今年は「旅行づいている」年です
1月にはポルトガルに行きました。ついひと月前にはスロベニアとクロアチア。そして、じつは6月30日からは2泊3日で熊本に行って来ました。
この旅行は、私が「ミステリーツアー」と呼んでいる代物。航空会社の企画で、手持ちの積算マイルを使って申し込むと、その航空会社の路線のある4都市から勝手に「今回は〇〇に行ってもらいましょう」という返事がある、というもの。つまり、「4都市のどこかに行く」ということはわかってはいるけれど、その4つのうちの「どこ!」に行くかは自分では選べないのです
2023年の年末、私達夫婦は初めてこの企画を経験。高知に行って来ました。夫にとっては、この時が初めての高知で、私は小学校4年生以来56年ぶり。まっ、半世紀も前のことですから「初めて」のようなもの、です 高知城に行ったり、桂浜に行ったり、今はすっかりNHKの朝ドラでブームになっているやなせたかしさんの生まれ故郷、高知県香美市にあるあんぱんまんミュージアムに行ったり…と、とても有意義な時間を過ごしました
それで味を占めた
私達は、今回もこの企画に申し込み…決まったのが「熊本」でした
熊本は、2016年の4月に発生したマグニチュード6,5の地震に罹災。テレビの報道では何度も繰り返し見ていた痛ましい熊本城の姿… あれから9年が過ぎましたが、まだまだ熊本城は復興半ばです 市民達の有形無形の努力により、罹災後5年で天守閣は修復されましたが、城内のあちこちには大小様々な地震の爪痕が残っています。整然と並べられた崩れた石垣の石。壁にヒビが入り、歪んだり、傾いた城内の建物… 実際にそれらを目の当たりにしてみて、あの地震がどれほど大きなものであったのか?また、元通りにするためには、まだまだ途方もない時間がかかる、ということを、身をもって知りました
翌日には、天草に向かいました。夫の「レンタカーを借りて、天草に行ってみよう」の言葉に大賛成した私。私が、昭和43年に開通した「天草五橋と天草パールライン」に行ったのは、開通直後のことでした。その時、私は小学校3年生。車の運転が大好きだった父は、大阪から一人で運転をし、結婚10周年の記念旅行として九州各地を巡りました
その時の天草の記憶は「海がものすごくきれいなところ
」という程度。次の訪問地「雲仙」に向かうため、その時は、天草はドライブだけで、珍しく何の学習もしませんでした。記憶力の良い私は、とりわけ、子どもの頃に覚えたこと、教えてもらったことはとってもよく覚えているのです。けれど、天草に関しては、「きれいな海だ」というだけで、他に何の記憶もありません
ちょっと珍しいことです。
じつは、私の父はとてもとても教育熱心な人でねえ。父自身が向学心の高い人だったにも関わらず、家庭の事情で高い教育を受けることが出来なかった… そんなことが大きく影響したのでしょうね、我が子には是非ともという思いがあったのだと思います。なので、どんな小旅行をしても、それは物見遊山的な観光だけに終わることはなく、必ず「歴史的で文化の香り高い名所旧跡」を訪れ、私の年齢に応じた解説をしてくれて、たくさんの知識を授けてくれる… これは余談ですが、私が幼い頃には動物園や遊園地に連れて行ってもらった記憶はなく、初めて奈良にあるドリームランドという遊園地に行ったのは小学校2年生の秋。それも、。「ドリームランド?そんなとこ、知らんわ
」と言った私を不憫に思ったのであろう子どものいない叔父夫婦と一緒に。両親と遊園地に行ったことはありません
ということで、今回の「天草」はとっても新鮮でした
とりわけ、奇しくも「天正遣欧少年使節との再会」は、私にとってこの上なくうれしいものでした 「奇しくも」と書くのは大間違いでしょうね。なぜならば、天正遣欧少年使節団のメンバーだった少年達の地元は熊本や長崎だったわけですから。私は、彼らに会うべくして会った、わけです
…と、どんどん話を進めても「???」ですよね、すみません。ここで、あらためて「天正遣欧少年使節」についてご紹介させてください。
時は織田信長の時代。南蛮渡来のキリスト教は、少しずつ日本で広がりを見せていました。とりわけ、ポルトガルやスペインからの宣教師達が長い航海をやっとの思いで終え、最初に到着するところ、九州では、順調に布教が進んでいたようです。
大友宗麟(豊後の国、現在の大分県の武士)、大村純忠(肥前国、現在の長崎県の武士)、有馬晴信(肥前国、現在の長崎県の武士)はキリシタン大名でした。
天正遣欧少年使節に選抜された4名、「伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ(カタカナの部分は、彼らのカトリックの洗礼名)」は、まだ12歳、13歳でした。イエズス会によって開校された「有馬セミナリオ(現在の長崎県南島原市)」で学んでいた彼らは、いずれも身分の高い家庭の子ども達で、非常に優秀だったのです。有馬セミナリオでは、ラテン語、天文学、地理学、音楽、等々、西洋の学問が教えられていました。
そんな状況下、彼らは大友氏、大村氏、有馬氏の名代として選ばれ、1582年2月、ローマ教皇への謁見を主な目的として、長崎を出発します。その後、マカオ、マラッカ、ゴア、モザンビーク、そして喜望峰沖を回り、セントヘレナ島、とうとうポルトガルのリスボンに到着。2年半の航海でした。そして、その後、ローマ教皇への謁見も果たします。
各地では遠来の客として大歓迎を受け、またリスボンから帰路につくわけですが、彼らが無事に日本に戻ったのは、到着から8年後の1590年でした。
しかし、何とも残酷な運命… キリスト教の布教を奨励し、南蛮に思いを馳せていた織田信長は討たれ、彼らの帰国の2年前、1558年には、織田信長の後、実権を握った豊臣秀吉からキリスト教は禁教令が出されていたのでした。
いかがですか?きづかれましたでしょうか?私が「彼らと再会した」と書いたことに そう、彼らのヨーロッパの地の第一歩は、ポルトガルのリスボン、なんですよね
歴史好きの私ですが、中学高校時代は、自分が強く興味を持ったことは一生懸命勉強したものの、あまりヒットしないことは、スルーしてしまう…ということも頻繁にありました 一貫校でしたので、受験のために「全般的に覚える」という勉強の経験もありません
とっても言い訳がましいのですが、お恥ずかしながら「天正遣欧少年使節」については、世界史の時間に読んだり聞いたりしただけで… 終わってしまっていたようで、全く記憶にありませんでした。そんな私に、彼らは突然、日本から遠く遠く離れた、ヨーロッパの西の果ての国「ポルトガル」で私の前に登場したのでした
「…このお部屋には、『天正遣欧少年使節団の少年達』も入られました。彼らは、この豪華さに大変驚かれた、ということです。…」
コインブラ大学の講堂でも、トマールのキリスト騎士団の修道院でも、シントラのポルトガル王の離宮の広間でも、それぞれの町のガイドさん達が、彼らが私と同じ日本人ということで、にこやかに、詳しく、説明をしてくださいました
少年使節団の彼らは、リスボンからローマに向かう前にシントラの離宮を訪れ、ポルトガル王に謁見。大歓迎を受けたそうです。リスボン郊外の、高台にある離宮からは、遠く大西洋の海が見えます。眼下に見える海は青くきらめくばかり。大しけで彼らを悩ませたであろう大海原を、彼らはどんな思いで眺めたのだろう?広間の天井や調度品、美しいアズレージョの壁や階段は豪華で美しい… 500年近く前、初めて見るヨーロッパの文化の中で立つ彼らの姿に思いを馳せました
そして、天草 彼らに再会しました。
1560年、帰国を果たした彼ら4人は、ヨーロッパのいろいろなものを日本に持ち帰ったのだそうです。当時の楽器や海図、観測機など。中でも活版印刷機は、逸品でした。これは彼らが日本に持ち帰る約100年前にドイツ人のグーテンベルクが発明したもので、ヨーロッパでも聖書を始めとする書籍印刷に大きく貢献しました。当然、日本でも同様です。(じつは、この「活版印刷機」にも私はヒット。というのも、ついひと月前、スロベニアのブレット湖畔のブレット城でこの活版印刷機を体験したばかりでした)
「つながり」って、すごいですね 私は、あらためて「つながり、というもの」の素晴らしさ、豊かさ、愉快さ、そして重要さを実感しました。「場所のつながり」「物のつながり」「人のつながり」等々、広い広い世界ではありますが、時にはこのように時空を超えてもつながり、私達はみな、暮らしを営んでいるのだなあ、と
それぞれが個々の暮らしをしていると思いながらも、実際にはその暮らしは間違いなく過去ともつながっていて、その暮らしの中で用いているものは、じつは誰かがどこかで発明したもの。こんなふうに、いろいろとつながっている
じつは… 天正遣欧少年使節の4人は、日本への帰国後、それぞれが数奇な人生を歩みました。
伊藤マンショは、マカオに留学し、司祭となって帰国、長崎のコレジオ(学校)で教鞭をとっていましたが、キリスト教への弾圧激しい中、1612年に病死。
中浦ジュリアンは、伊藤マンショと共にマカオに留学。その後、九州各地で約20年間、信者への指導を続けていましたが、ついに小倉で捕らえられ、1633年に長崎で、汚物の中で逆さ吊りにされるという拷問により殉教。
原マルティノは、マカオに追放され、その後、マカオで日本語の書籍の印刷などにも貢献。けれど、1629年、日本に帰ることなく、マカオで亡くなりました。
千々石ミゲルは、使節団で帰国後、10年ののち、キリスト教から棄教。…と、そのように長年言われてきましたが、近年になり、確かに彼はイエズス会は脱退したものの、密かに信仰は持ち続けていたであろう、ということが判明。それでも、彼の人生に関しては、あまりよくわかってはいません。
いつもいつも、結論的に同じことを言って申し訳ありませんが 本当にいくつになっても「知ること」は楽しいです
これからも、どんどんいろいろな経験をし、その時間を楽しみながら、私の中で「あれこれをつないで」感動したいと思います
シントラのポルトガル王の離宮。天正遣欧少年使節が、当時のポルトガル王に謁見した場所。
トマールのキリスト教十字軍の修道院。
コインブラ大学。
トマールもコインブラも、無事にローマ教皇の謁見を果たした彼らが、リスボンから帰路の船に乗る前に訪れたところ。
スロベニア、ブレッド城内にある活版印刷機。