昨年発売されたDVD『ビートルズ誕生秘話~ピート・ベスト ストーリ~』を観ました。
メイン・アクトは《Pete Best》ピート・ベスト(イギリス 1940-)
ビートルズが好きな方ならピート・ベストという名前は多分御存知だと思います。
彼はリンゴ・スター加入前のビートルズ初代ドラマーとして、ビートルズが正式デビュー
する以前の1960年ドイツ・ハンブルグ巡業~イギリス・キャヴァーンクラブのライヴなど
今では伝説となっている頃のメンバーでした。
こうした長い下積み時代からようやく掴んだデビュー直前の1962年10月の数ヶ月前に
彼は突然ビートルズを去りました。否...正確には”解雇”されたのです。
理由は今までいろいろと言われてきましたが、真実は今も”謎”とされています。
彼の解雇に直接関係した人物ではプロデューサーのジョージ・マーティン氏が有力です。
マーティン氏が後年語っていたところでは「ドラムの技術に問題があった...」と。
*ピート・ベスト在籍時のビートルズの音源はいくつか残されていて今でも聴くことが
できますが、ピートが叩くドラムは決して解雇されるほどの問題があったとは思えず、
なにかほかの理由があったのではと思います。
確かにリズムは音楽の要であり、ピート・ベストだけでなく、リンゴ・スターもビート
ルズのデビュー曲『ラヴ・ミー・ドゥ』での初セッションでは「ドラムに問題あり」と
外され、替わりにセッション・ドラマーが起用され演奏しています。
*後年、リンゴはこの時のマーティン氏の仕打ちを「今でも忘れていないよ」とジョーク
を交えながら語っていましたが...
いずれにせよ、ピート・ベストは納得のいく説明がないままビートルズを去るしか
なかったのです。その後、彼はなんとか気を取り直して新しいバンドを結成しますが、
鳴かず飛ばずのまま、ビートルズが世界制覇を果たした1965年にひとり寂しく音楽界
から身を引いています。
いつの世にも大成功を成し遂げた人の陰にはこうした人がいるのかもしれません。
でもそれに気付く人は、その当事者の親しい人たちだけなのかもしれません。
私もビートルズと出会った頃にピート・ベストの事を本で知りましたが、さりとて
気にもとめませんでした...
ピート・ベストが後年語っています。
「あの日以来、メンバー(ジョン、ポール、ジョージ)からは連絡が来なくなりました」
DVD『ビートルズ・アンソロジー』でジョージ・ハリスンが、あの日の出来事を回想する
シーンがあるのですが、さすがのジョージも言葉を探している様子でした...
でも結局のところ誰が悪くて誰が正しいといったことは誰にも判断が下せないと思います。
辛く厳しいことではありますが、ただあるがままの現実を受け入れるしかないのです。
写真:ドイツ・ハンブルグ時代のビートルズ(1960年頃)アストリッド・キルヒャー撮影
*左から:ピート・ベスト/ジョージ・ハリスン/ジョン・レノン/
ポール・マッカートニー/スチュアート・サトクリフ(初代ベーシスト)
自身の回想録...
次元は違いますが私はこの物語を観てかつての自分自身を思い出しました。
それは私が21才の時にサポート・ギターとして参加したバンドでの出来事です。
そのバンドのリーダー(兼ボーカリスト)は博多出身だったこともあり、デビュー前の
チェッカーズとレコード・オーディションを競ったこともありました。
結果その人はその戦いに敗れチェッカーズがレコード・デビューを果たしました。
そして心機一転単身上京し、再度レコード・デビューに挑戦するためのバンドを東京で
結成したのです。
私はそんな時にそのバンドのキーボーディストだった知人に誘われ加入しました。
まだ若かった私はプロの厳しさを本当の意味で経験した初めてのバンドでもありました。
そうして何ヶ月間のリハーサルを終えて、ミュージシャン「伊藤銀次」氏のコンサート
ツアーの前座という扱いで九州ツアーに随行するチャンスが巡って来たのです。
私はこのチャンスに”おののき”ながらも懸命に平常心を保とうと努力しました。
そしていよいよ来週から出発という時にバンドリーダーから突然言われたのです...
「今回のツアーへは僕の友人がギタリストで参加するから...」事実上の解雇通告でした。
私は思いもかけない突然の言葉に頭が真っ白になり愕然としました。
それから数ヶ月間はギターを見るのも辛くまったく弾くことができませんでした。
後日、私をこのバンドに誘ってくれたキーボーディストの知人と会う機会があり、
その後のバンドの事を聞きました。
バンドはあのツアー終了後に解散し、バンドリーダーだった人も故郷の博多へ帰った
とのことでした。
もし仮にバンドが成功し、レコード・デビューを果たしていたら、私もピート・ベストの
ように生涯忘れることのできない悔いを残していたのでしょうか...
またあるいは...あのまま私も九州ツアーに参加し、その後運良くレコード・デビューを
果たしたとしても、今頃はどうなっていたことか...
私はあれ以来、サポート・ギターとして他のバンドへ参加することは二度とありません
でした。あれ以降、私がバンド活動を行う時は自らが率先してメンバーを探し、誰かの
曲を演奏するのではなく、自分たちのオリジナル曲を演奏しようと心に決めました。
あらためて振り返ってみますと、若い時期にプロの厳しさを肌身で感じられたことは
とてもよかったと思います。もちろん、あの時は大変なショックでしたが...
目の前で起こる出来事は如何ようにも解釈できますが、まずはあるがままの現実を受け
とめて、そしてそこから新しい何かを生み出すしかないのだと思います。
メイン・アクトは《Pete Best》ピート・ベスト(イギリス 1940-)
ビートルズが好きな方ならピート・ベストという名前は多分御存知だと思います。
彼はリンゴ・スター加入前のビートルズ初代ドラマーとして、ビートルズが正式デビュー
する以前の1960年ドイツ・ハンブルグ巡業~イギリス・キャヴァーンクラブのライヴなど
今では伝説となっている頃のメンバーでした。
こうした長い下積み時代からようやく掴んだデビュー直前の1962年10月の数ヶ月前に
彼は突然ビートルズを去りました。否...正確には”解雇”されたのです。
理由は今までいろいろと言われてきましたが、真実は今も”謎”とされています。
彼の解雇に直接関係した人物ではプロデューサーのジョージ・マーティン氏が有力です。
マーティン氏が後年語っていたところでは「ドラムの技術に問題があった...」と。
*ピート・ベスト在籍時のビートルズの音源はいくつか残されていて今でも聴くことが
できますが、ピートが叩くドラムは決して解雇されるほどの問題があったとは思えず、
なにかほかの理由があったのではと思います。
確かにリズムは音楽の要であり、ピート・ベストだけでなく、リンゴ・スターもビート
ルズのデビュー曲『ラヴ・ミー・ドゥ』での初セッションでは「ドラムに問題あり」と
外され、替わりにセッション・ドラマーが起用され演奏しています。
*後年、リンゴはこの時のマーティン氏の仕打ちを「今でも忘れていないよ」とジョーク
を交えながら語っていましたが...
いずれにせよ、ピート・ベストは納得のいく説明がないままビートルズを去るしか
なかったのです。その後、彼はなんとか気を取り直して新しいバンドを結成しますが、
鳴かず飛ばずのまま、ビートルズが世界制覇を果たした1965年にひとり寂しく音楽界
から身を引いています。
いつの世にも大成功を成し遂げた人の陰にはこうした人がいるのかもしれません。
でもそれに気付く人は、その当事者の親しい人たちだけなのかもしれません。
私もビートルズと出会った頃にピート・ベストの事を本で知りましたが、さりとて
気にもとめませんでした...
ピート・ベストが後年語っています。
「あの日以来、メンバー(ジョン、ポール、ジョージ)からは連絡が来なくなりました」
DVD『ビートルズ・アンソロジー』でジョージ・ハリスンが、あの日の出来事を回想する
シーンがあるのですが、さすがのジョージも言葉を探している様子でした...
でも結局のところ誰が悪くて誰が正しいといったことは誰にも判断が下せないと思います。
辛く厳しいことではありますが、ただあるがままの現実を受け入れるしかないのです。
写真:ドイツ・ハンブルグ時代のビートルズ(1960年頃)アストリッド・キルヒャー撮影
*左から:ピート・ベスト/ジョージ・ハリスン/ジョン・レノン/
ポール・マッカートニー/スチュアート・サトクリフ(初代ベーシスト)
自身の回想録...
次元は違いますが私はこの物語を観てかつての自分自身を思い出しました。
それは私が21才の時にサポート・ギターとして参加したバンドでの出来事です。
そのバンドのリーダー(兼ボーカリスト)は博多出身だったこともあり、デビュー前の
チェッカーズとレコード・オーディションを競ったこともありました。
結果その人はその戦いに敗れチェッカーズがレコード・デビューを果たしました。
そして心機一転単身上京し、再度レコード・デビューに挑戦するためのバンドを東京で
結成したのです。
私はそんな時にそのバンドのキーボーディストだった知人に誘われ加入しました。
まだ若かった私はプロの厳しさを本当の意味で経験した初めてのバンドでもありました。
そうして何ヶ月間のリハーサルを終えて、ミュージシャン「伊藤銀次」氏のコンサート
ツアーの前座という扱いで九州ツアーに随行するチャンスが巡って来たのです。
私はこのチャンスに”おののき”ながらも懸命に平常心を保とうと努力しました。
そしていよいよ来週から出発という時にバンドリーダーから突然言われたのです...
「今回のツアーへは僕の友人がギタリストで参加するから...」事実上の解雇通告でした。
私は思いもかけない突然の言葉に頭が真っ白になり愕然としました。
それから数ヶ月間はギターを見るのも辛くまったく弾くことができませんでした。
後日、私をこのバンドに誘ってくれたキーボーディストの知人と会う機会があり、
その後のバンドの事を聞きました。
バンドはあのツアー終了後に解散し、バンドリーダーだった人も故郷の博多へ帰った
とのことでした。
もし仮にバンドが成功し、レコード・デビューを果たしていたら、私もピート・ベストの
ように生涯忘れることのできない悔いを残していたのでしょうか...
またあるいは...あのまま私も九州ツアーに参加し、その後運良くレコード・デビューを
果たしたとしても、今頃はどうなっていたことか...
私はあれ以来、サポート・ギターとして他のバンドへ参加することは二度とありません
でした。あれ以降、私がバンド活動を行う時は自らが率先してメンバーを探し、誰かの
曲を演奏するのではなく、自分たちのオリジナル曲を演奏しようと心に決めました。
あらためて振り返ってみますと、若い時期にプロの厳しさを肌身で感じられたことは
とてもよかったと思います。もちろん、あの時は大変なショックでしたが...
目の前で起こる出来事は如何ようにも解釈できますが、まずはあるがままの現実を受け
とめて、そしてそこから新しい何かを生み出すしかないのだと思います。
人生とは良いも悪いも背中合わせ。少なくとも自分の進む道は確信を持って進んで行きたいものです。
cloud9さんがすごく大きく見えます。
音符の模様、楽器の模様、ベートーベンの肖像などかありましたよ
音楽ネクタイ、(音符・黒)
http://www.bidders.co.jp/pitem/62476255
音楽ネクタイ(ドラム 青)
http://www.bidders.co.jp/pitem/50356395
音楽ネクタイ(ベースギター、黄色)
http://www.bidders.co.jp/pitem/62667290
音楽ネクタイ(ベートーベン)
http://www.bidders.co.jp/pitem/50307612