Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

いずれ忘れてしまうから。

2008-06-11 | 徒然雑記
 
 仕事をしている上での感慨というものは、いずれ忘れてしまう。

はじめて名刺を貰ったときの気持ち、
はじめて上司に「ありがとう」と云われたときの気持ち、
はじめて私より後に入社した人が会社を去っていくときの気持ち、
はじめて大きなミスをしてしまったときの気持ち、
はじめて一人で出張に行くときの気持ち。

毎日の大部分を費やす仕事だから、いつかはじめてだったことはかなりの頻度で繰り返されることになり、そのうちになんだか当たり前のことのひとつになってゆく。それが学習であり適応であり、進歩であるのだから、当然のことなのだけれども。

 はじめてのことが起こったとき、仮にその仕事でもう暫く食い繋いで行こうと思っていたとしたなら、そしてそれなりに一定以上の思いを掛けていたとしたなら、何かしら不思議な感慨が沸き起こる。「ここまできたんだなあ」とか、「結局まだだめなんだなあ」とか、そういうもの。それは日々の単調さや辛さを緩和させるために、心が故意に生み出している感想かもしれないなと時折思う。節目のない日々はきっとかなりぼんやりとして、味気ないものに違いない。


 先週、はじめて講演というものをした。
 研究発表やらMCやらで、人前で話すことに経験がないわけではないが、対価を貰って喋るというのは初めての経験であった。

やはり、自身の研究内容を発表するのと金を貰って話すのとは全く根本から異なる。研究発表の際には、聴衆がやや同業のプロであることが多く、共通言語が保障されているので前段が不要だ。自分が話したい点、つまりポイントだけを語ったとしても、その重要性や面白さを共有して貰えるという信頼が成り立っている関係だ(ある意味、内容に粗があるとてきめんにばれてしまうということもある)。

これが講演となると、聴衆の所属分野や依頼されたテーマ、講演時間に応じて内容をいちいち組み立てなければならない。更に、喋ることで対価を得るということから考えれば、責任を負うべきは喋る内容どうこうではなく、聴衆の満足度だ。満足度を高めるためには、聴衆の人数やホールサイズ・機材、音響などの環境設定の把握も欠かせない。

研究発表大会が、研究者が発表するためのハレの場で整え尽くされた「ホーム」であるとするなら、講演会場は講演者にとって「アウェー」に近いということを、実践の結果知ることになった。アウェーの会場で居心地よく振舞うためには、会場に自身の色を振り撒くパフォーマンスが不可欠であるということも。


 
 会社の名前と自分の名前を背負って、対価を得て言葉を連ねる。その言葉は自分のものでもあり、また自分のものではないという緊張感を、私はいつまでも同じ重さで覚えていられるのであろうか。
研究者として、またひとつ次のステージに進んだ気がする。

 


 ・・・かなり恐ろしいが、課題修正のため、当日の録画DVDを送って貰うこととしよう。
    ああ見たくない。