安時代になると、「ペット」という新たな役割が発生、
貴族の間でネコをペットとして飼うことがブームになりました。

清少納言の『枕草子』にもネコをかわいがる一条天皇のこんな描写があります;
「天皇のおそばに飼われている御猫は
位を授けられて“命婦のおとど”と名付けられている」

紫式部の『源氏物語』にもネコが登場します。
そのネコは首輪を付けられ、ヒモが結ばれていました。
当時はまだ数が少なく、貴重な動物だった故。



平安時代のネコは自由ではなかったのですね。

そんなネコを窮屈な生活から解放したのが徳川家康。
彼は徳川幕府を開く際に、
「ネコをつなぐべからず」
というお触れを出しました。

これには理由がありました。
戦国時代が終わり、平和な江戸時代が始まると、
江戸は急速な都市化により、ネズミの食害が社会問題化したのです。

家康はネズミ対策として紐でつながれていたネコを解き放ったのでした。
自由を得たネコは、本来のネズミ退治という役割を担うと共に、
爆発的に繁殖しました。

数が増えたため、庶民の間でもネコを飼う習慣が広まりました。

京丹後市にある金刀比羅神社境内の摂社「猿田彦神社」「木島神社」には眷属のところに狛犬ならぬ狛猫がいます。
京丹後市は昔からのちりめんの産地で、ちりめんの原料は生糸、そして生糸はネズミの大好物。
生糸を齧られると売り物になりません。
それを防止するためにネコを飼ってネズミを退治してもらい、
ネコを大事にするようになったそうな。

江戸時代にネコをこよなく愛し、仕事にも役立てた人物がいます。
それは浮世絵師の歌川国芳。
ネコを擬人化した浮世絵を数多く発表し、
江戸後期にネコブームを巻き起こしました。
代表作は「流行猫の曲手まり」


国芳がネコの絵を描き始めたのはキャリアの後半でした。
庶民の文化を描く浮世絵は大人気でしたが、
水野忠邦による倹約令「天保の改革」により娯楽や文化的なものが取り締まりを受け、
歌舞伎役者の他に遊女も扱った浮世絵は「風紀を乱す」と禁止されてしまいました。

そこで国芳はネコを擬人化して幕府を風刺する絵を描き始めたのでした。
代表作は「猫の百面相」。



当時の人気歌舞伎俳優の顔を模したネコたちですが、
庶民はひと目見てそのネコが役者の誰だかわかったそうです。
このような国芳の猫絵は、政治に不満を持つ庶民に人気を博し、
停滞していた浮世絵界を救う大ヒットとなりました。

直球勝負ではなく、変化球勝負をしたのですねえ。
猫を使った風刺というと、明治時代に有名な文学作品があります。
『吾輩は猫である』(夏目漱石著)は国芳の猫絵の延長線上にあるのかもしれないですね。

昭和時代はペットと云えばイヌがメインだったでしょうか。
平成、令和ときて、ネコが人気で上回った感があります。
世間では「イヌ派」「ネコ派」と分かれるようですが、私はどちらかなあ・・・。

ここからは私のネコに関する経験談・思い出です。

私はペットを飼ったことがありません。
母親が大の動物嫌いだったので。

幼少期によく捨て猫とか捨て犬を拾ってきた私。
そのたびに母親に叱られて、拾ってきた場所に戻すことを繰り返しました。

少年期には“猫屋敷”化している親戚の家がありました。
野良猫を餌付けしている内に居着いてしまい、
10匹弱のネコが出入りしていました。
個性があって、中には人なつこいネコもいました。

そうそう、大学生時代に居候していた家庭教師先にもネコがいました。
ブルーペルシャという、あまり見かけない種類。
かわいいと云うより優雅でゴージャスな雰囲気をまとったネコでした。
雪の降る寒い夜、換気のために窓を少し開けておくと、
いつの間にか忍び込んで私の蒲団に潜り込んできたので湯たんぽ代わりになりました。
写真は残っていないなあ。
ネットで見かけた写真ではこれが雰囲気が似ているかな;


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地方の神社の名前・祭神のルーツについて

2021年02月20日 17時09分44秒 | 原発
先日、探したいた書籍を古本で見つけて購入しました。
発売当時の価格の倍の値段で。
こういう貴重な本は、見つけたときに買わないとずっと買えないので思い切りました。

本の名前は「上州のお宮とお寺〜神社編」近藤義雄、丸山知良著
(上毛新聞社、1978年発行)

題名通り群馬県のめぼしい神社の紹介本です。
目次を見ると、参拝したことのある神社とない神社が半々くらい。

神社の名前って、地方により同じものが複数あることが多いですよね。

なぜなんだろう?

それから、有名な神社の名前と同じ名前もよく見かけます。

なぜなんだろう?

私は大きな御神木がある神社をメインに参拝する趣味がありますが、山里の神社の中には神社名がはっきりしない「山神社」という名前にたどり着くこともあります。
そんな、いろいろな神社名がある理由を、この本の前書きがわかりやすく説明してくれているので紹介します。

 現在では大抵の神社に特定の祭神の名が定められているが、古くは大部分の神が山の神、川の神、井戸の神、竈の神などと呼ばれ、特定の祭神はほとんどなかった。そして多くの神は我々を守護してくれるもので、例えば田植えの頃になればサオリと称して山から神が降臨して田畑を守り、収穫が終わるとサノボリと称して神はお帰りになると信じられてきた。
 しかし、やがて人々の住む近くに社が建てられ、神は身近に常におわしますようになった。
 このような地の神に対し、人々の交流がさかんになると他国の神も入ってきた。各地の有力な神社は、御師と称する神人団をもって侵攻の拡大を図り、講社をつくって代参者を招き、ついには村人は他国の神を村に勧請してお宮をつくるようになった。熊野神社などはその代表的な例といえよう。
 他国の神が祀られるようになったもう一つの要因は、有力な豪族が村に入ってきたときである。豪族は一族の氏神を新しい土地に来ても祀るようになり、村人もその神をともに崇拝するようになっていった。そのよい例が八幡神社である。八幡神は源氏の氏神として尊崇されていたので、新田氏などが地方に勢力を伸ばしてくると、各地に八幡神が祀られるようになり、ときには地の神と合わせて祀られたりして定着化していった。

なるほど、なるほど・・・。

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