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マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

2400mの高地で知ったこと

2023年08月30日 | ためになるお話し

 

 

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2400mの高地で知ったこと

2023年08月30日 | ためになるお話し

 8月20日の日曜日から、2泊3日で立山に行ってきました。
いやいや、立山と書くには無理があります 「室堂に行ってきました」と書くべきでしょう。
 以前、私はこのブログに「我が家では朝起きるとすぐにyou tube で上高地と室堂のライブカメラ映像を見ています」と書いたことがあったのではないでしょうか?その「室堂」です。
 室堂の標高は2400メートル。高原というよりは、まわりを3000メートル級の山々に囲まれた山岳地帯です。これがヨーロッパアルプスであれば、こういう場所は数か所ありますが、日本ではめずらしいところ、ですね というのも、こんな高所まで、電車やバスを乗り継ぐだけで誰でも行けるのですから。

 すでにお話をしたことがあると思いますが、私の両親は山岳会のメンバーで、私は小学校1年生から、まさに「好むと好まざるとに関わらず」、両親や山岳会のメンバーと共に山行が課せられました
 いくら身体が軽く、健康だったとは言え、小学校低学年から大人と一緒に3000メーター級の山に登るのは過酷で、普段の日曜日はトレーニングのために、荷物を背負って低山へのトレーニング。動物園や遊園地には行ったことがありませんでした、トホホ。
 小学校3年生の夏には槍ヶ岳、4年生のGWには春の槍ヶ岳、夏には北穂高岳、5年生のGWには春の北穂高岳、夏には剱岳・・・と、他にもたくさんの山行をし、今となっては、本当に貴重な、滅多に出来ない経験ではありまし、長野や富山の地方紙に「〇〇岳登頂、最年少記録」などと掲載もしてもらいました。母が大事にとってあったその新聞の切り抜きも、私は疲労困憊の中での遺品整理で、エイヤー!と捨ててしまいましたが、笑
 そんな私が、中学2年で山行を辞めることが叶った理由は、正直、とても悲しいものでした。私をとてもかわいがってくれていた父の会社の従業員でもあり、同じ山岳会のメンバーでもあった方が、21歳の若さで、春の前穂高岳で滑落死。ちょうどその頃、若年性のパーキンソン病の兆候が見え始めていた父。私の意を決した「もう山には行きたくない」という意思を認めざるを得なかったのでしょうね。

 山行の中でも、私の「思い出」となっていたのが5年生の剱岳です。
高地への順化がなかなかうまくいかなかった父は、2500メーターを越えると、頭痛が始まり、体調不良になります そんなことで、私達親子3人は、1日、剣沢というところに張ったテントで高地順化をしました。その時の家族の時間・・・断片的ですが、今でもよく思い出すのです。私にとっての父は「厳しい人、怖い人」以外の何者でもなく、ほとんど雑談のようなことを父とした覚えがありません。そんな関係の父であったのに、あの夏、剣沢のテントの外で山を眺めたり、星空を眺めたり・・・
 さすがに、すでに体力や脚力、気力の問題で、私はその思い出の剣沢まで登ることは叶いませんが、室堂から見えた剱岳に向かい、父と話しました。父がなくなってから7年。良い供養になったのではないかな、と勝手に考えています

 さてさて。
今日、お伝えしたかったのはそんな超私的な思い出話ではありません。ここからが本題です
 ここにアップした3枚の写真。何だかおわかりになるでしょうか?
偶然、私が東京に戻る日の朝、目にした貴重な光景でした。私が泊まった雷鳥荘という山小屋。朝8時過ぎ、急に小屋の裏手が賑やかになりました。見ていると、小屋の方々が大きなビニール袋に入れられた「空のペットボトル」を何袋も小屋から運んでこられたのです。広げられた大きなビニールシートの上に積み上げて・・・それをネットでしっかりと包み、何度もほどけないかチェックされて・・・
 同じような包みを、2つ作り上げられました。小屋から運び出してから20分くらいの時間だったでしょうか。最初は、それをどうするのか?は見当もつきませんでしたが、それから10分ほどすると、大きな音が聞こえ、山の向こう側からヘリコプターが見えました。そのヘリコプターは、大きな荷物を機体の下に吊り下げ、立山連峰の雄山という山頂の小屋のところまで行き、そこでホバリング。5分ほどすると、少し形が違って見える荷物を機体の下に吊り下げ、もと来たルートを山の向こう側に向かっていき、消えました。今度は、立山連峰の一の越の小屋でも同じことを・・・
 そして、今度は違う色のヘリコプターがやってきて、雷鳥荘の上でホバリング。それが、写真の3枚目、です。

        

 世の中は便利になりました。どこにでも「ペットボトル」の飲み物があります。
私が子どもの頃は、「ポリタンク」と呼ばれる山用の水筒のようなものをザックに入れて登ったものです。今では、ザックにセットする袋状のものがあり、そこに水やスポーツドリンク等を入れ、長いチューブを口元まで持っていけるようにザックに取り付け、いつでも簡単に飲めるようになっています。
 3000mを越える山頂の小屋にも、ペットボトルはあります。
でもね、そのペットボトルの飲み物は、こんな風にしてヘリコプターで運ばれ、空のペットボトルがまたヘリコプターで降ろされる・・・何人もの人の労力を借りて、です。
 山では「ゴミは持ち帰りましょう!」と決められています。しかし、心無い人は、こっそりと捨てたり、持ち帰ることをしない・・・
 もちろん、室堂の山小屋では、ペットボトルは捨てられるようになっています。けれど、やっぱり、これだけ大変な作業になっている・・・私はあらためて、このことをお知らせしたいなあ、と思ったのでした。

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国内外の惨事へ「祈り」を

2023年08月20日 | みなさまにお願い

 コロナ禍が明け、今年の夏は「今年は4年ぶりに〇〇の開催が決まり・・・」と、様々な祭事や行事が行われ、日本のみならず、世界的に気持ちが解放され、迎える夏でした。
 しかし、そんなうれしく明るい気分の中で、日本では台風6号、7号が猛威を振るい、各地は想像を絶する災害に見舞われ、人々は様々な難儀に遭遇しました。
 台風6号は、夏休み利用の観光客で賑わうはずだった沖縄や奄美、宮古や石垣の島々を襲い、台風7号はお盆休みと重なり、交通機関にも多大な影響を与え、なかなか通常の状態には戻れませんでした。
 平和ボケした人々への戒めであれば、まだ理解も出来ますが、すでに世界中、すべての国々ではコロナで艱難を経験した後です。なんと残酷な・・・と思わずにはいられません そんな中に入ってきた耳を疑うニュースが、ハワイ州マウイ島、ラハイナを襲った火災でした。

 私は結婚前、日系アメリカ人二世の経営する英会話学校で、子ども達に英語を教える仕事をしていました。1980年代のことです。当時、すでに戦争は遠い昔の事、という思いでいましたが、今思えば、戦後40年そこそこ。私の上司であった日系アメリカ人二世の兄弟は、太平洋戦争中はマンザナール強制収容所で4年間を過ごした、という人達でした。当然、その当時の話しは簡単に話題に上るような内容ではありませんでしたが、たまたま、私が高校、大学時代に国際理解教育に関わった経験を知り、私が勤めていた5年の間、ポツポツと貴重な話をうかがうことが出来ました。
 その上司達のお父様は、浄土真宗の開教師でした。開教師とは、その宗教、宗派の教えを説き、広めるために熊本からカリフォルニアに行かれたのです。
 そんなこともあり、上司達のお妹さんは、マウイ島のカフルイという町のお坊さん(同じく日系アメリカ人)と結婚されていて、私は当時、何度かお邪魔をしたものです。そのたびに連れていってくださったのが「ラハイナ」の町でした。
 ハワイがまだアメリカの50番目の州になっていなかった頃、ラハイナはハワイ王国の首都だったこともある町であり、捕鯨の盛んな時代には、その中心地となった趣のある町でしたねえ・・・町の北側には、カアナパリというきれいなビーチがあり、そのビーチから眺めると、ただただ海が見えるのではなく、目の前にラナイ島が見えて、その景色もなんとも素晴らしかった あまりにラハイナの町とカアナパリが印象的過ぎて、新婚旅行にも選んだほどでした

 それが何人であろうと、人が困難の中にいる・・・と思うだけで胸が痛みます。直接、何かが出来るのであれば、許す限り、時間も労力も惜しみませんが、なかなかそういうわけにはいきません。でも、私達に出来ることはありますよね、それは「祈ること。」
 帰依する宗教、暮らしの糧とする教えが何であれ、一人一人が手を合わせ、困難の中にある人達の苦しみや悲しみがほんの少しでも癒されますように と祈るその思いは、きっと何らかの力となる、と私は信じています

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旅の変化、いろいろ

2023年08月10日 | 楽しいお話し

 子ども達は夏休みの真っ最中
今では、両親共にお仕事をされている家庭がとても多くなった時代ですから、毎日、子ども達が家にいることに辟易とするというママ達も少ないのかもしれません。
 とは言え、やはり冬や春と比べ、夏のお休みは長いですからね。「やっぱり、夏休み中には、一度は家族で旅行しないといけないかなあ…」とか「コロナが明けたんだから、久しぶりに家族旅行にGO!」というご家族も多いのでしょう

 先月、20年ぶりに東海道新幹線の車内チャイムが変わりました
20年間使われ続けた、TOKIOの「Ambitious Japan!」。2003年に品川駅が開業され、それを記念してこのチャイムになった、とか。
 二人の我が子達が大人になり、私が子どものことを気にせず、何か大事があるたびに、一人で大阪への帰省ができるようになった頃から、いつも当たり前のように聞いていたのがこの「車内チャイム」でした 2010年以降は、帰省の頻度が月1度と頻度が上がり、このチャイムと富士川鉄橋から眺める大きな富士山は、「私の日常の定番」となっていましたねえ…
 2020年秋に母が亡くなり、当然、月一の帰省はなくなりました。あれほど馴染みのあった大阪の町も、東海道新幹線も、四季折々の立派で大きな富士山も、すっかり「遠いもの」になってしまいました。あれから3年が経過し、そのことにも慣れましたが、当時の諸々が、はるか昔の事に思えることを少々寂しく感じます

 一昨日、テレビのニュースで「東海道新幹線の車内販売が終了する」ということが話題になっていました 乗客が車内販売でものを買うよりも、駅等で購入したものを持ち込むほうがはるかに多くなったから、というのが理由だそうです。確かに、今はコンビニに町中にも駅にもありますし、大きなターミナル駅では大きなスペースを使い、様々なお店が充実。わざわざ、品ぞろえ少なく、比較的高価でもある車内販売を利用するよりも、グッと満足度が高く、便利ですものね 
 でも、昔から、あの独特の音調?口調?で「お弁当に、サンドイッチ、アイスクリーム、ホットコーヒーはいかがですか?」「地域の名産品もお持ちしております!」と、ワゴンを押して、ゆっくり通っていかれる様子は、いかにも「旅をしている」という気分にさせてくれました
 それに子どもの頃は、あの車内販売でチョコボール?アーモンドチョコ?などを買ってもらうことが、「すごくうれしいこと」にも思えたもの、です…

 帰省も含め、「旅」というものは、やはり特別であるべき、と私は感じています。
道中の自家用車にはテレビ機能があったり、列車での移動中では、タブレット等でのゲームに興じられる。何かを買おうとすれば、コンビニは全国区。良くも悪くも、どこに行っても必ず定番のものは並びます。
 そんな時代だからこそ、是非ぜひ、親の方が意識をして、「旅」「帰省」だからこその「特別」を作ること。そんな大層なことではなくても、ちょっとした言葉かけで、子ども達は新しい何かを感じたりできるもの 
 そこから新しい学び、発見があれば、その旅や帰省は、子ども達にとって一層有意義なものになりますね
 「へえ、そうなんだあ」「そうなの?すごい!」「ふーん、知らなかった!」etc. etc.
是非、そういう貴重な「種まき」のチャンスにしてあげてくださいね この種まきは、中学生、高校生、大学生になった我が子に対しても同じです。いえいえ、じつは、大人である私達にとっても同じですよね。「気づきのためのひとしずく」は、とってもとっても大事です

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