本日はちょっと異色な人を登場させる。ホトケでなくて、歴史上の人物である。
歴史上の人物の坐像がこの上ない名品となって通常ではその姿を拝むこともできないという扱いには訳がある。歴史上彼にしかできないことをやってのけた人であり、その時代に、いや現代になって文化財を眺めて廻る我々にとってもかけがえのない人であるからだ。
そんな訳で、これも異色であるが少しだけ歴史的事象の説明もせねばならぬ。
源平合戦のさなかの治承4年(1180)平重衡の軍勢が南都(奈良)を攻めたが、その兵火により東大寺、興福寺をはじめとする南都寺院のほとんどが焼失した。東大寺の大仏殿は、二階に逃げ込んでいた1700人にも及ぶ人々と共に焼け落ち、勿論大仏そのものも見る影もなく損壊。さぞかし悲惨な惨状であったと想像される。
翌養和元年(1181)8月、朝廷から「造東大寺大勧進職」に任ぜられた重源は、諸国を勧進して寄進を募るとともに、源頼朝らの協力を得て宋人陳和卿(ちんなけい)らを登用するなどして大仏を修復・鋳造し、文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏の開眼供養を行なった。
大仏殿・南大門をはじめとする東大寺伽藍の復興は、建久6年(1195)には大仏殿落慶供養を、また建仁3年(1203)には東大寺総供養を行なうことができた。
・・勧進職に就いてから僅か15年で、ほぼ現在の東大寺の姿にまで復興させたというわけだ。
工期の短さにも目を見張るが(国交省にも見習って欲しい)、それだけの工事を完遂させる寄付金を集める実力に至っては、どう表現したらよいのだろう。政治家としか言いようが無い。
とまぁ、重源上人とは簡潔に云ってそういう凄い人である。
彼の政治力と統率力のお陰で東大寺は見事復興に至ったわけであるし、彼の目に見出されたことで運慶・快慶を始めとする「慶派」が一気に花開くのである。彼が居なければ東大寺南大門の巨大で精巧な阿吽の仁王像を見上げて嘆息することも、興福寺南円堂の豪快な四天王を見ることも、今の我々には叶わなかったわけで、私なぞに言わせれば重源さまさまである。
彼が木彫の坐像となって今も座っておいでになるのが「俊乗堂」と呼ばれる気付かないくらいに小さなお堂。ここは鎌倉時代初期に重源上人によって創建された浄土堂があったところで、現在の俊乗堂は、16世紀の戦火で焼失した後、元禄年間に公慶上人が重源上人の功を称え菩提を祈るためにここに建てたもの。
快慶作と伝えられる重源上人坐像の脇には同じく快慶作の阿弥陀如来立像と、愛染明王像が居たらしい。それらもなかなかの名品であったはずなのに、失礼ながらさっぱり記憶にない。それ程、重源上人坐像にクギヅケだったのだろう。
上の写真は全身像でないので判りにくいが、まぁ所謂しわがれたお爺さんだ。
ちょっと猫背にちょこんと座り、口を不機嫌そうに結んで両手で数珠を繰っている。衣は墨色鮮やかで、まるで木彫の上に衣服を羽織らせてあるのではないかと疑うほどの写実描写。
そう、重源上人坐像はこれ以上ない写実描写の極みである。
枯れた首筋のしわがれ具合といい、帽子でもかぶったまま拝観しようものなら一喝されそうなくらいに不機嫌な口元。目は左右非対称に歪み、数珠を繰る指先はその珠の質感を確かめるように、老人独特のぞんざいな繊細さを覗かせる。
癇に障ることをこちらがもししたならば、星一徹ばりにちゃぶ台をひっくり返されて、それだけでは済まず硯のひとつも宙を飛んできそうな、そんな生き生きとした性格を備えた老人の姿がここにある。
偉い人の像を作る歴史は今までずっと続いているが、こんなにも不愉快そうで理想の欠片も反映させない像を他に見たことがあるだろうか?アイロニーでわざと醜く表現されているものを除いたとして?
そりゃぁ、これだけの事業を成し遂げるにあたっては色々とワンマンなこともしただろうし、横車を押したことだってあっただろう。とはいえ彼は尊敬されてしかるべきであるし、現に彼の功績は称えられてきた。
今日しも、東大寺の仁王や大仏に目をやって「ふぇ~。凄いねぇ。大きいし、恰好いいし、モダンだねぇ」なんて感嘆する我々を、暗くて小さなお堂の中からこっそり見下ろして「へへっ。」とほくそ笑んでいるに違いない。
歴史上の人物の坐像がこの上ない名品となって通常ではその姿を拝むこともできないという扱いには訳がある。歴史上彼にしかできないことをやってのけた人であり、その時代に、いや現代になって文化財を眺めて廻る我々にとってもかけがえのない人であるからだ。
そんな訳で、これも異色であるが少しだけ歴史的事象の説明もせねばならぬ。
源平合戦のさなかの治承4年(1180)平重衡の軍勢が南都(奈良)を攻めたが、その兵火により東大寺、興福寺をはじめとする南都寺院のほとんどが焼失した。東大寺の大仏殿は、二階に逃げ込んでいた1700人にも及ぶ人々と共に焼け落ち、勿論大仏そのものも見る影もなく損壊。さぞかし悲惨な惨状であったと想像される。
翌養和元年(1181)8月、朝廷から「造東大寺大勧進職」に任ぜられた重源は、諸国を勧進して寄進を募るとともに、源頼朝らの協力を得て宋人陳和卿(ちんなけい)らを登用するなどして大仏を修復・鋳造し、文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏の開眼供養を行なった。
大仏殿・南大門をはじめとする東大寺伽藍の復興は、建久6年(1195)には大仏殿落慶供養を、また建仁3年(1203)には東大寺総供養を行なうことができた。
・・勧進職に就いてから僅か15年で、ほぼ現在の東大寺の姿にまで復興させたというわけだ。
工期の短さにも目を見張るが(国交省にも見習って欲しい)、それだけの工事を完遂させる寄付金を集める実力に至っては、どう表現したらよいのだろう。政治家としか言いようが無い。
とまぁ、重源上人とは簡潔に云ってそういう凄い人である。
彼の政治力と統率力のお陰で東大寺は見事復興に至ったわけであるし、彼の目に見出されたことで運慶・快慶を始めとする「慶派」が一気に花開くのである。彼が居なければ東大寺南大門の巨大で精巧な阿吽の仁王像を見上げて嘆息することも、興福寺南円堂の豪快な四天王を見ることも、今の我々には叶わなかったわけで、私なぞに言わせれば重源さまさまである。
彼が木彫の坐像となって今も座っておいでになるのが「俊乗堂」と呼ばれる気付かないくらいに小さなお堂。ここは鎌倉時代初期に重源上人によって創建された浄土堂があったところで、現在の俊乗堂は、16世紀の戦火で焼失した後、元禄年間に公慶上人が重源上人の功を称え菩提を祈るためにここに建てたもの。
快慶作と伝えられる重源上人坐像の脇には同じく快慶作の阿弥陀如来立像と、愛染明王像が居たらしい。それらもなかなかの名品であったはずなのに、失礼ながらさっぱり記憶にない。それ程、重源上人坐像にクギヅケだったのだろう。
上の写真は全身像でないので判りにくいが、まぁ所謂しわがれたお爺さんだ。
ちょっと猫背にちょこんと座り、口を不機嫌そうに結んで両手で数珠を繰っている。衣は墨色鮮やかで、まるで木彫の上に衣服を羽織らせてあるのではないかと疑うほどの写実描写。
そう、重源上人坐像はこれ以上ない写実描写の極みである。
枯れた首筋のしわがれ具合といい、帽子でもかぶったまま拝観しようものなら一喝されそうなくらいに不機嫌な口元。目は左右非対称に歪み、数珠を繰る指先はその珠の質感を確かめるように、老人独特のぞんざいな繊細さを覗かせる。
癇に障ることをこちらがもししたならば、星一徹ばりにちゃぶ台をひっくり返されて、それだけでは済まず硯のひとつも宙を飛んできそうな、そんな生き生きとした性格を備えた老人の姿がここにある。
偉い人の像を作る歴史は今までずっと続いているが、こんなにも不愉快そうで理想の欠片も反映させない像を他に見たことがあるだろうか?アイロニーでわざと醜く表現されているものを除いたとして?
そりゃぁ、これだけの事業を成し遂げるにあたっては色々とワンマンなこともしただろうし、横車を押したことだってあっただろう。とはいえ彼は尊敬されてしかるべきであるし、現に彼の功績は称えられてきた。
今日しも、東大寺の仁王や大仏に目をやって「ふぇ~。凄いねぇ。大きいし、恰好いいし、モダンだねぇ」なんて感嘆する我々を、暗くて小さなお堂の中からこっそり見下ろして「へへっ。」とほくそ笑んでいるに違いない。
表現の凄さに圧倒されます。何と言うリアリティー、運助の作と言われる無著像、そして重源上人坐像、金剛力士像と対極おなす表現ながら同等のエネルギーを感じます。肖像画の最高傑作と思っているベラスケスのイノケンティウス十世と比肩する物と思います。
コメントありがとうございました。
人を写すということは、その人の持つなにを、誰に、どのように伝えるかということが求められるわけで、一種の広告的記念碑を作ることです。
重源上人については、その信念、頑固さ、強烈さを人間として、そして人間という哺乳類の中では突出して”強い”イキモノであったことを非常に意識して制作されたものではないかと勘ぐります。
肖像の傑作のひとつ、というご意見については、全くの同感です。