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クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

万博が始まりましたね。

2025年04月20日 | 楽しいお話し

 大阪・関西万博、開幕しましたねえ
大阪に開催地が決まっても、ふーん…という感じでしたが、あの世界一大きい木造建造物となる「大屋根リング」が発表されると、それは見てみたいなあ、と思ったものです きっとあの中に立つと、圧巻でしょうね
 私は、前回の東京オリンピックの年に小学校に入学。大阪万博の年に中学1年生になりました。そういう意味で、私は「ああ私は、すべてが右肩上がりでどんどん発展していた『古き良き昭和』の中で成長したんだな」と、しみじみ感じています。

 1970年の大阪万博の開催が決まって以降、大阪の町には桜の花びらをモチーフにした(と思っていましたが)シンボルマークが溢れ、あちこちの店ではシールなども配布してくれたことを覚えています。私はとてもワクワクして、そのシールを木製の勉強机に貼っていました
 とにかく、当時、皆が開催を待ち遠しく思っていたように思います。何せ、海外旅行なんて「夢のような世界」のお話でしたのでね。そんな時代に、世界のたくさんの国々が、待っているだけで大阪にやって来てくれる そんなイメージでした。

 ちょっと話が脱線しますが。
あの頃、テレビの人気番組に「アップダウンクイズ」というものがありました。そのクイズのオープニングは、司会者が「夢のハワイへのご招待、アップダウンクイズ」満面の笑顔で叫ばれます。
 応募して選ばれた回答者6名(だった、かな)が「ゴンドラ」と呼ばれる上下への可動式の1人用の箱のような乗り物に乗り、早押しで回答。正解すると、1段上がり、間違うと一気に下まで落ちる。みごと10問正解すると、くす玉が割れて… 
 会場にはスチールギターのハワイアンミュージックが流れ、他の回答者そっちのけで、セレモニーに移るのです。
 10問正解者の前には、なんちゃってタラップが運ばれ、本物のJALのCAさんがミニ丈の制服姿で、造花のレイをもってタラップを登っていき、レイをかけてゴンドラを開ける 10問正答者は、もう「ハワイへの一歩」の気分です…
 そう、まさに今では一般的とのイメージのある海外旅行地ハワイでさえ「夢のハワイ」だった時代でしたのでね。

 話を戻すと… 万国博覧会で、いろいろな国のパビリオンが建設され、開催期間中は、その国からやってきたコンパニオンさん達もやってくる「Hello!」はまだしも、「Bonjour!」も「Buenos dias!」も「Buongiorno!」も、映画の中の言葉でしかなかったですから。ちなみに「你好 ニーハオ!」はまだありませんでした。日中国交正常化は、この万博の2年後、1972年のこと、でしたので。

 私は、学校から1回、母と一緒に3回、両親と1回、計5回、万博会場に足を運びました。
大阪は小さな県ですが、縦には長く、私の生まれ育った「堺」は大阪市の下、大阪府の地図でいくと真ん中よりちょっと下、というところで、万博会場までは片道ゆうに1時間半はかかりました それでも、往路はいつもワクワク、復路は夢見気分でねえ
 学校の創立記念日の5月12日に、初めて万博に行き、母と太陽の塔の前に立った時には、感激で泣きそうになったことを今でもよく覚えています 今、こうしてキーボードを打ちながらもウルウルします 太陽の塔はかなり不思議な容姿で、芸術を理解する能力の低い私には、何を意味しているのかはよくわかりませんでした。でも、入場ゲートを入ってすぐの広いスペースの、大きな天井を貫いて前を見る金色の顔。左右に腕状のものを広げて立つ姿は、とにかく、ものすごいインパクトでした
 「人類の進歩と調和」それが、あの万博のテーマでした。2025年の今、著しい進歩を遂げた世界ではありますが、いまだに「調和」とはほど遠く、世界のあちこちで不協和音が生じていることは一地球人として、残念でなりません…
 毎回、たくさんの驚きと学びをたくさんたくさんもらった万博でしたが、広い会場をまわるのは本当に大変でした その大きな理由は、「履物」にあったのだよなあ、と今振り返って思います
 今ではすっかりタウンシューズとなった「スニーカー」ですが、当時はスニーカーという言葉さえなく、このタイプの靴は「運動靴」と呼ばれ、本当にスポーツをする人や、近所の学校に通う中高生以外には無縁の履物でした。あの頃は、大人は本革のビジネスシューズ、ヒールのあるパンプスを履いていて、電車通学をするような中高生はコインシューズと呼ばれるタイプの靴を履いていたものです
 もし、あの頃に「歩くことを科学的に考慮したソールのスニーカー」があったならば、きっともっと楽にまわれたれたことでしょうね。

 そんな素晴らしい万博でのあれこれの思い出ですが、そんな中でも、私が最も印象に残ったことは、じつは外国のパビリオンでも、国内企業の目をひく展示品でもありませんでした。
 それは何かというと…7月に母と会場を訪れた時、急に降り出した雨の中での出来事。「豪雨とも言えるような強い雨の中、傘もささず、裸足でキャーキャーはしゃぐティーンエイジャー達の姿」でした
 私だけではなく、へばりつくようにパビリオンの壁にくっついて雨宿りをしている日本人達は、呆然とその様子を眺めていました…

 雨が降れば傘をさす それは今でもそうですが、私が思うに、昔はもっと「小雨でも傘をさした」ように思います。今では、ちょっとした雨であれば、傘をささずに歩く人の姿は少なくはありません。ちょっと横断歩道を渡るとか、駅まで、ビルまで、傘をささずに小走りで歩いている姿…
 それは、日本の社会や暮らしがこの50年でかなり欧米化がしていることもその一番の理由でしょうが、私達が日常に着ている装いの変化にもあるのかも、と思いました
 洋服の素材、化学繊維の進化は著しく、速乾性に長けたものも多いですし、装いそのものも履物同様、大きく変化しました。「普段着と、外出着(よそいき)」の区別もそれほど大きくなくなりましたしねえ…
 いずれにせよ、雨の中で大はしゃぎするティーンエイジャーの姿は、当時の私にとって「外国そのもの」のように思えました。まるで、アメリカのテレビドラマのワンシーンを見ているようでした…

 両親も他界し、実家もなくなった今、大阪はすっかり遠いところになりました。母が亡くなるまで、毎月欠かさず、2泊3日で帰省していたのは信じがたいです。
 夫は、中学や高校の同窓会にも毎年顔を出し、大阪とは今でも「馴染み」ですが、私はなかなか同窓会にも進んで行く気にもならず…
 叔父や叔母が高齢になっていることを思えば、何か敢えて用事を作り、親戚周りをする方が良いよな、と思うのですが、腰は重いです
 こんな感じなので、ニュースを興味深く見ながらも、きっと万博の会期は終わってしまいそうですが、1970年の開催時と同じく、何とか無事に「惜しまれながら」終わるような万博であって欲しい、と心から願っています

 

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「ライフ・マナーズ」のご紹介

2025年04月10日 | ためになるお話し

 4月は新年度。入学、進学、就職、etc.
今日は、そんな「切り替え」の時期だからこそ、笑ったり、呆れたりしながら読み進めていただき、そして、そんな経験をしたからこそ私が実感している「ライフプランを考えることの重要性」についての今回のトピックを読んでいただきたいと思います
 67歳になった私。そんな私の結婚後の人生を振り返ってみると、とりたてて人に迷惑をおかけしたり、何か悪事を働いてきたわけではないのですが… ちょくちょく「マイナスの出来事」が起こりました 中でも、家族の健康に関する問題では、本当に心を痛めました

 夫のトライアスロン練習中の自転車の落車事故やガン、息子の心臓病の手術、等々。それらのすべてが毎回「命の危険」を伴うもので… 大変な思いはしたものの、それらをそのつど無事に乗り越えてきたからこそ、今、こうして「気づきの話題」として書くことが出来るのですが 実際にはその度に頭を抱える悲しく辛い出来事でした

 夫の自転車の落車事故は、沖縄の伊江島、というところで起こりました 当時、夫は企業家達の趣味のトライアスロンチームに所属していて、その年の7月は初の試み「メンバー家族と一緒に伊江島合宿」をしていたのでした。事故は、その最終日に起こりました。
 スイムとランは大好きで得意だった夫が、一番苦手としていた自転車… 事故後、伊江島には小さな診療所しかないため、すぐに沖縄本島の名護市にある県立北部病院に運ばれることになりました。伊江島から沖縄本島の本部(もとぶ)まではボートで行き、そこで待ってくれていた救急車に乗りました。
 その時の夫の顔は真っ白で、私は生きた心地がしませんでした なのに、夫は救急車の中で「ほんまに救急車って、止まらんと走るんやなあ…」と私に向かってつぶやき、そして今度は自由に動く手で救急隊員さんにトントン合図をして「あの、僕は、救急車に乗るのは初めてなんです。すごい経験です初めての救急車が沖縄なんて、すごいです」と言い… 私は呆れるやら、悲しいやら、情けないやら… 救急隊員さんもお返事に困っていらっしゃいました
 事故そものもは単純な落車だったのに、なぜか骨盤骨折、恥骨骨折、肋骨骨折という大きな怪我となり、事故を起こした当日は夜中まで内出血が止まらず、ドクターから「奥さんはホテルに戻っても、必ず携帯電話を横に置いて休んでください。いつでも病院に駆け付けられるように」と言われ… 私はホテルの部屋の天井を見ながら、一睡もできませんでした。

 2006年、あの頃は、まだまだ医療保険が一般的ではない時代でね…
もちろん、意識の高い人達、用心深く、常に準備を怠らない人達は、すでに外資系の保険会社では一般的になりつつあった医療保険に加入されていたと思います。
 夫はいち早く「ガン保険」には加入済みでしたが、医療保険には未加入。市民アスリートの夫は、自分の健康状態に自信、過信があったのですよね
 当時は、我が子達はまだ大学生でしたし、教室もありましたので、私が沖縄でずっと夫に付き添う、という訳にはいきません。なので、私は夫を見舞うために7回も沖縄東京を往復したのですよ そのうちに、利用便で数回顔を合せるCAの方に「ご主人様、お加減はいかがですか?」などと聞いていただき、ほんと、苦笑でした
 ということで。
夫の沖縄本島での約1ケ月の入院費、当時住んでいた横浜に帰ってきてからのリハビリ入院の費用。私の7回の交通費、宿泊費、etc.etc.  いやー、正直、かなりの高額の費用です… もし、医療保険に加入していたならば、間違いなく大きな助けになったはずでした
 いろいろな意味で痛い目にあった私達は、すぐに医療保険に加入したのでした

 息子の心臓病罹病や手術は、その2年後でした。
医療保険の重要性を理解し、夫婦で加入はしたものの… 当時、我が子達はまだ20代前半でしたのでね。節約を考えた訳でも何でもなく、まだまだ子ども達は若いから…という思いで医療保険には加入しなかったのでした… 本当に愚かでした
 そんな状況下での息子の罹病。とんでもない突然の出来事ではありましたが、そんな中でも本当にたくさんの幸運が重なり、命を救っていただくことができました。どんなに感謝してもしきれない思いです ただ、そういう大きな大きな感謝の思いとは別次元のこととして… 大きな手術でしたし、入院期間もかなり長かったですからね。それに要した費用は、推して知るべし

 当然ですが、息子の退院後、子ども達の医療保険にも加入しました。ただ、若さには関係なく、一度大きな病気、手術をしたりすると、医療保険加入にもいろいろ制約は出てきます… 健康だからこそ考える「医療保険」なのだなあ、とあらためて実感もしたものです。

 そして、10数年、穏やかな暮らしが続きました でも、悪いことは忘れた頃にやってきます 今度は、夫。たまたま忙しさを理由に、胃の内視鏡検査を1回スキップし、2年半ぶりに検査をしたところ… 食道ガンが見つかりました
 そこで、またまた痛い目に。
「む?医療保険に入っていない、と書かれたところに『夫はいち早く、ガン保険には加入していたけれど…』と書いてあったでしょう?ガンは見つかってしまったけれど、今回はしっかりとガン保険でサポートされるでしょう」と思われましたか?
 はい、そうなのですガン保険には加入していました。「いち早く」です。でも、この「いち早く」がミソだったのですよね…
 夫がガン保険にいち早く加入した当時の「初期のガン保険」には、今ではすっかり世間に認知された「先進医療」というもののない時代でした
 つまり、初期のガン保険でカバーされるのは「外科的な手術と抗がん剤治療」のみ。」現在のような陽子線や重粒子線などの先進医療での治療という選択肢はなかったのです。そう、「ないもの」を補償することはできませんものね

 夫は、一度は外科的手術を選択し、そのためにある大学病院に入院までしたものの、まさに奇しくも、夫の高校時代の友人が、陽子線や重粒子線を照射する医療機器を作っている企業に勤務されていて、その上、その開発に携わったエンジニア系の部門の「えらい人」になっていたため、夫は入院中、手術までの十分な時間を有効に使い、みっちり、その友人から先進医療機器、先進医療でのガン治療について学び、国立がんセンターの放射線科のドクターをも紹介してもらって… すでに入院中であったにも関わらず、勝手に治療方法を変更することを選択
 夫は、入院中の大学病院から、先進医療での治療をするため、国立がんセンターに転院したのでした。
 そして、本当にありがたいことに、陽子線照射と抗がん剤投与という治療方法で食道ガンを克服 めでたしめでたし
 でもね… 先進医療のとても高額な費用は… すべて自腹でした
 その高額な治療費用を支払い、退院をした10日後、図らずもに知ることになったのですが… 夫は、後述するファイナンシャルプランナーから「南坊さん、ご加入中のガン保険は初期のものなので、見直しをしましょう古いものを解約しなくても、今は『先進医療特約を追加』という手があるのです。手続きは簡単ですし、私のほうで手配を進めますよ」とまで言っていただいていたのに、夫はあろうことか「大丈夫、大丈夫アスリートは大怪我をすることはあっても、病気にはなりませんよー、僕は健康管理はバッチリです、ハッハッハ」と豪語していたとのこと。
 私はそのことを知り、歯ぎしりをする思いでした…
 食道ガンに罹病するまでの夫は、仕事がお休みの週末は、朝からずっとアルコールを飲み、近所をお散歩する時も、時々、いい調子でコンビニでチューハイを買う始末… 当時、子ども達から「パパ、完全にアル中の傾向あるよねえ」と言われていたのに、何が健康管理バッチリ、だったのでしょう…

 さてさて。
みなさんは、笑うというよりも、呆れられたかもしれませんね 私は、そのどちらでもかまいません、ふふふ。
 なぜかって?それは、私が懲りずに、何度もよく「ジュエリー・マナーズ」をご紹介することと同じ意味だから、なんです
 私は「ジュエリー・マナーズ」のお話をする時、ご説明しますよね。自らの経験から知り得たこと。
 「アクセサリーは身を飾るだけのもの。でも、ジュエリーというものは根本的に意味が違うのですよ。装う本人にその違いの認識がなくても、宝石への理解が深まると、ジュエリーが単に身を飾るものではなく、人にとっての『エネルギーの源であり、魔除けや厄除けである』という真価を理解していただけるようになりますよと。
 ライフ・マナーズも同じです。私が身をもって経験した、笑えるような、呆れるようなマイナスの出来事の数々。そんな痛い目から私が実感していること。
「保険というものを、単なる保険ではなく、『自分の、家族の、尊いライフプランを考える上での重要なツール』『安心してスマートに生きる姿勢を整えるためのアイテム』だと理解している」のだと

 今では、「保険を見直す」という考え方も広がり始め、「保険の見直しの会社」が町のあちこちにある時代になりました。まさに昔のように一社の保険を「言われるがままに契約する」のではなく、複数の保険会社から自分に合った保険を選ぶ、選び直す、という考え方ですね。人に会うことなく、ネットで調べ、ネットで加入することも可能な時代です
 でもね、私が今日、みなさんにお伝えしたいことは「保険を見直すのは大事ですよ」ということではないのです。
 もちろん、その事にも大きな意味はありますが、私はもっともっと深い意味で「保険」を捉えて欲しい、と思うのです (とは言え、私は「保険会社のまわしもの」ではありません、ふふふ)
 私が自分自身の苦い数々の経験から気づけたことは「生命保険、医療保険、学資保険、傷害保険、損害保険、自動車保険」等々、それらの保険そのものに着目し、「保険」を考え直すのではなく、今の自分の収入、貯蓄、住宅ローンも含め、家族の現状をしっかりと把握した上で、家族みんながより豊かで安心な人生を歩んでいくために、しっかりとしたライフプランを見直すことの重要性、です。
 私や夫のように、痛い目にあってからその重要性を実感するのではなく、こういうことを決して後回しにしたりしてはいけない、ということ。
 4月、5月という年度の始まりは、物事を見直す「良きタイミング」でしょう。とは言え、こういうことはなかなか素人の力では叶いませんね。
 そこで、私はみなさんが安心して、適切なアドバイスを求められる、信頼できるプロ集団をご紹介したい、と考えています。目に見える自分の、家族の5年後、10年後。長い人生の絵を提示してくれるライフプランナーに出会って欲しい、と思っているのです
 そして、あってはいけないことですが、万が一、たとえそれが小さな小さなものであっても、マイナスが身に降りかかった時、すべての煩雑な手続き等を、一切を親身に代行してくれるプロ達をご紹介します。 

 これが、私の考える「ライフ・マナーズ」であり、ご紹介したいのが (株)ブロードマインド です。
(株)ブロードマインドの創業に関わったS氏は、トライアスロン時代の親しい友人です。私のママ友達の中には、ご家庭のライフプランだけではなく、ご主人様の個人事業主や企業経営者としての節税対策の提案をしてもらった方々や、子ども達の進学や就職、結婚というような大きな節目に、新生活のライフプランに添ったアドバイスをもらい、大きな安心につながった…という方々も大勢おいでになります。
 とにかく。なかなか素人では見通せないこと、知識が及ばないこと、ばかりの世界です。「そんな時間はない」という、ある意味での言い訳をし、重い腰を上げない「見直し」です。でも、40歳、50歳を過ぎると、60代以降の暮らしを見据え、本当は大真面目に考え直さないといけないこと、だと私は痛感しています

 相談に費用はかかりません。
何で?何だか気持ち悪い…と思われるかもしれませんが、いえいえ。これに関しては、この企業の利益に関するシステムが、相談者から利益を得る、というものではない、というだけのことで、何らいぶかしものではありません(いぶかしいものを紹介する私、と思われてしまうのは悲しいですが… やっぱり、ご不安にはなられるかもしれないので、敢えてお伝えします)
 ある卒業生家庭は、ご子息の中学進学を機に、これからの高校卒業までの6年間、その先のライフプランをしっかりと考えたいという思いから、ご両親の加入している様々な保険、家の災害に関する保険等、すべての保険を見直されました。
 同時に、子どもの出生時に加入した学資保険も見直し、将来の留学なども視野にいれた、変化の著しい時代に合った保険を選び直されました。
 また、こちらのご家庭にとって、想定外の大きな収穫だったのは、ライフプランナーと一緒に住宅ローンをも見直されたことでした。
 お母様にもお仕事があり、ご両親共に多忙を極める毎日でしたが、すべての見直しに関わる煩雑な手続きもすべて代行してもらい、スムーズに万事を済ませ、結果的に毎月に支払う保険料の大きな節約にもなった、というご報告がありました
 我が家の娘も、結婚や出産、転職等々、何かあるごとにブロードマインドの担当者に相談し、「このままでOK!」「ここの一部を見直しましょう!」というふうにアドバイスをもらい、豊かな生活設計をするために上手にブロードマインドを利用しています。
 「今の家庭の現状」をあらためてつまびらかにし、エキスパートの助言を仰ぎ、その上で、家族や子どものより豊かな将来のために、ライフプランナーと家庭生活を考えること 一度是非、真剣に考えてみてみるのはどうでしょう?

 私にお知らせいただければ、すぐに担当者にご連絡いたします。
コロナ以降は、リモートでのご相談も可能ですし、週末のお手すきの時間に、渋谷の近未来的なビルに出向かれるのも良し、です。
 私に連絡をするのはちょっと…であれば、直接ご連絡をなさっても良いですね。ただ、できればいろいろと便宜をはかっていただくためには、ライフ・マナーズの担当者をご紹介する方が、話しは早く進んでいく、とは思います
 
 年度替わりなので…ということで、思い切ってご提案をしたため、今回もすっかり長くなりましたが、今ではなく、もう少し先に…というようなことであれば、会社名だけでもメモに残しておいてくださいね

 

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香港ジュエリーへの思い

2025年03月30日 | 楽しいお話し

 この暖かさ 先週、都心でも朝、急に「雹」や「雪」が降り出し、びっくり仰天したことがウソのようです。いよいよ、全国から桜開花の便りも始まりました。それでも、この時期の気候は不安定。「花冷えの日」もあるので、今年は比較的、長く桜が楽しめるのでしょうか
 昭和の時代、平成の初期には、桜は「入学式のお花」でしたが、気候変動のせいで、今ではすっかり「卒業式の時期の開花」となっていましたよね。でも、今年は早い時期の入学式ならば滑り込みセーフかもしれません

 前回、オマケのお話として、少しだけ保税展について触れましたが、最終日の4月6日までまだあと1週間は会期中なので、ちょっとした「雑学」として、ジュエリーのお話をさせてくださいね
 今回の保税展にも出展されている香港からのブランド。「ピュリティジュエリー」というのがそのブランドです。あとはもう一社、極々わずかですが、ダイヤモンドの特殊加工のブランドから出展されているだけです。
 昔を知っている私としては、この状況をとても寂しく感じています というのは、昔の保税展では、香港からの出展ブランドは数社あり、それらのケースを眺めているだけでもぜんぜん飽きない…うっとり時間でした 美しいヒスイを中心としたジュエリーを扱うブランドや、ダイヤモンドジュエリーを得意とするブランド。また、ルビーやエメラルド、サファイアに代表されるような色石(ダイヤモンドと区別するためにこのように呼ばれます)を中心に扱うブランド、etc. これだけでも3社ですからね。
 こういう香港からのジュエリーの人気が高かったのは、ヨーロッパのブランドと比較した時、ほぼほぼ価格設定がかなり「お買い得感のあるものばかり」というのも大きな理由だったことでしょう。
 それには理由があります たとえば… 「品質の面で、ヨーロッパ勢には劣るからですか?」No No とんでもありません、それは大きな見当違い
 香港ジュエリーにリーゾナブル感があったのは、あくまでも人件費や工賃の安さと、宝石そのものの流通量が非常に多かったから、ということが理由でした。
 「流通量」に関して、違う観点から説明をしてみましょう。
2020年の年末、私は白内障の手術をするついでに、眼内レンズを入れたため、それまで約10年近く楽しんだ遠近両用のメガネライフを終えました。みなさんご存知のように、とってもメガネ好きだった私は、何本ものメガネを使っていましたでしょう?素敵なフレームを見つけると、あれこれと悩みつつも、熟考の末に購入
 でもね、そんな風にあちこちのメガネ屋さんでメガネを作ると、ほぼ同じ会社の、同じ「レンズ」を使うのに、支払う代金には大きなバラツキがありました もちろん、フレームの値段の違いが価格に反映されるのは当然です。でも、仕上がり価格の違いは、同じ種類のレンズを入れるにも関わらず、「レンズそのものの値段の違い」から生じる価格の違い、だったのです
 初めてメガネを作るメガネ屋さんでは視力検査をし、その上で「度数もすべて、了解しました それでは、レンズは「ニ〇ン社」の薄型の遠近両用レンズにしましょう。」とか、「うちでは「HO〇A社」の遠近両用を使っていますので…」のように、使うレンズについてお話をしてくれました。大抵が「同じ種類のレンズ」でした。
 でも… とてもとてもオシャレなフレームを扱っている小さなお店、知る人ぞ知る的なメガネ屋さん、そういうお店では、総じてレンズそのものの価格が高い
 それに対して、テレビで頻繁にCMが流れているようなチェーン店の場合、海外で買ったフレームを持ち込み、レンズを入れてもらおうとすると…同じ種類のレンズでも、かなりお安く出来上がります
 不思議さにやっと気づいた私は、ある時、思い切ってたずねてみました。すると、お答えは「なるほど~」と合点がいったことを今でもよく覚えています。
 つまり、オシャレなお店、知る人ぞ知る系のお店では、「ニ〇ン社やHO〇A社」のレンズを、1年間で100本程度しか仕入れない。それに対し、チェーン店では、1店舗でひと月に100本近いオーダーをする。そして、オーダーは個々の店舗からではなく、チェーン店でまとめて発注をする…となると、同じ会社の同じレンズであっても、その時点で発注数が大きく違うため、仕入れの価格も大きく違ってくるということなんですよね。
 大口の発注をかけるチェーン店のメガネ屋と、小さな小口のメガネ屋とに、レンズメーカーが同じ価格でレンズを卸すわけがない、ということ、だったわけです。こんなことは当たり前のことでしょうが、私はその時、妙に「おー、物の価格というものは、こんな風に決まっていくのですね」と、身をもって大発見をした気分になったのでした。

 ということで、これは宝石業界でも同じ、ということです。
香港には昔から、たくさんのジュエリー加工業者があり、たくさんのジュエリーを扱う企業があります。そして、ジュエリーの製作に、それぞれが高い技術のしのぎを削っていました。そんな香港には、大量の加工前の宝石が流れました。チェーン店のレンズが安いというのと同じ理屈です。
 そして、それを加工する工賃、人件費も安い…こういう理屈で、なーんにもマイナスの要因などはないけれど、香港のジュエリーは欧米のものに比べて安価だった、わけなのですね
 そんな香港のジュエリーには、昔は、ものすごく素晴らしい品質の「ヒスイ」のジュエリーがたくさん出展されていました。「香港からのジュエリーはヒスイ、翡翠ですよね」というほど、たくさんのヒスイのジュエリーが紹介されました。指輪も、イヤリングやピアス、ペンダントトップ、そして大ぶりの高価なブローチもありました。
 でも、ある時を境に、ヒスイのジュエリーはどんどんと減っていき、とうとう、ここ10年くらいは全く見られなくなりました 香港は中国に返還されましたし、どんどん中国本国が豊かになっていき、富裕層と呼ばれる人達が増えいきましたからね

 中国は、ヒスイの産出国ではありません。そんなふうに思っている人は多いですね
けれど、むかーし昔の様々な王朝の時代から、中国ではヒスイが珍重され、人の大きさほどあるような「置物」にも使われました。
 そんな中国では、文化的に、伝統的に、ヒスイの装飾品の代表は「太い腕輪」。ブレスレット、という音からイメージされるような華奢なものではなく、ドドーンと腕にはめる「腕輪」です。富裕層の人達が、「富の証」として手にいれ、装われるのがそんなヒスイの腕輪だとしたら…きっとリングであれば10個以上、ピアスであれば5個以上のピアスが出来るじゃないでしょうか はっはっは。
 今では、ペニンシュラホテルに座っても、昔のような「摩訶不思議な、独特の雰囲気」「ひとひねりある感じの、イギリス由来の空気」をあまり感じられることがなくなり… 香港は「中国の大都市」となっていきました。
 世の中は、いろいろとかわっていくもの、ですね
よく「古き良き時代」という言い方をします。それでは、今は良い時代ではないのか?と問われれば、もちろん、そういう訳ではないでしょう。けれど…

 今回、出展されているピュリティジュエリーは、ヨーロッパの「ジュエリー好き」の人達の方を向いているのではなく、中東や、今や発展途上国ではなく、新興国となってきたアジアの国々の富裕層の方を向いているのかもしれないな…なんて思いました。

 いくつもの小さな石を「1粒石」のようにセッティングする集合石の高い技術。洗練された、一工夫のあるオシャレなデザイン。ダイヤモンドを爪と呼ばれる金属で台座にセットするのではなく、ダイヤモンドの石そのものにレーザーで穴を開ける技術で生まれるネックレスやピアス。その輝きたるや、すごいですよ
 あんなに美しかった素晴らしいヒスイに出会うことはなくなりましたが… 私は今も「香港のジュエリーファン」です

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描かれ方、記され方の偏り?!

2025年03月20日 | 考える ひとしずく

 すでにお察しのことと思いますが、私は学校の教科で言うところの「社会科」が大好きです 小中高を通して、最も成績の良かった教科は「国語・現国」。最も成績の悪かったのが「算数・数学」です、はっはっは
 以前にも書いたかもしれませんが、私は高校1年から2年に上がる時、なんと「仮進級」と呼ばれるもの、でした
 私の母校の高校では、成績は100点での表記。どの教科であっても「40点」を上回らなければ仮進級とされました。もちろん、複数の教科が40点以下で仮進級という問題児もいるにはいましたが、なにせ、言葉は悪いですが「緩い、地方の女子の一貫校」でしたからね。
 保護者達は「読み、書き、そろばん」よりも、「笑顔良し、お料理上手、一通りの女子のたしなみに精通している」ということの方が重要だと思っていたであろう学校でしたので、そのあたりは先生方も心得たもの。大抵、先生方の温情で、40点はクリアしたものです
 ところが、私は3回も行ってくださった数1の問題集テストで、どうしても40点が取れなかった… 「問題集テスト」というくらいですから、テストの問題は問題集に出ていた問題だけが出題されるわけ、です。想定外の難問、奇問が出題されるわけではない にも関わらず…です。3回目の採点の後、先生も頭を抱えていらっしゃいました。

 職員室に呼ばれた私。先生の横に座らされ… 先生は間違った問題を丁寧に、丁寧に解説してくださり、「なっ、なっ、わかったやろ ほな、もう1回、自分で解いてみて、先生、見てるさかいに。」と本当にお優しいお言葉
 でも、緊張からではなく、純粋に私はどうしても途中で解き方がわからなくなる…もう、お手上げです。きっと、脳ミソの然るべき部分が働かない?否、数学を理解するための脳ミソが「ない」としか考えられません。
 職員会議の結果、「学級委員、クラブ活動、生徒会活動等、積極的に真面目に関わり、他の教科はすべて平均点以上が採れているから…」というご配慮で、めでたく「仮進級」と相成りました
 まあ、全く自慢できる話ではありませんが、学校の教科絡みで、こんなに思い出深い話も他にはありませんし、何よりも「どういう訳か、こういう子も確かにいる」ということを証明する良い例だとも思います。

 …と、私のお恥ずかしい思い出話をご披露した後、本題の「好きだったし、成績も良かった社会科絡み」のお話を。
 今まで何度もトピックの中で書きましたが、私は大学までの一貫校にいましたので、大学受験をしませんでした。
 今どきの大学受験では記述式が多くなっている、聞きます。だから、世界史や日本史の分野でも「〇〇は西暦〇〇年に起こった」等、シュアな年を覚えなくても良いのかもしれません。でも、私が高校生当時は、大学受験のためには、そういうことを覚えるのは必須の時代でした。なので、受験を経験していない私は、そういうことを一切覚えていません
 ただ、時代の流れや、世界の流れを知るための大きな要素として、ある程度の年代を知っておく方がすべてを理解しやすかったのは事実です。そういう理由で、「〇〇の国で、こんな反乱がおこったのは△△の頃で、その影響で□□の国にこんな動きが生まれた。だから、△△の時代以降、世の中はこんな風に変化していったわけで…」ということを知るのは大好きでした

 そんな私が、ここ数年、とても気になっている、というか、あらためて気づいたことがあります。それは、学校で教わったり、様々な番組から学んだ「歴史に関する知識」というものが、非常に「欧米寄り」「キリスト教世界寄り」である、ということ

 2019年の6月、私はトルコ旅行に行きました。
こういう言い方は妙ですが… 当時の私は、それほどトルコに詳しかったわけでもなく、特別に興味を持っていた国でもありませんでした。ただ、結婚してまだ間もないころ、夫が出張のトランジットでイスタンブールに1泊することになり、その時、ボスフォラス海峡を眺め、目の前を行き交う船を見て感動した、という話をしていたことをよくよく覚えていたのです
 たまたまお友達と「どこかに行きたいねえ…」と話していた頃、奇しくも使っている旅行社から「リーゾナブルなプランがあるのですが、いかがですか?」と紹介されたのがトルコでした。なので、せっかくなので行ってみよう と、すぐに行くことを決定。
 主だった名所、旧跡をめぐり、有名な遺跡や、私の大好きな地質学的に見ごたえのある景観をたくさん見て、イスタンブールに戻りました。そして、オスマン帝国時代の政治の中心地、トプカプ宮殿へ…
 そこでね、想定外の驚きがありました それは何だったかと言うと…
その旅行のグループでご一緒していたほとんどの方達が、トプカプ宮殿内の要所、要所で「ああ、これがあの部屋なのねえ」「信じられない!確かに、あの場面は『ここ』だったわ」「そうそう、この通路でヒュッレムが怒り狂ったのよね」等々、感極まり、声が裏返らんばかりに話されたこと。
 私も、友人も、何が何だかさっぱりわからず… 決して大袈裟ではなく、そこでアウェイの様子だったのは「私達2人だけ」でした

 トプカプ宮殿の見学の後が昼食だったので、そこで、みなさんに「さっきの大興奮は何だったのですか?」と、おたずねてみると… すべての方々がトルコのテレビドラマ「オスマン帝国外伝 ― 愛と欲望のハレム」というトルコのテレビドラマシリーズを観ていて、是非ともトルコに行きたくなったのだ、というのです。

「オスマン帝国外伝 ― 愛と欲望のハレム」は日本での題名で、トルコ語の原題は、「Muthtesem Yuzyil(ムフテシュム・ユズユル)」直訳すると「壮麗なる世紀」となり、英語題では「The Magnificent Centurey」
 トルコ本国では、2011年から2014年まで放送され、シーズン1からシーズン4まであり、全世界で8億人もの人が視聴したという人気ぶり
 内容は、オスマン帝国の最盛期を築いた「スレイマン1世と彼の后ヒュッレム」、そして、その時代や、スレイマン1世の子や孫、ひ孫の時代までを描いたドラマ。シリーズ4まである、とんでもなく長い長いドラマなのに、数年後には、その続編まで出来た、という、まさに壮大な「歴史ドラマ」です。

 とにかく、ランチの間も、興奮さめやらない方達の話題は尽きず、数々の登場人物の話題や、宮殿内外で起こった主要な出来事などで盛り上がり… 私も友人も、そのお話を聞いているだけで、かなり詳しくなりました
 普通、ドラマや映画の話題の場合は、大抵が主演級の俳優さん達の話しが中心になるものだと思うのですが、この時ばかりはそんな話は一切なく、そのドラマ内で描かれた登場人物の「かけひき」や「事故や事件」。そして、単なるテレビドラマなのに、みなさんが話した内容は、当時、オスマン帝国に敵対していたヴェネチア共和国や周辺諸国、ヴァチカンやローマ教皇にまで話が及んでいたこと。
 そのドラマの奥深さを実感した私は、一刻も早く帰国し、何らかの方法で「オスマン帝国外伝 ― 愛と欲望のハレム」を観なくちゃと気持ちが焦りました。
 ということで、帰国後、すぐに視聴したことは言うまでもありません。
各シリーズには40話程度ありましたので、全話を観るには膨大な時間がかかりましたが、まさに「寝る間を惜しんで」観ましたねえ… ほんと、ドラマの展開が面白いのなんのって…
 内容のところに記したように、主役はオスマン帝国の繁栄に導いた「スレイマン1世」。そのスルタンと后達の暮らしをドロドロと描きつつも、史実には非常に忠実で、彼が精力的に遠征をした周辺のキリスト教国家との戦いや政治的な駆け引き、アドリア海や地中海の海戦で活躍した元海賊で、オスマン帝国海軍の「バルバロス」なども登場します

 こんな風に、私はこのドラマを観ながら、あらためて当時の様子に思いを馳せたわけですが… 図らずも、すごーく重要なポイントに気づいたのでした
 それはどういうことかと言うと… 私達が、いかに世界の動き、歴史というものを「欧米側」「キリスト教の国々側」からの視点で知らされているか、という事実。

 このドラマでは… トプカプ宮殿に「ヴェネチア共和国」からの特使がやって来て、スルタンであるスレイマン1世を謁見する時、彼らはたくさんの貢ぎ物を持参し、玉座に座ったままのスレイマン1世の前にひざまずき、スルタンの着る豪華な長い衣(カフタン)の裾を両手で少し持ち上げ、そこにキスをします
 また、オスマン帝国がギリシャの東側の地中海で「スペイン、ヴェネチア共和国、ローマ教皇の連合軍(神聖ローマ帝国)」と戦った時の報告を、オスマン海軍の最高司令官バルバロスは、いかにキリスト教の連合軍が無様であったか、いかにオスマン軍が勇敢で立派な勝利を手にしたか、を意気揚々とスレイマン1世に報告をします

 でもね、私達が学校で教わる時には、大抵が「ヴェネチア共和国を、オスマン帝国が揺るがす存在になった」や「オスマン軍が攻めてきた」というふうに、主役級は、あくまでもキリスト教国家側、というのでしょうか…
 つい最近観たNHK-BSの番組でも、「栄華を誇っていた海洋国家ヴェネチアは、攻勢を強めていたオスマン軍に攻めてこられた」と紹介されていましたし、「レコンキスタにより、イスラームからイベリア半島を取り戻したスペインだったが、後々、またオスマン帝国の脅威にさらされる…」のように表現されていました。

 それって… なんだかなあ…って…

 そう言えば、こんなことを思い出しました。
私が本当に小さな頃、父が大好きで一緒に観ていた「コンバット」というテレビ番組がありました まだ白黒テレビの時代でした。
 あらためて調べてみると「コンバット」は、アメリカABC制作。第二次世界大戦中のヨーロッパ戦線下、アメリカ陸軍歩兵連隊のある分隊の活躍を描いたドラマで、アメリカでは1962年から1967年まで放送されていたようです。日本でも、吹替えにより全152本が放送され、60年代を代表する海外ドラマとして人気を博した、とか。
 私は当時、このドラマを観ながら「なんでお父ちゃんは、こんな殺し合いのドラマを観るんやろうなあ…」と、ちょっと嫌な気分になりながらも、知らず知らずのうちに「変わった形のヘルメットを被った方の人達が『悪もん』やねんな」と認識していました。
 そうです「変わった形のヘルメット」を被っていたのはドイツ軍。アメリカが描いたドラマだったので、味方はアメリカ軍であり、イギリス軍。敵はドイツ軍として描かれていた、というわけです。

 こんな風に、描き方、伝え方、描いた側、伝えた側の立場や認識により、それを見たり知ったりした人達の印象は大きく違ってきます
 受け止める側の私達は、よほどの先入観やマイナスの予備知識がない限り、もともとは「フラット」「公平」な立場でに見聞きしていたはずなのに…
 実際には「どのように知らされるか?」「どのように描かれたか?」によって、残念ながら結果的に「どちらかに偏った見方、認識」になってしまう…と感じたのです。

 そう、なんだかなあ…って…
フラットな目を持つこと。偏りのない知識を持つこと。大切ですね、本当に

  おまけ 

 春の保税展が20日、今日から始まりました。
行って来ましたよ~ 内容は、2月28日の「春の保税展のご案内」でご紹介した通りです。ちょっと気になったら、ご興味を持ってくださったら、是非、再度見てみてくださいね。
 今回初出展の「パトリック・マヴロス」、モーリシャスのブランドというだけあって、海にまつわるテーマのものがたくさん。なかなか強気のお値段ですが、英国王室でも人気…となれば、その理屈は納得です
 クリヴェッリは、いつも期待を裏切りません。
 ブログの中で、敢えて写真付きでご紹介した「ナニス」。いやー、いいですよ~ 私は、ナニスのショーケース3台の前から動けなくなりました 香港の「ピュリティジュエリー」も、斬新すぎず、それでいてオシャレなデザイン。
 いやいや、他のすべてにもコメントしたいのですが… それはやり過ぎなので、控えます

 おまけのご報告でした。
最後に… 写真を2枚、ご紹介しましょう 「108カラット」のダイヤです。大きさだけではなく、他のクオリティーも申し分ないもの。ドバイの企業が所有しているものを、保税期間中、展示しています。でっかくなので、装わせていただきました~ でも、私は、ここまで大きいものは必要ないとは思いますが、はっはっは

   

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「結婚42周年」を迎えました♡

2025年03月10日 | 楽しいお話し

 まさに、この時期は「三寒四温」と言われるように、春を思わせる日もあれば、冬に逆戻り…という日々を繰り返しています。こうして毎年、本格的な「春」になっていきますねえ
 …と、三寒四温という言葉を使いましたが、ふっと気になり、その語源を調べてみると…
 もともとは朝鮮半島や中国東北部の、天気や天候に関する「言い伝え」でした。そして、なななんとこれは「冬の気候」を表す言葉だったのですよ。
 シベリア高気圧の影響で、冬には、あの辺りは寒い好天の日が三日ほど続くと、次には暖かくて曇天の日が四日ほどやってくる… そういう「冬の天候を表す言葉」で、その言い伝えは科学的な理にも適っていたのです
 ただ、日本の冬にはこういう気候にはならず、むしろ春めいた時期に同様の天候が多いため、この言葉が中国から朝鮮半島を通じてやってきた頃、当時に日本人はこの言葉の意味を勘違いして使っていたらしい… まあでも、いつの間にかそれが定着し、今では辞書にも「語源は違うが、気候がだんだん暖かくなる意、にも用いる。」との記載があります。ほんと、何でも、調べてみるのは楽しいですよね

 さてさて。
3月5日は、結婚記念日でした。今年で、42周年を迎えました 結婚記念日には何かお祝いをするのか?となると… いやー、なぜか結婚1周年目から、タイムリーにその日にお祝いをすることは叶いませんでした
 なんだかんだ祝うのが好きな私は、1周年を迎えるかなり前から「その日はどんな風に祝おうか?」と楽しみにし、いろいろと考えていたのですが、夫は急に韓国出張が決まり、その日は不在になることが決定。千葉の流山市の社宅で、私一人でぼそぼそと食事をしながら思ったのです…「1年目がこれなら、もしかしたらこれからも結婚記念日はこんな感じになるのかも」と。
 そして、その残念な予想はドンピシャリ なぜか、結婚記念日は出張と重なることがとても多く、幸い日本にいても仕事でとっても遅くなる、等々。ははは、
 今年も、夫は大きな仕事のど真ん中だったため、私は「一人でぼそぼそ」ではありませんが、やっぱり一人で、好きなものを作って食べました

 ちなみに、2年前の40周年は「ルビー婚式」と呼ばれるのですよね。3年後の45周年は、サファイア婚式。50周年は有名ですね、金婚式です。
 せっかくの機会なので、ご紹介しましょうか?
1年目、紙婚式。2年目、藁婚式。3年目、革婚式。4年目。花婚式。5年目、木婚式。6年目、鉄婚式。7年目、銅婚式。8年目、ゴム婚式。9年目、陶器婚式。10年目、錫婚式(アルミ婚式)。15年目、水晶婚式。20年目、磁気婚式。25年目、銀婚式。30年目、真珠婚式。35年目、珊瑚婚式。そして、55年目がエメラルド婚式で、60年目がダイヤモンド婚式…
 だそうです。夫婦の絆の強さを表すように、年月が経過するたびに「柔らかいものから硬いもの」に呼び方が決められているのは面白いなあ、と思いました。

 今日は、笑っていただける それとも「はてなマークが飛びまくる」お話をご披露しましょう。
 みなさん、すでにご存知の通り、私は大阪の生まれで、父は中小企業の創業者でした。
私の母校は大正時代に創立された女子校(現在は、男子もいます)で、商売人さん達が集まり「うちの娘らが、気持ちヨー通える学校を、自分らで創りまひょや」てな感じで、小学校、幼稚園から順番に出来ていった学校でね。
 同級生の多くは、やはり私同様、中小企業のトップを含め、「商売人」と呼ばれる家庭の子女でした。
 私が高校1年になって間もなくの頃、意を決して父に言いました。
「あのな、セ〇リは大学受験することに決めたんやて。あそこのお兄ちゃん、神戸大にいってはるやんか。お兄ちゃんが受験する時、セ〇リも一緒に関西学院大学を見に行ってな、甲山の見える緑のキャンパスに憧れたんやてえ。せやから、これから3年間がんばって、関学を考えてるって言ってるねん。まどかはどうするのん?て聞かれたんよ。それからずっと考えてたんやけど、私も受験勉強がんばって、大学は他の大学を受験したいなあて思てんけど…」と。
 まだ話は途中のつもりでしたが、けんもほろろに一蹴 「なにアホなこと、言うてんねん」で、The End
 私の母校は、かなりの苦労人だった父や母の昔からの夢でね… 私は、父の起業後、中学から入学しました。合格発表の後、出来上がってきた制服を試着した私の姿を見た両親は、嗚咽して、喜んでくれました そんな父、母の夢の最終章は、私の結婚式で、お仲人さんに「新婦のまどかさんは、かの〇〇学院を卒業され…」と言ってもらうこと、だったわけです。この時点で「???」の方も多いことでしょう 今の私であれば、もちろん「」で爆笑しますよ。
 でもねえ… 幼い頃から、両親のたくさんの苦労話を聞かされていた私ですので、両親の夢を叶える道具?とまでは言わないまでも、私の存在で、両親の苦労が報われ、夢が叶うのであれば、何とかがんばってみようという思いはたーくさんありました。
 なので「他の大学なんて、絶対にアカン」と激怒されてからは、あっさりそんな希望は捨て、その替わり、高校の3年間、弁論大会や論文コンテストに熱中していった訳です。
 まあそれが後々「願書の添削」のようなかたちで、奇しくも「まどか先生の大切なお役目」につながっていった…不思議であり、ありがたいこと、でした

 私は25歳と2ヶ月で結婚をしたのですが、私の同級生の中ではかなり晩婚組でね。仲良くしていた仲間達の中では「最後の結婚」でした すでに、お友達は「一児の母」になっている子達がほとんどで… 父も母も密かにではなく、大いに嘆いていたものです
 でも、幸い、降って湧いたように夫が登場し、私の結婚も決まりました。でもね、今度はまた、別のことで両親が大真面目に「かなり」憂いていたことがあったのですよー。これまた呆れるような爆笑ストーリーなのですが…
 当時の大阪の「私のいた世界」では、お友達の結婚式に招待されると、必ず独身女性は「振袖」で出席しました それはそれはあでやかでしたよ。新婦の友人が座るテーブル1卓か2卓は「振袖軍団」でね。
 ところが、です。女の子達は結婚してしまうと、新婦のテーブルの装いは一変します 既婚者となると、振袖ではなく、みな「色留め袖」を着ての出席となるからなのです
 その色留袖がどんなに金箔と刺繍で彩られた豪華なものであっても、さすがに振袖のような華やかさは望めません…
 さっき書いたように、私は仲良し達の中では結婚が最後でしたからね。あでやかな「振袖軍団のテーブルはない」ということになります

 そこで、両親が考えたこと いつになく、にこにこと、私におもねるような笑顔で、こんな提案をしてきました。
 「タ〇コにも、オジョ〇も、ケイ〇にも、みーんな仲良しちゃんらには来てもろて… スピーチはタ〇コにしてもらうんか?そらエエなあ それでやねんけどなあ、ちょっとお父ちゃんとお母ちゃんで考えてたんやけど、仲良しの同級生だけやなくて、クラブの2年くらい下の後輩とか、ボランティアのクラブの後輩達にも来てもろたらどうやろなあ。エエと思うんやけどなあ、後輩らにも世話になったわけやさかいなあ、ははは
 私はすぐに両親の「思惑」がわかりました
まだ未婚の後輩達を披露宴に招待する 新婦の友人のテーブルは、1卓が豪華な色留袖軍団、そしてもう1卓は華やかな、若々しい「振袖軍団」の出来上がり。ありがたいことに、後輩達は、確かに、振袖を着てきてくれました、ははは。私の両親の意を酌み、婚約中の後輩も迷うことなく、振袖姿で登場
 化石のような話ですよね。私自身、書きながら笑えました
昔から、関東と比べると、比較的、関西圏は和服文化、和服神話、のようなものの強い土壌だったとは思います。そんな中でも、当時の私の母校の世界観には、独特のものがありましたねえ…

 そして、さすがにそれが校訓ではありませんが、私の母校は、基本的には「良妻賢母を育てる」のがモットーでしたので、キャリアを持って働く卒業生などいるはずもなく… 大抵、自分の生まれ育った環境と似た世界に嫁いでいきました。
 そして、親元からそれほど遠くないところで暮らし、我が子もまた母校に通わせる…というパターンが多かったのです。そんな中にあり、私はかなり「異色」でした。
 せっかくなので、もっと笑ってもらえるお話を。
大学時代、アメリカのニューヨーク州に短期留学中、何度か学生達との座談会がありました。その席で、度々こんな質問がありました。私の英文学科という専攻を聞いた後、アメリカ人の出席者達が「じゃあ、あなたは卒業後は、どんなふうに人生を過ごそうと考えていますか?たとえば、どんな職業があるのでしょう?」
 この質問に、私は常に満面の笑顔で、迷うことなく「Good wife! Good mother」と答えました。こう答えると、必ず不思議なしばしの沈黙があり、ハテナが飛んでいたのです… でも、当時の私には、その沈黙とハテナの意味さえ理解できなかったのですよねえ… 

 こんな笑えない、ちょっと辛い笑い話もあります
結婚後、私と同様、ずっと関東で暮らしている仲良しがいます。彼女も、私同様の数少ない「異色派」です。彼女は、私より2年早く結婚をしました。
 彼女のお嬢さんが就職活動をしていた時のお話です。
お嬢さんからこんなことを聞かれたのだそうです。「そう言えば… 今まで、ママのキャリアの話を詳しく聞いたことがなかったわよね。ママの仕事での苦労話はどんなこと?きっと参考になると思うから、あらためて聞いてみたい」と言われたので、友人は答えました。「ママは家事手伝いだったから、会社勤めはしていなかったでしょう?だから、仕事での苦労話ってものはないわね。参考になる話がなくてごめんね」と。
 お嬢さんは「カジテツダイ、カジテツダイって何?」と聞き返し… 黙ってしまったそうです。
そしてその翌朝、他の家族よりも少し早目に起きてきたお嬢さんは、いつものようにキッチンで朝食の支度をしている友人の横に立ち、神妙な面持ちでたずねた…
「ねえママ。私、ママは学校で優秀なんだと思ってたんだけど… おじいちゃまも、おばあちゃまもいつもそんな風に言ってたでしょう?もしかして、何か事情があったの?就活の直前になって、何か問題を起こしたとか… それとも、その当時、何か私の知らない精神的な問題とかがあって、社会人として貢献できる素養が無いって判断されて、家事を手伝うしかなかったの?私、ちょっと気になって…」と、深刻な面持ちで言われた、とのこと。

 今では、このエピソードはすっかり「思い出話の中の最大のヒット」となり、時々話しては大爆笑をしますが、当時はとっても複雑でしたねえ…
 なぜならば、その友人は私が尊敬して止まない読書家で、部屋には天井までの作り付けの書棚があり、そこにはびっしりと本が並んでいました。
 もちろん成績も良く、世話好きで、知識も豊富。花道も茶道も師範並み。お料理もとても上手で…まさに私の理想とする「良妻賢母」になる友人でしたから。
 今、彼女のお嬢さんが、母親のことをどのように思っているのかは知りませんが…  当時の私は、大切な我が娘に、母親の有能さ、すばらしさを理解してもらっていないことに憤りとも悲しさともつかない、複雑な思いを抱えたものです

 人や物の価値観は、「世の中の流れ」「自分が身を置く環境」に大きく左右されるもの、ですね
 まさか私が、自分のキャリアを持ち、微力ながらも人のお役に立てる仕事を30年近くもするとは想像もしていませんでした。
 娘が結婚を決めた時には、私は彼女に「絶対に仕事は辞めてはいけないわよ 子どもを授かっても、しっかり社会人としての自分のキャリアを大事にしなさいね」と真剣にアドバイスし、まさにその娘は今、2歳8か月児の子育てをしながら、自分の仕事も大切にして過ごしています。

 おかげさまで、42年間、波乱万丈の人生ではありましたが、今となっては「山も谷も」すべてが貴重な経験であり、一つ一つが尊い思い出です 山や谷を経験したからこそ学べたことも多々ありました。
 まあ、今の年齢を思えば、これから先は「平穏であること」を願っています、はっはっは 今日は、本当にダラダラ…とりとめのないお話で、失礼しました

 

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ジュエリーマナーズ「春の保税展 2025」のご案内

2025年02月28日 | 楽しいお話し

 2月も終わりますねえ 明日からは3月が始まります。
この時期は、毎年、ジュエリーマナーズの「春の保税展」のご案内をする時期です。保税展とは何か?については、「保税展とは?」をご覧いただくこととして、今日はジュエリーにまつわる「へえ」「ほー」「なるほど、なるほど…」を楽しんでいただこうと思います。
 まずは、先に保税展の会期と会場をお知らせ。

3月20日(木・祝)、21日(金)、22日(土)、23日(日)

3月27日(木)、28日(金)、29日(土)、30日(日)

4月3日(木)、4日(金)、5日(土)、6日(日)

いずれの日も、午前10時30分 ~ 午後6時、まで。
会場は、「ガレリア UCHIHARA」の地下2階ホール(保税蔵置場)、東京都港区六本木7-2-7です。
 すでに、21日(金)の午後と、27日(木)終日にはお約束がありますので、字消し線で消すことにしました。今日の最後にはパンフレットもアップしますね
 まずは、少しだけ出展されるブランドのご紹介。
今回は、初出展の「パトリック・マヴロス」というブランドがあります。なななんと、このブランドは「モーリシャス」からの出展です。モーリシャスって… むー、聞いたことはあるよなあ、島国だっけ?
 ピンポンピンポン はい、そうです
アフリカ大陸の東側にある島国マダガスカルの、さらに東約900kmにある島国で、広さは東京都くらいだそうですよ。この「パトリック・マヴロス」というブランドのジュエリーは、イギリスのキャサリン妃もご愛用とのことで… 何だかどんなジュエリーがやってくるのか、ワクワクします。
 久しぶりに香港からの出展「ピュリティジュエリー」、前回までは「ファルチネッリ」というブランド名で出展されていたイタリアのチャーミングなブランドは、今回からは「タヴァンティ」とブランド名を変更し、登場します。そして、ジュエリーマナーズファンにはお馴染み、盤石の地位を誇るイタリアの「クリヴェッリ」。今回も楽しみです

 そんな中で、敢えて今日ご紹介をする、イタリアの「ナニス」。
ブランドとしての云々は横に置き、今日はそのブランドの特長である「ビュラン彫り」についてご紹介しますね
 ビュランというのは、鋭利な「ヤスリ」の名称です。ナニスのジュエリーは、まずは18金やプラチナをつるつるに磨き上げ、その素材にビュランを使い、敢えて丁寧に彫りを入れていきます。
 つまり、せっかくつるつる、ピカピカにした素材に、わざわざヤスリで傷をつけていく、という訳です
 そして、その彫りの入れ方にも数パターンあり、縦方向、横方向にまっすぐに彫りを入れる方法や、ランダムに彫りを入れる方法など… それぞれの彫り方によって、出来上がりの風合いに微妙な違いが生まれるのですよ
 要するに、金やプラチナのジュエリーというだけで価値が高いわけですが、そこに「非常に細かい傷をつけるという手間をかけた技術」で、ひとひねり、ふたひねりを加えたジュエリーに仕上げている、のですね。まあ、ジュエリーとはそういうもの、ではあります 宝石だけをカットして、ドーンとリングに乗せる、ペンダントトップにする、というだけでも立派なジュエリーに仕上がるわけですが、やはりそこにデザイン性を高めるためにカットの仕方を工夫したり、別の色の宝石を合せたり、金属を曲げたり、金属の種類を複数にしたり、金属と宝石を合せたり…と、ひと手間、ふた手間を加えることで、一層すばらしいものになっていくのです。その「手間」こそが、「技術」でもありますね

 話をナニスに戻し… 説明だけでは、なかなか伝わらないと思いましたので、写真をお見せすることにします。
 私がスマホで撮った写真ですから、なかなか微妙な風合いまでは伝わりきらないとは思いますが

  まずは、これが「つるつる、ピカピカ」の状態です。私のスマホカバーの柄が写り込んでしまっているので、中央部分が黒く見え、私の手まで見えています(失礼)

  これが、ビュラン彫りを施した、上の写真と同じピアスです。じつは、さっきのつるつる。ピカピカの側が裏側。こちらが、ピアスの表側です。
 このビュラン彫りは、縦方向に直線の彫りを入れているのがおわかりになるでしょうか?

  最後がこちらです。わかりづらいかもしれませんが、この彫りは、直線の一方方向ではなく、ランダムな方向に彫られていること… 見えますかねえ?

 これらの画像はアップの状態で写しているので、同じように見えていると思いますが、実際には、上の二つ(表と裏を写したもの)と下の一つとは、かなり大きさが違います。下の方が、上の倍ほどの大きさがあります。そして、上の二つは楕円ではありますが、球体ではなく、ぺしゃっと押しつぶした楕円で、下のは球体です。また、上はピアスで、下は同じピアスでも、引っかけるタイプで、耳からブラブラと下がるもの。そして、微妙に違う彫り方も違う。この2つのピアスを、かなり雰囲気の違うものにしています。
 …となると、彫りの説明用に、と写した写真では同じように見えるものでも、大きさ、形状、彫り方の違いで、実際に装ってみると、かなり雰囲気が違っています。 おもしろいですよね。まさに「ジュエリーは見ているだけではわかりません。なので、それが小さな指輪であっても、身に付けて、必ず全身が映る鏡に映してご覧になってくださいね」と私がアドバイスする所以です

 いかがでしょう?少し楽しんでいただけましたか?
どんなこと、どんなものでも、「知ろう」とすれば、すべてが「奥の深いもの」ですね

 私は、教室を終えてからは、何も考えないで、今まで興味のあったことだけ見たり聞いたりしていては「脳ミソがダメ」になってしまいそうで… なので、敢えて新しいことに興味を持ち、より知っていこうとしています。幸い、すぐに「なんで?」「ああ、知らないはこれ」などと思う性分なので、今のところは思考も錆びついてはいないようですが、記憶力の低下のすさまじさを思えば、とにかく安心したり、満足するのは禁物だと自分に言い聞かせています。
 最後に、保税展のパンフレットを載せておきますね。
いつもお話をするように、初めての方、コワいもの見たさ…の方々、大歓迎です 保税展は、輸入前のものを展示しているため、すべての展示品は東京税関の管理下にあり、入場する場合には、事前に東京税関への登録が必要になります(なんて言っても、別に何も大層なことではありませんが、笑)。なので、おいでいただく日時が決まりましたら、必ず事前にお知らせくださいね。

 

 

  オマケのお知らせ 
  長い間、そのままになっていたブログ内の「ブックマーク」を新しくしました

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梅の季節の祈り・・・

2025年02月20日 | その他

 1月(いちがつ)は『いく』、2月(にがつ)は『にげる』、3月(さんがつ)は『さる』という具合に、本当にあっという間に毎日が過ぎていきます… 
 このフレーズは「校長が朝礼で話すトピックスの虎の巻」に書かれたこの時期の1節、のようです 確かに、私が中学2年生の3学期の始業式で、教頭先生がお話をされたこと、でした。
 そんな40年以上も昔の事を、今でもはっきりと記憶しているのは、子ども心に「ああ、教頭先生はうまいこと言いはるわあ。ほんまにその通りやなあ…」と感動したから、でした まさかそのフレーズが、男前の教頭先生がご自分自身でお考えになったものではなく、虎の巻から引っ張り出したものだったのだ…ということを知ったのは、ずっと大人になってから 笑うやら、呆れるやらでした、はっはっは。
 まあでも、確かに1月、2月、3月は、行ってしまい、逃げてしまい、去ってしまうように過ぎていくのは確か、ですね。

 でもでも。
そんなふうに、多くの人が感じる感覚とは全く違い、むしろこの3ケ月間を「長い長い、地獄の日々」だと感じている人達もいます…
 そう、中学、高校、大学受験生達とそのご家族 他にも、医療系の国家試験も多くはこの時期ですよね
 55年前、私自身の中学受験は3月1日で、発表は3月3日でした。息子の中学受験は2月1日が初日で… その後、息子と娘の大学受験は、1月中旬からスタート。
 家庭に受験生がいる、というのは、本当に大変なことです
 私は、人生で中学受験しか大きな入学試験を経験したことがありません。それも地方の、2教科だけの受験で、時代も違いますし、何よりも首都圏の中学受験とは比べ物にならないほど楽チンなもの、でしたからね。もちろん、そうは言っても試験である限り、合否はつきもので、当時も全員合格というわけではなかったので、「楽チンなもの」と身勝手に書いてしまうのは良くないかもしれません。ただ、私は親として息子の中学受験を経験した時、「ああ、私は今後、中学受験の経験があります」とは言わないでおこう、と感じたのでした。

 このブログを読んでくださっているみなさまは、「先生、何を勝手なことを書いているの このシーズンが受験の時期なんて、先生が言わないでください 私達の過酷で大変だった受験の時期は秋だったことを、先生が誰よりも一番、よく知っていてくださるのじゃないですか」とお叱りを受けますね。
 はい それは重々承知していますし、小学校受験と中高大受験とを比較して云々…しているわけでは全くありません。あくまでも、一般論としてのお話し、としてお読みくださいね。

 じつはこの前の日曜日、私は夫と一緒に「小石川後楽園」に梅を見に行きました。ここ数年、観梅は夫婦の恒例行事になっていて、昨年は熱海と世田谷の梅林を訪れました。
 この観梅が夫婦での恒例になったのに理由があります。 夫のオフィスのビルの前に、1本の梅の木があります。毎年、夫がその梅が咲き始めると、そばを通るだけで、何とも言えない良い香りがする 夫の言葉を借りると、「まさに香しい(かぐわしい)という言葉がぴったりやで」とのこと。たった1本の梅の木でそうなのだから、これが梅林ともなれば、どんなに良い気分になるのだろう…と思った、ということで、数年前からの行事になりました。
 残念ながら、今回の小石川後楽園の梅は、香りはそれほどではありませんでした 同じ「梅」であっても、品種はたくさんあります。花が立派なもの、香りが高いもの、等々、それぞれに特徴があるのだということを、観梅をするようになって知りました。けれど、青い空に映える梅の枝ぶり、可憐な花…やっぱりいいですね。

    紅梅とメジロ、です。長い間、見とれました…

 

   

 そんな中で、数組の親子を目にしました。ご両親と子ども。明らかに、どの家族の子どもも高校生に見えました。私達夫婦の勝手な想像ではありますが、「大学受験を終えた家族達」に思えたのです。私立大学では、明治大学や法政大学などを皮切りに、発表の時期ですからね。

 歩きながら、やっぱり今年も、夫の大学受験の当時の話しになりました。
東京での受験を終えた後は、合格発表は「電報での知らせ」を頼んだ、とのこと。当然、インターネットなどない時代。基本的には発表は「大学での掲示」を見に行く、ということだったものの、地方の受験生ではあまりに大変です。なので、当時はその大学の学生のアルバイトで「地方の受験生のために、受験番号を控え、合否を電報で知らせる」という方法があったのだそうです(大らかな時代だったのですよね。赤の他人に住所を教えるのですから )。
 「せやからな、僕は掲示の前で、跳び上がって喜ぶ!ってやつ、よーテレビでそんな光景が映ったやん。あんな気分を味わったことがないんやあ ほんま、残念なことやでなあ…」
 夫は、高校生ながら、毎日同級生の仲間とパチンコをしたり、麻雀をしたり、はたまた学生運動に参加したり…真剣さの欠如した受験生だったにも関わらず(大阪の府立高校だったのですが)、在学していた高校が進学校だったため、気持ちだけはバリバリの国立狙いだったという夫。電報を受け取った後も、まだこれから国立の試験がある身だったので、中途半端な喜びだったそうです。まともに勉強もせず、国立大学に入学できると思っていた、というところが厚かましいというか、厚顔無恥と言うか…
 毎年、この時期になると、2度3度、この話をして、自らの滑稽さを笑い、人生の面白さとして語ってくれます。繰り返される儀式のようなものですが、私も大いに楽しみます
 「やっぱり、合格いうもんは、ちゃんと喜ばんといかんよな、合格をくれはった学校に失礼というもんや。僕は、ほんまに取り返しのつかんことをしてしもたわ…」と言います。
 そんな夫は、我が子達の受験の時には、毎回、本当に跳び上がって喜びましたし、「まどか先生の夫」として、10月、11月は一緒に一喜一憂し、面接や試験の前には、お仏壇の前に立ち、「明日は何くん、何ちゃんやたかな?ななしちゃんでは祈られへん」とそれぞれの名前をたずね、一緒に祈り… 合格発表の後は、祝杯を上げて喜んでくれました

 そうです、私達が小石川後楽園で目にした親子達。何も「つけまわしていた」訳ではないのですよ、たまたま周るルートが同じだった、ということで…
 何枚も梅の写真を撮り、どのお子さん達も多感な年齢にも関わらず、ご両親相手によく話し、よく笑い、一緒に写真を撮る姿が印象的でした
 日頃はお節介の私です。いつもならば、し難そうに自撮りをしている人達がいると「私がお写真、撮りましょうか?」と声をかけることも多いのですが、あの日のご家族の空気には、他人が入っていくのがはばかられるような「温かい空気」が流れていたのでした。
 私と比較すれば、あまり敏感とは言えない夫も「きっと、どっかの大学に合格したんとちゃうんかなあ?ええ雰囲気やなあ。ほんま、親も子も、一番幸せな時やなあ… がんばったことが報われるのはうれしいことや、めでたい、めでたい」と、まるで私のように、勝手に家族の物語を紡ぎ、ニコニコ笑顔でした。

 じつは、馴染み深い「湯島天神」にも梅の木がたくさんあります。当然ですね、天神社ですものね。菅原道真公が愛した梅の花。全国にある約1200社の天満宮には、どこにも梅の木がたくさんあることと思います。なにせ「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花、主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」です。湯島天神の梅はほとんどが白梅で、満開の時期には、境内が本当に良い香りに包まれるほどです
 私は毎年、湯島天神に通いましたが、その時期は9月の後半でしたからね。残暑の陽ざしのもと、汗を拭き拭き境内で絵馬を書き、少しでも絵馬は上のほうに奉納しようとつま先立ちになり…でも、落としたら大変なので、無理はせず
 「まどか先生の私」にとっての湯島天神へのお参りは、何というのでしょうねえ… 使命感の塊というか… むー、それもちょっと違うでしょうか。
 武者震いというのか、ブーンと音を立てた「戦闘態勢」というか… もちろん、真摯に手を合わせ、一人一人の名前を唱え、本殿前で静かに祈るのですよ でも「どうぞ!どうぞ!合格をさせてください」という悲壮感にも似た気分ではなく、「天神様!菅原道真公!私の生徒達は、そして、そのご両親達は、みながんばりますよ~ なので、どうぞお守りくださいっ 面接でも、考査でも、持てる力を出し切り、ベストを尽くします なので、どうぞどうぞよろしくっ」そんな気分でしたね… ああ、懐かしい。

 けれど… 今のこの早春の梅満開の季節は、何とも切ないです 私には、もう何も出来ることはありませんからねえ
 中学受験に向かう子ども達、そして、高校受験、大学受験に臨む子ども達… 私の大切な卒業生達にも毎年、そういう子ども達がいます。高校受験や大学受験に臨む卒業生達は、すでに「子ども」と呼ぶには失礼な年齢でね。立派に成長したティーンエイジャーですから。何とか今年も、みなが笑顔で4月が迎えられますように 人事を尽くして天命を待つ、です。天神様どうぞよろしくっ

 2023年のマナーズ最後の秋に巣立っていった子ども達。その子達が大学受験に臨む年は「2035年」です。私は「77歳」になりますよ。その年までは、とにかくしっかり元気でいて、毎年祈り続けます

 2月には「30日」がありませんので、次回は「28日」にアップの予定です。

 

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オマケの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」

2025年02月10日 | 楽しいお話し

 2月に入りました。立春も過ぎましたが、毎年、本格的な寒さはまさにこの時期以降、ですよね 立春あたりからの猛烈な寒波襲来。たくさんのニュースが飛び込みました。中でも北海道の帯広等、比較的雪の少ない地域、道東の大雪の映像は想像を絶するものでした じつはまさにその時、夫は仕事で釧路にいて… 羽田に戻る便は全便欠航。結局、丸1日、釧路に足止めになりました
 毎回、「我が事」になって初めて実感する不便や不都合、不幸… それがどんなに大きな異変であっても、自分の暮らしに関係のない時には「まあ、大変だわ」「何てことなの」と思いながらも、よほどの大きな被害のあるものでなければ、悲しきかな、すぐに忘れてしまう 人とはそういうものだろう…とは思いながらも、あらためて今回、何か「マイナス」を知った時には、もう少し真剣に、もう少し思いを発展させて考えよう、と思いました もちろん、私が考えたからと言って、何かニュースの中の出来事がプラスに転じるわけはありません。でも、身近な人に起こったマイナス、自分に起こったマイナスにだけではなく、もっと様々な事に対して「心を向けよう」と思った出来事でした。(おまえは、何度もこんな反省をし、同じような決意をしているんじゃないかという天のカミサマの声がきこえてきそうです

 前回は、長い長い私の旅行記をお読みくださり、本当にありがとうございました そして、前回の旅行記には興味なし、とスキップをさせてしまった方々には、お詫びします
 …と書いておきながら、じつはあともう1回だけ、お許しをいただき、旅行記の続き、オマケを書かせてください
 「旅行記の続き」というか、もしかしたらいつか、この「続きから、別の展開」をご紹介することになるのではないか?という思いを持っているのです… 四の五の言わず、書き始めます
 私は前回、前々回「ポルトガル旅行」というように紹介しました。そう、その通りです。
 でも、ポルトガルのポルトに到着した翌日は、じつはポルトの町の観光をしたのではなく、ポルトから北に約200kmにある町、スペイン北部の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」という町に日帰りで行ったのです。
 今回のポルトガル旅行。今ではすっかりポルトガルの大ファンになり、いろいろと歴史や文化に詳しくなりましたが、叔母から「ポルトガル旅行に…」と誘われた時、全くノーマークだったポルトガルであるにも関わらず、すぐに食指が動いたのには訳がありました。それは 旅程にこの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の地名があったから、だったのです。

 たぶん、今から10年ほど前のことだと思います。民放のBSの番組、俳優の平岳大さんが番組の企画で、スペインのある町の大聖堂を徒歩で目指す…というのを偶然、観たのです。(今回、あらためて調べてみたら、2015年1月4日にBS-TBSで放送された『スペイン横断800キロ 平岳大と情熱の巡礼路』という番組でした。初回の放送は、2014年9月7日。)
 当時、私は全くスペインのことは知りませんでしたし、カトリックの信者でもありませんので、ただ、800kmも歩いていくのねえ… 巡礼っていうやつ、だなあ… という感覚で観ていました でも、なぜかとってもとっても心が惹かれ…
 そして、それから何年もが経過し… 数年前、NHK-BSでも、3回シリーズで、この巡礼についての番組が放送されました。その時には、平岳大さんの時とは別の巡礼路からサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に向かうものでした。
 2023年の12月、私がスペイン旅行に行く時には、残念ながらこの町は旅程に入ってはいませんでした。「ああ、残念。極一般的なツアーでは、サンティアゴ・デ・コンポステーラのような北スペインに行くというようなものはないんだなあ」と思い、出かけたのでした。
 こんなにダラダラと書いても「いったいなんのこっちゃ」ですよね、失礼しました

 サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に向かう巡礼。これは、「カミーノ・デ・サンティアーゴ」と呼ばれています。
「カミーノ・デ・サンチィアーゴ」は、人気の高いフランスからのルート、スペインからのルート、ポルトガルからのルート等、複数のルートがあり、ピレネー山脈を越えるルートは全長約800キロにも及びます。1日に、それぞれの体力に合わせて、約15キロから25キロを歩き、アルベルゲと呼ばれる巡礼宿に泊まり、決められた通過点で「巡礼手帳(クレデンシャル)」にスタンプを押してもらい、進む…
 現在は、徒歩の他に自転車での巡礼も許されています 昔は徒歩の他に、馬や馬車で、という巡礼の方法もあったそうです。
 この起源は古く… 長い長い間、不明であった「聖ヤコブの遺骸」が星の導きという奇跡により見つかり、その地に教会が建てられ、それ以来、皆がそこを目指すようになった、とのこと。諸説ありますが、聖ヤコブの遺骸が見つかったのは、814年と言われています。そしてその地を、カンポ(野原)とステーラ(星)を合わせた意味のコンポステーラと呼ぶようになった…「サンティアーゴ」は、「聖ヤコブ」のことを意味します
 また、この聖ヤコブのシンボルが「ホタテ貝」なのですね。なので、この巡礼路には、必ず道標や道のサインに「ホタテ貝」が描かれ、巡礼者達は何がしかの「ホタテのマーク」をつけて歩くそうです。
 めでたく巡礼をやり遂げた人々には、「巡礼証明書」が発行されます
本来は、全行程、平均約500kmを歩き切らないといけないのですが、現在では、100km以上を歩ききったことが巡礼手帳によって証明されれば(自転車の場合は、200km以上)、巡礼証明書が発行されるようになっているそうです

 12世紀には、年間50万人もの巡礼者がサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂を訪れたとか。そんな「カミーノ・デ・コンポステーラ(聖地巡礼)」ですが、ヨーロッパ全土を襲ったペストや各地での戦乱によって、長い間、下火になります。
 ところが、1980年以降、時のローマ法王がこの巡礼をあらためて重要視したことにより、この巡礼が「カトリックの聖地への巡礼」という意味合いだけではなく、カトリック信者でない異教徒であっても、それぞれにとっての「特別なもの」として尊ばれるようになり、現在に至っている… ということなのだそうです。

 せっかくですので、やっぱり写真でもご紹介させてください

   これが大聖堂です。

   大聖堂の中、祭壇です。祭壇の正面には聖ヤコブの像があります。

  巨大な「ボタフメイロ(香炉)」です。上の写真をよく見ていただくと、祭壇の中央に天井からロープで吊り下げられているのがおわかりになると思います。重さが80kgもあります。カトリックにそれほど馴染みのない!?日本人の私達では、なかなかピンとこないのですが… クリスマス等の映像で、一度はカトリックのミサの様子をご覧になったことがあるのではありませんか?あの中で、そのミサを司る司祭が、乳香という香りのする石状のものを香炉の中に入れ「手に持って」「手でぶらぶらと許す」儀式があります。本来、香炉とは、そういう「手で持つ大きさ」なのですね。ところが!ここの香炉は、天井から吊り下げられ、重さが80kg(しつこいですね)もあり、大きな儀式の時には、7人がかりで、滑車を使い、聖堂の中の空間にグワ~ン、グワ~ン、と揺らせます。もともとは、長い長い時間をかけて、聖堂にたどり着いた巡礼者達の「匂いを消すため?!」に始められた…と言われているとか。(youtubeで「サンティアゴデコンポステーラ 香炉」と検索すると、その動画がいくつか出てきますよ。その様子は壮観です!)

  祭壇の聖ヤコブ像。何と、誰でもこの祭壇の後ろ側に登っていくことが出来て、像の後ろから、聖ヤコブ様に触ることが(抱きつくことも、可能)出来るのです。巡礼路を歩くという偉業も成し遂げないままではありましたが、私も「抱きつかせて」いただきました。罰当たり、でしょうね、きっと

   大聖堂の入口。階段の横が「ホタテ」のデザインになっているのがおわかりになりますか?

  
 町中の、巡礼路の道標や、道にはめ込まれたサインです。

  じつは、巡礼路には「ポルトガルの道」というものがあり、リスボンから出発し、ポルトガル国内を縦断し、国境を越えてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに至ります(約620km)。ポルトは、その途中の町。なので、ポルトの町中にも、この巡礼路の道標を見つけました。

  大聖堂の前で会った高校生くらいに見える生徒達。学校の課題として、修学旅行的に巡礼路を100km歩いた、とのこと。彼らは首に「ホタテ」を掛けていました。さずがに彼らは若いんですねえ、元気いっぱいでした。じつは、聖堂内でも、聖堂の前でも、10組くらいの「巡礼者」と思しき方々を目にしました。リュックにストック、リュックにはホタテのワッペン…というのが、今の巡礼者のトレードマークのようです。
 失礼かと思いつつ、聖堂の前で英語でお声をかけてみました。フランスから巡礼路を歩いてこられた親子と、スペインの南部からの巡礼路を歩いてこられたご夫婦でした。「さっきまでへとへとだったんだけれど、ここまで来たら興奮して…今は何も言えない、考えられない」とおっしゃっていました。どういう言葉が適切なのかはわかりませんでしたが、やっぱりこれなのかな?と思い「Congratulations」と言うと、握手をしてくださいました。とんでもないことを成し遂げた方達との握手でした

  じつは、ここでとっても素敵なことがありました。これは、大聖堂に併設された修道院「聖パイオ修道院」です。現地のガイドさんに教えていただき、この修道院のシスター達が、代々レシピを受け継いでいるというスイーツを買いに行くことになりました。
 でも、そのスイーツ。大聖堂のショップのようなところで売られているわけではなく、まさに修道院の門を叩き、ドアを開け、小窓のベルを鳴らす… というシステム。中から現れたのは、満面の笑顔の、かなりのご高齢のシスターでした。
 娘は14年間、カトリック校のお世話になりました。私は今でも、娘が小学校に進学する時、幼稚園の卒園面談でシスターから言われたお言葉が忘れられません。今もお年賀状のやり取りはあるのですが、シスターはすでに80歳をゆうに越えていらっしゃいます。そのお言葉は、私の「母」としての道標になり、それは今も続いています。
 私は、この聖パイオ修道院のシスターから、3箱のお菓子を買い求めましたが、お土産というよりも、とても尊いものを授かったそんな気がしました。

  

 これで、とうとう(やっと)おしまい、です

 私はこの回の冒頭の部分に… 「旅行記の続き」というか、もしかしたらいつか、この「続きから、別の展開」をご紹介することになるのではないか?という思いを持っている… ので、この「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」について書きたい、と書きました。
 はい ピンとこられましたか?
私は、この「巡礼路を歩いてみたい」と思っているのです。もちろん、500kmなんて無理です。時間は十分にありますが、その距離を歩くのは、無理です。でも、100kmを何とか…
 今回、実際にサンティアゴ・デ・コンポステーラに行ってみて、また、サンティアゴ・デ・コンポステーラがあるスペインではなく、ポルトガルの町の中で(じつは、ポルトだけではなく、リスボンでも「ホタテの道標」を見つけました)たくさんの巡礼路の印「ホタテ」を目にして、その思いは以前よりも一層強くなったのでした…
 夢に終わってしまうかもしれませんが、この「カミーノ・デ・サンティアゴ」を歩く、という夢を持っていよう、と思っています

 3回に渡り、長い長い旅行記を、最後までお読みくださり、本当に本当にありがとうございました 2回で終わると思いきや、オマケまでついてしまい、申し訳ありませんでした お読みくださったみなさまには、感謝しかありません

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ポルトガル旅行、ちょっとご紹介

2025年01月30日 | 楽しいお話し

 ポルトガルから帰国し、ささっと片づけをした後は、すべき家事の時間以外、自宅にいる間は、すべて、ネットでのアルバムづくりに励みました
 私は高校生の頃から、何か行事があるとアルバムを作ったり、8mmフィルムを編集して、それにカセットで音楽を流せるようにレコードを録音したり…そんなことをするのが大好きでした 今の若い人達が、今私が書いた「8mmフィルムを編集して~」以降の文章を読んでも意味がわからないでしょうね
 そう、昔の動画は「8mmカメラ」で撮影(音は録音されません、無声映画のようなもの)し、それを写真屋さんで現像してもらい、部屋を暗くして、8mmフィルムの映写機で、白い壁や、シュルシュルとスクリーンを広げて、そこに映像を映して楽しんだものです。1本のフィルムは、約5分程度だったでしょうか… 運動会のような然るべき行事や旅行などで、映像が5分ずつの細切れになるのが嫌ならば、現像されたフィルム自体を特殊な器具を使って切ったり、貼り合わせたりして編集したのです。
 というわけで。もともと、私にはそういう「旅行記」的なものを記録し繰り返し見る…という趣味があったわけです。

 じつは、スペイン旅行の時、私は初めて「カメラ」を持参せず、スマホだけで済ませました。それがなぜか自分の中で「旅行なのにカメラも持たずに行った」なんていう、おかしな引け目になっていたこと、と、訪れる町について何の下調べもせずに行ってしまった、ということとがマイナスに相まってしまい、私は帰国した後、いつものように意気揚々とアルバムを作るぞ~という気分にならなかったのです…
 確かに、あの旅行の日程が12月の中旬で、帰国後は大慌てで年賀状の準備をし、発送をしたり、お正月の支度に追われていたことは事実です。そして、やっと落ち着いた頃には、帰国から1ケ月以上が経過していた…という具合で、それが「アルバムなし」になってしまった一因でもあります
 けれど、それまでのすべての外国旅行では、帰国したら数日後には町のプリント屋さんに出かけ、開店から閉店まで丸一日お店の機械の前に座り、写真を編集。途中、何度もスタバに行き、コーヒー休憩 お店の方々にもコーヒーブレイクしてもらい、長い時間、一人で機械を独占してしまうお詫びの思いを…としたものです
 そして、編集の数日後、アルバムとして写真だけのアルバムが出来上がってきたら、今度は自宅で、いろんな色のサインペンやラインマーカー等を使い、手書きでのコメントを書き入れる…そんなアルバムづくりをしていました
 「スペインのアルバムなし」という状況の後、昨年の夏にスイスへ。この時も持参したのはスマホだけではありましたが、スペインでの写真で、十分にその画像の美しさを再認識した私は「ああ、もうあの旅行用に使っていたコンパクトカメラを持って行くことはないなあ…」と思ったものです 少し寂しくはありましたが… そして帰国後すぐに、アルバムを作り始めました
 この時からプリント屋さんに行くのではなく、ネット上で完結させるもの。自分で選んだ大きさのアルバム、各ページの写真のレイアウトも数種類の中から選び、これまたそのページの決められた箇所にパソコンで説明文を打つ…という私にとっては新手の様式スペースの関係で、 説明文の字数には制限がありましたが、それは当然ですね。まあでも、じつは写真を選んだり、配置をしたりする以上に、この字数に制限のある中で説明文を書くことには骨が折れました。書きたいことをしっかりと書きつつ、簡潔に、印象に残る良い文章にする… (これって、願書の項目を書く要領と同じですね
 出来上がってきたスイスのアルバムを見て「ああ、やっぱり作って良かった~」と実感。何度も何度も見返し… 完全なる自画自賛ではあるのですが、見るたびに満足し、感動、ふふふ
 すると… あらためて「ああ、私はスペインのアルバムをこんな風に一生懸命に作らなかったから、訪れた町の地名も、その町で見て学んだ諸々も、記憶が不確かになるのだなあ…」と、合点がいったのです。
 これではいけない せっかくのスペイン旅行が台無しになる そう思った私は、旅行から1年も経ってはしまったものの、それこそ年賀状も発送し終え、お正月の準備も整えた後の数日間で、スペインのアルバムも作りました 新手の方法では、お店に出向かなくても良いですからね。早朝にでも深夜にでも、やっぱりコーヒーを何度も飲みながら、パソコンの前に座るだけ。
 サイドテーブルの上にいろいろ資料を広げ、ネットであらためて調べながら… 「うんうん」「そうだった」「なるほど~」「だからそんなことになったんだあ」「そっかそっか」etc.etc.
 今度は、帰国したら必ず、すぐにアルバムを作ろうと誓い、ポルトガルに出発
 1月26日、日曜日の深夜。お尻がペタンコになるほどパソコンの前に座り続け、5日間かけてのポルトガルのアルバムが完成 発注も済ませたので、今は仕上がったアルバムの到着を待っています

 まさに自画自賛です
なので、全く他人の旅行にご興味のない方、ポルトガルという国にあまり関心のない方は、どうぞ今回はスキップしてください そして、もしポルトガルや歴史や文化等に関心のある方は、見てみていただけますか?
 発注したアルバムの大きさはA4で、76ページもありますので、その中の極一部のお写真と、それらが何であるのか?の説明文を載せることにします。
 幸い、ブログには字数制限はないのでアルバムに書いた説明にこだわらず、自由に説明文を書くことにします。

   
  

 ↑ ポルトガル第2の都市「ポルト」。世界遺産の歴史地区には見どころが多く、ポルトの象徴的な景色が「ドウロ川とドン・ルイス1世橋」でしょう。この橋は、1886年、エッフェルの弟子によって建設され、上はメトロと人用、下は車と人用の二重構造の橋です
 15~16世紀の大航海時代の先駆けとなったのが「エンリケ航海王子」。彼はこの町で生まれ育ちました。王ジョアン1世の第3王子という彼には「王座に就く」という道は厳しく、自ら道を拓く!という努力が、国をリードする功績の源となったのでしょう。リスボンと並び、坂、坂、また坂の町で… しっかり1日歩いて観光をしたら、足の裏が痛くなりました。
 余談ではありますが… 最近は「on」というブランドのスニーカーを愛用していますが、旅行中は脱ぎ履きのしやすいものがベターと思い、スケッチャーズのスリップインを履いて出かけました。歩くことを考えると、ソールはonのほうが良いのかもしれません

   

  

 「コインブラ大学」 ポルトから南に約80kmのコインブラ。ローマ時代から栄えたコインブラは、モンテゴ川河畔の町。リスボン、ポルトに続く第3の都市。ローマ時代の遺跡は大学内も含め、町のあちこちに。何といってもこの町の象徴は「コインブラ大学」。丘の上に鎮座しています。
 世界で4番目に古い大学で、ポルトガル史上最大の詩人ルイス・デ・カモンイスは、16世紀の卒業生。ポルトガルの政治を独裁的に導いた元首相アントニオ・サラザールも卒業生であり、政界入り前はこの大学の教授でもありました。
 人口の約20%が学生とのこと。朝は登校する学生が目立ちました。「黒マントが学生のトレードマーク」と、以前、NHK-BSの番組で観たことがあるので、そんな彼らに会えるのを期待していました。でも、さすがにそれはNHKの演出?!だったようで… マントは全員、自前のものながら、今は入学や卒業、儀式にのみ着用するとのこと。
 ちなみに、世界最古の大学は、イタリアのボローニャ大学(1064年)、2位はパリ大学(1150年)、3位はスペインのサラマンカ大学です。

     
   

  

 ↑ トマールにある「キリスト教修道院」。
イスラム教徒からエルサレムを奪還したキリスト教徒。エルサレム巡礼の守護を目的で結成されたのが「テンプル騎士団」です(むー、世界史で習ったような…)。
 ポルトガル王アフォンソ1世により、その褒美としてこの地、トマールの高台を与えられ、1160年に修道院建設を開始します。
 騎士であり、僧でもあったテンプル騎士団(騎士団って、シュッとした剣を持った姿ばかり想像していて、祈りの毎日を過ごす修道僧だったとは全く知りませんでした(*_*)。
 しかし、一つの組織として富を蓄え、その裏付けで強大な力を持ち過ぎたことでローマ教皇から解散を命じられます。(その裏には、フランス国王の意思もあったような…) 
 そのあとを「なぜか上手く」すべてを引き継ぎ、再編したのが「キリスト教騎士団」でした。15世紀には、かのエンリケ航海王子が団長に就き、活躍をしたそうです。その活躍には当然、大きな資金が必要だったわけで… エンリケ航海王子がこの騎士団のトップにいたことが、ポルトガルの大航海時代を支えた大きな要因であることは確かです!
 出征していく騎士団達は、当然、聖堂で祈りを捧げて出かけるわけですが、聖堂は2つあり、一つは通常の聖堂。毎日、彼らが祈りを捧げる御堂。もう1つは写真にある「祭壇が聖堂の正面にある様式ではなく、聖堂の真ん中に、円形状に設けられている様式」です。それはなぜか?その答えを聞いて驚きました。
 その理由は、彼らが出征時「馬に乗ったままで、祈りを捧げられるようにした」ということでした。
 ほおー…とガイドさんの説明を聞きながら、その様子を想像してみました…
あの時、私はこの聖堂の中に立ち、丸い空間、中央の祭壇を見上げていたわけですが… 500年前、いざこれから遠征へ!と旅立つ修道僧が馬上で、同じようにこの空間でイエス像を見上げ、祈りを捧げ、聖堂内をくるりと一回りし、出て行った…
 やっぱり「空間に身を置く」ということは、時空を超え、感覚を知り得ることなのだな…と。すごいことです…

  

  

  

 「オビドス」 中世の箱庭、城壁に囲まれたおとぎの国の世界… ガイドブックの一文です。ポルトガルの最も美しい村... の1つに称されるこの町は、1282年にディニス国王が新婚旅行で訪れ、この地をとても気に入り、王妃イザベルにプレゼントをした、という町。それ以降、この町は代々「王妃の直轄地」となり、それは700年間続きました。
 いやはや、スケールの違う贈り物ですが、町に住む人達にとっては、どういうことだったのでしょう?王妃の所有地ということで、平和に過ごせたとか、何か恩恵があった、とか?
 町を囲む保存状態の良い重厚な城壁は、ムーア人がこの地を統治していた時代のもの。その厳めしい外観と、愛らしい町とのギャップが不思議な空気を生んでいました。この人口約800人の静かな町の周りには、たくさんの桜の木があり、日本と同じように3月下旬から4月上旬になるとピンクに染まるそうです。そして、その桜、チェリーから作られる「Ginja(ジンジャ)」というリキュールは町の名物。チョコレートで出来たおちょこ状の小さな小さなカップにジンジャを注ぎ、最後はそのチョコレートも食べてしまう… 面白いですよね。細い通りには、そのジンジャを試飲するための小さな屋台がポツポツと出ていました。

  

  

  「シントラ」 リスボンまで小一時間の距離の町。町全体が世界遺産です。
ポルトガル王家の夏の避暑地として愛され、大西洋を見おろす風光明媚な山間の町です。その歴史は7~8世紀、イベリア半島に侵入したアフリカからのイスラム教徒(ムーア人、と呼ばれることが多いです)が城を建設したことに始まり、その後リスボンを奪回した初代の王アルフォンソ1世によりポルトガル王家のものとなりました。
 今回、見学をしたのは王の夏の離宮ですが、町の至る所に当時の貴族や豪商達の別荘があり、薄ピンクやローズ、クリーム色等、華やかな外装の建物は「おとぎ話の町」を連想さ、少し浮世離れした景観でした。
 離宮の内装はアズレージョを多用していて、広間では、マヌエル1世はここでバスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓を決定したり、後年には日本の天正遣欧少年使節団の謁見も受けた、とのこと。彼らはこの豪華さに驚いたでしょうね。
 イギリスの詩人バイロンが「この世のエデン」と称えたそうですが… 中は迷路のようで、螺旋階段や細い階段を上ったり下りたり。バリアフリー感「0」。私は歩きながら「王様、王妃様は、何でも家来に頼んだんだろうけど、部屋から一歩も出ないという訳はないだろうし… よほど足腰が丈夫だったのかなあ?」と、へとへとになりながら考えていました… 庶民の要らぬ心配ですね、ハハッ。

   

 

 

  「ロカ岬」ヨーロッパ最西端の地、です。
16世紀のポルトガルの大詩人カモンイスが、「ウズ・ルジアダス」という叙事詩の中で、この岬のことを「ここに地終わり、海始まる」と書き記しました。原語では「ONDE A TERRA SE ACABAR E O MAR COMECAR」となるそうで、岬の碑文にも刻まれています。私は今までカモンイスという詩人も、当然、彼の作品も全く知りませんでしたが、この一文「ここに地終わり、海始まる」には聞き覚えがありました。
 地球は丸い、太陽を中心にして、地球はその周りを回っているという「地動説」が真実として世にしっかりと出るまだ前の時代です。そんな時代に、この広い広い大西洋に船を繰り出し、風まかせの船旅をした人々… 想像を絶することです…
 私はロカ岬に立ち、大西洋を眺めながら、そんな先人達の勇気と探求心、否、そんな簡単な言葉では表わしきれない心の内に思いを馳せました…
 この日の夜「君は確かに、ここヨーロッパ最西端を訪れましたよ!」という、シントラ市からの証明書(きちんと私のフルネーム、年月日が記載されていました)を受け取り、大感激。




 ↑「発見のモニュメント」リスボン、テージョ川の河畔に立つ巨大なモニュメント。バスコ・ダ・ガマがインド航路へ旅立った際の船出の地として知られるこのベレンの地に、1960年、エンリケ航海王子の没後500年を記念して建てられました。帆を張る巨大船に見立てたモニュメントには、エンリケ王子を先頭に、探検家や科学者、宣教師など33人が並び、その姿は圧巻です。前から3番目がバスコ・ダ・ガマ。後ろから2番目がフランシスコ・ザビエル。彼はバスク生まれのスペイン人ですが、ポルトガル王の要請を受け、宣教師としてポルトガル船に乗り1549年、日本にまで到達。イエズス会の創設者の1人。
 モニュメント前の地面には、大きな大きなモザイクの世界地図があり、ポルトガル人が到達した地名とその年月日が記されています。

 ああああ、長かったですよねえ いつ終わるのかと思われましたでしょう?
最後までお読みくださり、本当に本当にありがとうございました
 私は、こんな風に「納得のいくアルバムを作るため」を理由に、帰国後、たくさん勉強?をします。残念ながら、ずっと覚えているか?と問われれば、答えは「NO!」です けれど、こういうところでも、私のマナーズでの長年の持論「知ること、学ぶことは楽しい」を実践、実感しています。
 そんな私の「好み」に、今回もお付き合いくださり、あらためて、本当にありがとうございました 
 心からの感謝をこめて

 

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美しく、優しい国・・・ポルトガル

2025年01月20日 | 楽しいお話し

 1月20日、私は今朝、11時前に羽田空港に到着 じつは、1月13日からポルトガルに行ってきました。
 何年も前から、叔母(と言っても、叔父の再婚相手で、私と1歳しか年がかわりません)がポルトガルに行ってみたい、と言っていて、そのうちに叔父と一緒に行くのかな?と思っていたのですが、何分にも叔父は高齢… そんなことで、2019年にその叔母とは2人でトルコ旅行に行ったこともあったので、叔父のピンチヒッターとして白羽の矢が立ち、行くことになりました
 あの国にも、この国にも行ってみたいと思っている私ですが、ポルトガルはノーマークというか、あまり今までに考えたことのない、誰かとも話題に上ったことのない国だったのです…(ポルトガルさん、ごめんなさい)ポルトガル人の友人がいるわけでもなく、海外出張が多い夫も、今までポルトガル出張はありませんでしたので、残念ながら身近に感じたことがない国。なので「ポルトガル=世界史の中のポルトガル」でしかありませんでした

 2023年の12月、友人とスペイン旅行を終えた時、私は「世界を席巻した覇者として、一時代を築いた国、スペイン」であるにも関わらず、まともな知識を持とうともせず、出発してしまったことを心底恥じました。というより、何というのでしょうか… バルセロナ然り、アルハンブラ宮殿然り「知ったような気になっていた」というのでしょうか。 
 とにかく、「百聞は一見に如かず」の思いを持って、今回は「知らないことを、たくさん知ってみようそして、帰国してから勉強しましょ」の思いで出発しました。

 今回は、「ポルト」という町が旅の出発地でした。ポルトガルという国名は、この町の名前に由来する、と言われています。ローマ帝国の時代、ここは「Portus Cale(カレの港)」と呼ばれていたとのことで、その「港 Portus」の頭の方だけを使ったようですね。 
 そこからは南に下っていき、世界で4番目に古い大学コインブラ大学のある「コインブラ」、地理好きで、案外ポピュラーではない町の名前も「ああ、〇〇の国の町だったっけ?」などと思うことのある私であっても、初めて聞くような町々「トマール」「オビドス」「シントラ」。そして、首都のリスボン。それぞれの町には「壮大な歴史と物語」があり、楽しめました
 一時期は世界の覇者的存在で、アフリカや南米、インド周辺にたくさんの植民地を持った王国であったポルトガル。今では、むしろヨーロッパの貧しい国の部類に入るようですが、文化の香り高い、人がすこぶる優しく、食文化も豊か…  比較的、地味だけれども、本当に素敵な国でした
 ポルトガルはこの時期は雨が多い、と言われています 実際、出発の前日、12日までは1週間、ずっと各地、天気予報では雨マークでした。ところが、雨女の私にも関わらず、今回は「天のカミサマ」の思し召し。抜けるような冬の青空が続き、たった1度もにわか雨にもあうことがありませんでした 感謝、感謝です。

 いろいろ、感じたこともご紹介させて欲しいな、と思っています。なので、それらは次回に。
4枚だけ、お写真をアップしますね

 

 ポルトにある「レロ・イ・イルマン書店」。1906年創業の書店で、世界一美しい本屋、と呼ばれているところ。ハリーポッターにも影響を与えた、とか。

  ポルトの駅舎内の壁。アズレージョと呼ばれる装飾タイルです。名所旧跡の外壁や内壁にある、ということではなく、普通のお家の外壁などにも使用されています。こちらは青一色ですが、カラフルな絵や、幾何学模様の柄など、豊富です。

 

 コインブラ大学の図書館に保管されている16世紀の日本地図。16世紀までに描かれた日本地図は、すべてポルトガル人の手によるもの。紀伊半島の付け根、大阪のあたりには「Sacay」という地名が描かれれいます。これは「堺」のこと。この町の出身である私としては、あなためて自治都市堺で生まれたことに誇りを感じました。

  ナザレの海岸。夏はヨーロッパ中から観光客が押し寄せるとか。この日は、決して風の強い日ではなかったのですが、これだけの白波がビーチにまで打ち寄せているでしょう?じつは、このナザレ、この写真の手前からそれほど遠くない岬の灯台あたりに大波!世界有数のサーフィンの聖地だそうですが… あまりの波の大きさに死者も出るほど。

 

 

 

 

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