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クラブ・マナーズニュース

マナーズを巣立たれたみなさま、縁者のみなさまとつながっていたい!そんな私が月3回「0」の付く日にブログをアップします!

パーパ フランチェスコ…

2025年04月30日 | その他

 4月21日、「フランシスコ教皇」が亡くなられました ローマ教皇『Papa Francesco(パーパ フランチェスコ)』イタリア語ではそのように呼ばれます。
 世界のカトリック教徒は、13億人以上。その信者はもとより、私のようなカトリック信者でもない多くの人々にも敬愛され、親しまれた方でした。大変失礼な表現で、信者の方々からはお叱りを受けるかもしれませんが… パーパ フランチェスコは、行く先々でどんな人に対してもとても親しく接される「すこぶるチャーミングなお方」だったと思います。あの満面の笑顔を思い出すたびに… とてもとても悲しくなります

 フランシスコ教皇は、第266代の教皇として、2013年の3月から在位。本来、ローマ教皇は終身制ですが、一代前のベネディクト16世が体調不良を理由に、異例の辞任を表明。自らの意思で教皇を辞任するという退位は、1294年のケレスティヌス5世(日本では、チェレスティーノと表記されることもあり)以来、じつに700年ぶりのことでした。
 266代目の教皇、ということでもわかるように、カトリック教会には長い長い歴史があります しかし、そんな中にあって、フランシスコ教皇は「南米から選ばれた初の教皇」でした。
 在位されてすぐのニュースから、私はいかにも厳格な雰囲気を漂わせたドイツ出身の前教皇に対し、新教皇であるアルゼンチン出身のフランシスコ教皇には、非常に対照的な印象を持ったものでした

 先にも書いたように、私はカトリック信者ではありません。でも、娘が14年間、カトリック校でお世話になったので、在学当時は様々なカトリックの行事のたびに、多少なりとも「その空気」を感じさせていただき、たくさん学ばせていただきましたが、卒業と共にそれもなくなりました。
 そんな私が、フランシスコ教皇というよりも「Papa Francesco(パーパ フランチェスコ)」として、教皇様の死を悼むのには理由があります。
 私が娘と二人で、ヴェネチアとローマに気ままな旅行をしたのが2014年の夏。若い頃に、結構あちこちに旅行した私でしたが、イタリアには縁がなく、それが初めての「イタリア」でした。私にとっての旅行は、いろいろと下調べをし、緻密な計画を立てるものですが、それとは対照的に、夫と娘は「気ままな、気まぐれな、その日の気分で行動する」というタイプ。
 そんなこともあり、その時は全く「白紙の状態」でヴェネチアに到着。ローマで飛行機を乗り換え、ヴェネチアに着いたのはかなり遅い時間で… 予約していたお迎えのイタリア人に導かれ、訳も分からぬままにヴェネチアの空港から外に出て、暗い通路を通り、ボートに乗って海に出た時には、娘と二人、すっかりハテナ状態
 長いフライトの疲れがなかったら、「空港から歩いて外に出て、暗い外を歩き海に出て、小さなボートに乗せられた」という状況だけで、すっかりビビッていたことでしょう
 そんな私達の目の前に現れたのが、美しくライトアップされた大運河の入口にある「サルーテ教会」でした 真っ暗な海に突然、ぱっと現れた水色のドーム。その前を通り過ぎ、今度はいくつかの狭い水路に入り、ボートは止まりました。
 さあどうぞ と水路からいきなり明るい建物に案内されて、陽気なフロントマンに歓迎してもらいチェックイン。「え?どういうこと?私達って、水路からホテルのロビーに入ったの、かな?」キツネにつままれたような感覚ながら、その夜はバタンキューでした
 そして翌朝。前夜の記憶をたどり、ロビーを通り抜け、ボートで到着した水路に出て… 娘と二人で発した第一声は「わあお… す、す、すごい… まるでディズニーシーみたいだ…」
 いやいや、何ともヴェネチアには失礼なことを思ったものです ディズニーシーがヴェネチアみたいなのであり、本家本元のヴェネチアの水路を前にして「まるでディズニーシーみたい」などと言った母子の失礼さ この一連の出来事は、それから長い間、何度も何度も思い出しては笑う「楽しい楽しい旅の思い出、無知の大披露」になりました。

 まさに、自由気ままにヴェネチアで3日間過ごし、今度は電車でローマに移動 そして、翌日の早朝からサンピエトロ大聖堂へ向かいました。その当時は、フランシスコ教皇は在位されてから、まだ1年数か月。けれど、すでに人気はとても高く、親しみやすいお人柄は多くの人々から愛されているようで、ヴァチカン周辺のお土産屋さんやレストランでもよく話題に上り… それは驚きでもありました。

 この旅行を機に、すっかりイタリアの大ファンになった私は「ああ、もう私は生涯、イタリア旅行しかしないと思う」とまで思ったほどで 帰国後、すぐにイタリア語を習い始め、九段下からほど近いイタリア文化会館というところにも頻繁に足を運び、予習復習にも余念がありませんでしたが… 残念ながら50代後半の脳ミソは、記憶の領域はかなり鈍っていたようで その学習意欲とは裏腹に、なかなかイタリア語は脳に定着してくれませんでしたねえ、トホホです
 でもね、私は家族や身近な人とイタリアの素晴らしさを共有したく、まだ存命だった母、夫、友人…と一緒に、それから何度もイタリアに行き、ローマを、ヴェチカンを訪れました

 話を「Papa Francesco(パーパ フランチェスコ)」に戻しましょう
在位してまだ間もないこと、南米から初の教皇、人懐っこいお人柄、等々、イタリア語の学校でも、よく教皇様のことは話題に上りました。そこでも、ローマ教皇は「Papa Francesco(パーパ フランチェスコ)」でしたし、ローマに行き、ヴァチカンを訪ねる度に、お写真やカレンダー等々で触れる教皇様も「Papa Francesco(パーパ フランチェスコ)」でした。
 そんなことから、私がよくよく耳にするのは「ローマ教皇」でも「フランシスコ教皇」でもなく、「Papa Francesco(パーパ フランチェスコ)」であったのです 恐れながら、Papa Francesco(パーパ フランチェスコ)は、遠いイタリアから常に私に微笑みを送り続けてくださった「パーパ」でした。私は勝手に、宗教、信仰という意味でのカトリックの域を超え?、「大きな愛」「人々への祈り」を常に注いでくださる方… そうおう思いを持ってローマ教皇であるPapa Francesco(パーパ フランチェスコ)を受け止めていました
 (ちなみに。イタリア語で「お父さん、パパ」は、「papa」ですが、この時の発音は「パパ―」です。教皇様も、文字で表すと「papa」となるのですが、「パーパ」と発音します)

 昨年からちょくちょく体調を壊され、養生をされているというニュースが流れるようになり、心を痛めていましたが、88歳という年齢を思えば、それも当然のことでしょう。
 それでも、ついこの間の4月20日のイースターサンデーには、ヴェチカンのバルコニーにお姿を見せてくださり、代読という形ではあっても、全世界の人々に「平和の尊さ、重要性」を訴えられたパーパ。訃報は、なんと、その翌日のことでした…

 奇しくも、昨年2024年、邦題「教皇選挙」という映画が公開されました この「教皇選挙」こそが、教皇の死去後、よく耳にする「コンクラーベ」と呼ばれるもの、です。今回、次の教皇を決定するため、世界中から枢機卿が集まり開催されるコンクラーベは、5月7日からと決まりました。
 私は去年、この映画が公開された時、パーパフランチェスコのお歳を鑑み、なんだか嫌だなあ…と感じたものです
 この映画云々はさておき、ローマ教皇をテーマにした映画は他にもありますよ。2019年に公開された「2人のローマ教皇(原題 The Two Popes)」という映画で、ネットフリックスで観ることができます。
 コメディータッチに描かれている部分も多かったようにお記憶していますが、私は2時間、ほとんどの時間、涙を流していました それほど、いろいろな意味で感動する映画でした。
 この映画、2人の教皇役をイギリスが誇る名優アンソニー・ホプキンスとジョナサン・プライスが演じています まさに、前教皇ベネディクト16世と、他界されたフランシスコ教皇のお話です。実話をもとに描かれた心あたたまる素晴らしいストーリーであると同時に、あまり身近には感じていなかったアルゼンチンの近代史を学べたり、知ることは多いです。そして何より、システィーナ礼拝堂を含むヴァチカン内部の様子を見ることも出来る素晴らしい映画です

 映画の中でも、お二人が、素晴らしいローマ教皇の夏の離宮のお庭を散策する様子(この贅沢な離宮は、フランシスコ教皇の即位後は、多くの部分が一般人が見学可能な博物館等になりました)や、ピアノを弾き、音楽を楽しむご様子など、仲睦まじく話される様子が描かれていました。お二人は聖職者としては全く相容れないお考えが多かったものの、老名優のお二人が、見事に味のある、見ているだけで泣けてくるような素晴らしい姿を演じられました
 そんな場面を思い出し… 前教皇ベネディクト16世と、他界されたフランシスコ教皇お二人が今頃、天国でどんなお話をなさっているのかな… などと考え、また泣けてしまいます…

 このゴールデンワークに、もう一度、ゆっくりと見返してみるつもりです

 

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万博が始まりましたね。

2025年04月20日 | 楽しいお話し

 大阪・関西万博、開幕しましたねえ
大阪に開催地が決まっても、ふーん…という感じでしたが、あの世界一大きい木造建造物となる「大屋根リング」が発表されると、それは見てみたいなあ、と思ったものです きっとあの中に立つと、圧巻でしょうね
 私は、前回の東京オリンピックの年に小学校に入学。大阪万博の年に中学1年生になりました。そういう意味で、私は「ああ私は、すべてが右肩上がりでどんどん発展していた『古き良き昭和』の中で成長したんだな」と、しみじみ感じています。

 1970年の大阪万博の開催が決まって以降、大阪の町には桜の花びらをモチーフにした(と思っていましたが)シンボルマークが溢れ、あちこちの店ではシールなども配布してくれたことを覚えています。私はとてもワクワクして、そのシールを木製の勉強机に貼っていました
 とにかく、当時、皆が開催を待ち遠しく思っていたように思います。何せ、海外旅行なんて「夢のような世界」のお話でしたのでね。そんな時代に、世界のたくさんの国々が、待っているだけで大阪にやって来てくれる そんなイメージでした。

 ちょっと話が脱線しますが。
あの頃、テレビの人気番組に「アップダウンクイズ」というものがありました。そのクイズのオープニングは、司会者が「夢のハワイへのご招待、アップダウンクイズ」満面の笑顔で叫ばれます。
 応募して選ばれた回答者6名(だった、かな)が「ゴンドラ」と呼ばれる上下への可動式の1人用の箱のような乗り物に乗り、早押しで回答。正解すると、1段上がり、間違うと一気に下まで落ちる。みごと10問正解すると、くす玉が割れて… 
 会場にはスチールギターのハワイアンミュージックが流れ、他の回答者そっちのけで、セレモニーに移るのです。
 10問正解者の前には、なんちゃってタラップが運ばれ、本物のJALのCAさんがミニ丈の制服姿で、造花のレイをもってタラップを登っていき、レイをかけてゴンドラを開ける 10問正答者は、もう「ハワイへの一歩」の気分です…
 そう、まさに今では一般的とのイメージのある海外旅行地ハワイでさえ「夢のハワイ」だった時代でしたのでね。

 話を戻すと… 万国博覧会で、いろいろな国のパビリオンが建設され、開催期間中は、その国からやってきたコンパニオンさん達もやってくる「Hello!」はまだしも、「Bonjour!」も「Buenos dias!」も「Buongiorno!」も、映画の中の言葉でしかなかったですから。ちなみに「你好 ニーハオ!」はまだありませんでした。日中国交正常化は、この万博の2年後、1972年のこと、でしたので。

 私は、学校から1回、母と一緒に3回、両親と1回、計5回、万博会場に足を運びました。
大阪は小さな県ですが、縦には長く、私の生まれ育った「堺」は大阪市の下、大阪府の地図でいくと真ん中よりちょっと下、というところで、万博会場までは片道ゆうに1時間半はかかりました それでも、往路はいつもワクワク、復路は夢見気分でねえ
 学校の創立記念日の5月12日に、初めて万博に行き、母と太陽の塔の前に立った時には、感激で泣きそうになったことを今でもよく覚えています 今、こうしてキーボードを打ちながらもウルウルします 太陽の塔はかなり不思議な容姿で、芸術を理解する能力の低い私には、何を意味しているのかはよくわかりませんでした。でも、入場ゲートを入ってすぐの広いスペースの、大きな天井を貫いて前を見る金色の顔。左右に腕状のものを広げて立つ姿は、とにかく、ものすごいインパクトでした
 「人類の進歩と調和」それが、あの万博のテーマでした。2025年の今、著しい進歩を遂げた世界ではありますが、いまだに「調和」とはほど遠く、世界のあちこちで不協和音が生じていることは一地球人として、残念でなりません…
 毎回、たくさんの驚きと学びをたくさんたくさんもらった万博でしたが、広い会場をまわるのは本当に大変でした その大きな理由は、「履物」にあったのだよなあ、と今振り返って思います
 今ではすっかりタウンシューズとなった「スニーカー」ですが、当時はスニーカーという言葉さえなく、このタイプの靴は「運動靴」と呼ばれ、本当にスポーツをする人や、近所の学校に通う中高生以外には無縁の履物でした。あの頃は、大人は本革のビジネスシューズ、ヒールのあるパンプスを履いていて、電車通学をするような中高生はコインシューズと呼ばれるタイプの靴を履いていたものです
 もし、あの頃に「歩くことを科学的に考慮したソールのスニーカー」があったならば、きっともっと楽にまわれたれたことでしょうね。

 そんな素晴らしい万博でのあれこれの思い出ですが、そんな中でも、私が最も印象に残ったことは、じつは外国のパビリオンでも、国内企業の目をひく展示品でもありませんでした。
 それは何かというと…7月に母と会場を訪れた時、急に降り出した雨の中での出来事。「豪雨とも言えるような強い雨の中、傘もささず、裸足でキャーキャーはしゃぐティーンエイジャー達の姿」でした
 私だけではなく、へばりつくようにパビリオンの壁にくっついて雨宿りをしている日本人達は、呆然とその様子を眺めていました…

 雨が降れば傘をさす それは今でもそうですが、私が思うに、昔はもっと「小雨でも傘をさした」ように思います。今では、ちょっとした雨であれば、傘をささずに歩く人の姿は少なくはありません。ちょっと横断歩道を渡るとか、駅まで、ビルまで、傘をささずに小走りで歩いている姿…
 それは、日本の社会や暮らしがこの50年でかなり欧米化がしていることもその一番の理由でしょうが、私達が日常に着ている装いの変化にもあるのかも、と思いました
 洋服の素材、化学繊維の進化は著しく、速乾性に長けたものも多いですし、装いそのものも履物同様、大きく変化しました。「普段着と、外出着(よそいき)」の区別もそれほど大きくなくなりましたしねえ…
 いずれにせよ、雨の中で大はしゃぎするティーンエイジャーの姿は、当時の私にとって「外国そのもの」のように思えました。まるで、アメリカのテレビドラマのワンシーンを見ているようでした…

 両親も他界し、実家もなくなった今、大阪はすっかり遠いところになりました。母が亡くなるまで、毎月欠かさず、2泊3日で帰省していたのは信じがたいです。
 夫は、中学や高校の同窓会にも毎年顔を出し、大阪とは今でも「馴染み」ですが、私はなかなか同窓会にも進んで行く気にもならず…
 叔父や叔母が高齢になっていることを思えば、何か敢えて用事を作り、親戚周りをする方が良いよな、と思うのですが、腰は重いです
 こんな感じなので、ニュースを興味深く見ながらも、きっと万博の会期は終わってしまいそうですが、1970年の開催時と同じく、何とか無事に「惜しまれながら」終わるような万博であって欲しい、と心から願っています

 

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「ライフ・マナーズ」のご紹介

2025年04月10日 | ためになるお話し

 4月は新年度。入学、進学、就職、etc.
今日は、そんな「切り替え」の時期だからこそ、笑ったり、呆れたりしながら読み進めていただき、そして、そんな経験をしたからこそ私が実感している「ライフプランを考えることの重要性」についての今回のトピックを読んでいただきたいと思います
 67歳になった私。そんな私の結婚後の人生を振り返ってみると、とりたてて人に迷惑をおかけしたり、何か悪事を働いてきたわけではないのですが… ちょくちょく「マイナスの出来事」が起こりました 中でも、家族の健康に関する問題では、本当に心を痛めました

 夫のトライアスロン練習中の自転車の落車事故やガン、息子の心臓病の手術、等々。それらのすべてが毎回「命の危険」を伴うもので… 大変な思いはしたものの、それらをそのつど無事に乗り越えてきたからこそ、今、こうして「気づきの話題」として書くことが出来るのですが 実際にはその度に頭を抱える悲しく辛い出来事でした

 夫の自転車の落車事故は、沖縄の伊江島、というところで起こりました 当時、夫は企業家達の趣味のトライアスロンチームに所属していて、その年の7月は初の試み「メンバー家族と一緒に伊江島合宿」をしていたのでした。事故は、その最終日に起こりました。
 スイムとランは大好きで得意だった夫が、一番苦手としていた自転車… 事故後、伊江島には小さな診療所しかないため、すぐに沖縄本島の名護市にある県立北部病院に運ばれることになりました。伊江島から沖縄本島の本部(もとぶ)まではボートで行き、そこで待ってくれていた救急車に乗りました。
 その時の夫の顔は真っ白で、私は生きた心地がしませんでした なのに、夫は救急車の中で「ほんまに救急車って、止まらんと走るんやなあ…」と私に向かってつぶやき、そして今度は自由に動く手で救急隊員さんにトントン合図をして「あの、僕は、救急車に乗るのは初めてなんです。すごい経験です初めての救急車が沖縄なんて、すごいです」と言い… 私は呆れるやら、悲しいやら、情けないやら… 救急隊員さんもお返事に困っていらっしゃいました
 事故そものもは単純な落車だったのに、なぜか骨盤骨折、恥骨骨折、肋骨骨折という大きな怪我となり、事故を起こした当日は夜中まで内出血が止まらず、ドクターから「奥さんはホテルに戻っても、必ず携帯電話を横に置いて休んでください。いつでも病院に駆け付けられるように」と言われ… 私はホテルの部屋の天井を見ながら、一睡もできませんでした。

 2006年、あの頃は、まだまだ医療保険が一般的ではない時代でね…
もちろん、意識の高い人達、用心深く、常に準備を怠らない人達は、すでに外資系の保険会社では一般的になりつつあった医療保険に加入されていたと思います。
 夫はいち早く「ガン保険」には加入済みでしたが、医療保険には未加入。市民アスリートの夫は、自分の健康状態に自信、過信があったのですよね
 当時は、我が子達はまだ大学生でしたし、教室もありましたので、私が沖縄でずっと夫に付き添う、という訳にはいきません。なので、私は夫を見舞うために7回も沖縄東京を往復したのですよ そのうちに、利用便で数回顔を合せるCAの方に「ご主人様、お加減はいかがですか?」などと聞いていただき、ほんと、苦笑でした
 ということで。
夫の沖縄本島での約1ケ月の入院費、当時住んでいた横浜に帰ってきてからのリハビリ入院の費用。私の7回の交通費、宿泊費、etc.etc.  いやー、正直、かなりの高額の費用です… もし、医療保険に加入していたならば、間違いなく大きな助けになったはずでした
 いろいろな意味で痛い目にあった私達は、すぐに医療保険に加入したのでした

 息子の心臓病罹病や手術は、その2年後でした。
医療保険の重要性を理解し、夫婦で加入はしたものの… 当時、我が子達はまだ20代前半でしたのでね。節約を考えた訳でも何でもなく、まだまだ子ども達は若いから…という思いで医療保険には加入しなかったのでした… 本当に愚かでした
 そんな状況下での息子の罹病。とんでもない突然の出来事ではありましたが、そんな中でも本当にたくさんの幸運が重なり、命を救っていただくことができました。どんなに感謝してもしきれない思いです ただ、そういう大きな大きな感謝の思いとは別次元のこととして… 大きな手術でしたし、入院期間もかなり長かったですからね。それに要した費用は、推して知るべし

 当然ですが、息子の退院後、子ども達の医療保険にも加入しました。ただ、若さには関係なく、一度大きな病気、手術をしたりすると、医療保険加入にもいろいろ制約は出てきます… 健康だからこそ考える「医療保険」なのだなあ、とあらためて実感もしたものです。

 そして、10数年、穏やかな暮らしが続きました でも、悪いことは忘れた頃にやってきます 今度は、夫。たまたま忙しさを理由に、胃の内視鏡検査を1回スキップし、2年半ぶりに検査をしたところ… 食道ガンが見つかりました
 そこで、またまた痛い目に。
「む?医療保険に入っていない、と書かれたところに『夫はいち早く、ガン保険には加入していたけれど…』と書いてあったでしょう?ガンは見つかってしまったけれど、今回はしっかりとガン保険でサポートされるでしょう」と思われましたか?
 はい、そうなのですガン保険には加入していました。「いち早く」です。でも、この「いち早く」がミソだったのですよね…
 夫がガン保険にいち早く加入した当時の「初期のガン保険」には、今ではすっかり世間に認知された「先進医療」というもののない時代でした
 つまり、初期のガン保険でカバーされるのは「外科的な手術と抗がん剤治療」のみ。」現在のような陽子線や重粒子線などの先進医療での治療という選択肢はなかったのです。そう、「ないもの」を補償することはできませんものね

 夫は、一度は外科的手術を選択し、そのためにある大学病院に入院までしたものの、まさに奇しくも、夫の高校時代の友人が、陽子線や重粒子線を照射する医療機器を作っている企業に勤務されていて、その上、その開発に携わったエンジニア系の部門の「えらい人」になっていたため、夫は入院中、手術までの十分な時間を有効に使い、みっちり、その友人から先進医療機器、先進医療でのガン治療について学び、国立がんセンターの放射線科のドクターをも紹介してもらって… すでに入院中であったにも関わらず、勝手に治療方法を変更することを選択
 夫は、入院中の大学病院から、先進医療での治療をするため、国立がんセンターに転院したのでした。
 そして、本当にありがたいことに、陽子線照射と抗がん剤投与という治療方法で食道ガンを克服 めでたしめでたし
 でもね… 先進医療のとても高額な費用は… すべて自腹でした
 その高額な治療費用を支払い、退院をした10日後、図らずもに知ることになったのですが… 夫は、後述するファイナンシャルプランナーから「南坊さん、ご加入中のガン保険は初期のものなので、見直しをしましょう古いものを解約しなくても、今は『先進医療特約を追加』という手があるのです。手続きは簡単ですし、私のほうで手配を進めますよ」とまで言っていただいていたのに、夫はあろうことか「大丈夫、大丈夫アスリートは大怪我をすることはあっても、病気にはなりませんよー、僕は健康管理はバッチリです、ハッハッハ」と豪語していたとのこと。
 私はそのことを知り、歯ぎしりをする思いでした…
 食道ガンに罹病するまでの夫は、仕事がお休みの週末は、朝からずっとアルコールを飲み、近所をお散歩する時も、時々、いい調子でコンビニでチューハイを買う始末… 当時、子ども達から「パパ、完全にアル中の傾向あるよねえ」と言われていたのに、何が健康管理バッチリ、だったのでしょう…

 さてさて。
みなさんは、笑うというよりも、呆れられたかもしれませんね 私は、そのどちらでもかまいません、ふふふ。
 なぜかって?それは、私が懲りずに、何度もよく「ジュエリー・マナーズ」をご紹介することと同じ意味だから、なんです
 私は「ジュエリー・マナーズ」のお話をする時、ご説明しますよね。自らの経験から知り得たこと。
 「アクセサリーは身を飾るだけのもの。でも、ジュエリーというものは根本的に意味が違うのですよ。装う本人にその違いの認識がなくても、宝石への理解が深まると、ジュエリーが単に身を飾るものではなく、人にとっての『エネルギーの源であり、魔除けや厄除けである』という真価を理解していただけるようになりますよと。
 ライフ・マナーズも同じです。私が身をもって経験した、笑えるような、呆れるようなマイナスの出来事の数々。そんな痛い目から私が実感していること。
「保険というものを、単なる保険ではなく、『自分の、家族の、尊いライフプランを考える上での重要なツール』『安心してスマートに生きる姿勢を整えるためのアイテム』だと理解している」のだと

 今では、「保険を見直す」という考え方も広がり始め、「保険の見直しの会社」が町のあちこちにある時代になりました。まさに昔のように一社の保険を「言われるがままに契約する」のではなく、複数の保険会社から自分に合った保険を選ぶ、選び直す、という考え方ですね。人に会うことなく、ネットで調べ、ネットで加入することも可能な時代です
 でもね、私が今日、みなさんにお伝えしたいことは「保険を見直すのは大事ですよ」ということではないのです。
 もちろん、その事にも大きな意味はありますが、私はもっともっと深い意味で「保険」を捉えて欲しい、と思うのです (とは言え、私は「保険会社のまわしもの」ではありません、ふふふ)
 私が自分自身の苦い数々の経験から気づけたことは「生命保険、医療保険、学資保険、傷害保険、損害保険、自動車保険」等々、それらの保険そのものに着目し、「保険」を考え直すのではなく、今の自分の収入、貯蓄、住宅ローンも含め、家族の現状をしっかりと把握した上で、家族みんながより豊かで安心な人生を歩んでいくために、しっかりとしたライフプランを見直すことの重要性、です。
 私や夫のように、痛い目にあってからその重要性を実感するのではなく、こういうことを決して後回しにしたりしてはいけない、ということ。
 4月、5月という年度の始まりは、物事を見直す「良きタイミング」でしょう。とは言え、こういうことはなかなか素人の力では叶いませんね。
 そこで、私はみなさんが安心して、適切なアドバイスを求められる、信頼できるプロ集団をご紹介したい、と考えています。目に見える自分の、家族の5年後、10年後。長い人生の絵を提示してくれるライフプランナーに出会って欲しい、と思っているのです
 そして、あってはいけないことですが、万が一、たとえそれが小さな小さなものであっても、マイナスが身に降りかかった時、すべての煩雑な手続き等を、一切を親身に代行してくれるプロ達をご紹介します。 

 これが、私の考える「ライフ・マナーズ」であり、ご紹介したいのが (株)ブロードマインド です。
(株)ブロードマインドの創業に関わったS氏は、トライアスロン時代の親しい友人です。私のママ友達の中には、ご家庭のライフプランだけではなく、ご主人様の個人事業主や企業経営者としての節税対策の提案をしてもらった方々や、子ども達の進学や就職、結婚というような大きな節目に、新生活のライフプランに添ったアドバイスをもらい、大きな安心につながった…という方々も大勢おいでになります。
 とにかく。なかなか素人では見通せないこと、知識が及ばないこと、ばかりの世界です。「そんな時間はない」という、ある意味での言い訳をし、重い腰を上げない「見直し」です。でも、40歳、50歳を過ぎると、60代以降の暮らしを見据え、本当は大真面目に考え直さないといけないこと、だと私は痛感しています

 相談に費用はかかりません。
何で?何だか気持ち悪い…と思われるかもしれませんが、いえいえ。これに関しては、この企業の利益に関するシステムが、相談者から利益を得る、というものではない、というだけのことで、何らいぶかしものではありません(いぶかしいものを紹介する私、と思われてしまうのは悲しいですが… やっぱり、ご不安にはなられるかもしれないので、敢えてお伝えします)
 ある卒業生家庭は、ご子息の中学進学を機に、これからの高校卒業までの6年間、その先のライフプランをしっかりと考えたいという思いから、ご両親の加入している様々な保険、家の災害に関する保険等、すべての保険を見直されました。
 同時に、子どもの出生時に加入した学資保険も見直し、将来の留学なども視野にいれた、変化の著しい時代に合った保険を選び直されました。
 また、こちらのご家庭にとって、想定外の大きな収穫だったのは、ライフプランナーと一緒に住宅ローンをも見直されたことでした。
 お母様にもお仕事があり、ご両親共に多忙を極める毎日でしたが、すべての見直しに関わる煩雑な手続きもすべて代行してもらい、スムーズに万事を済ませ、結果的に毎月に支払う保険料の大きな節約にもなった、というご報告がありました
 我が家の娘も、結婚や出産、転職等々、何かあるごとにブロードマインドの担当者に相談し、「このままでOK!」「ここの一部を見直しましょう!」というふうにアドバイスをもらい、豊かな生活設計をするために上手にブロードマインドを利用しています。
 「今の家庭の現状」をあらためてつまびらかにし、エキスパートの助言を仰ぎ、その上で、家族や子どものより豊かな将来のために、ライフプランナーと家庭生活を考えること 一度是非、真剣に考えてみてみるのはどうでしょう?

 私にお知らせいただければ、すぐに担当者にご連絡いたします。
コロナ以降は、リモートでのご相談も可能ですし、週末のお手すきの時間に、渋谷の近未来的なビルに出向かれるのも良し、です。
 私に連絡をするのはちょっと…であれば、直接ご連絡をなさっても良いですね。ただ、できればいろいろと便宜をはかっていただくためには、ライフ・マナーズの担当者をご紹介する方が、話しは早く進んでいく、とは思います
 
 年度替わりなので…ということで、思い切ってご提案をしたため、今回もすっかり長くなりましたが、今ではなく、もう少し先に…というようなことであれば、会社名だけでもメモに残しておいてくださいね

 

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