目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀こと池本哲晃(いけもとてつこう)の独り言です。

人間関係における膨張と憑依について。

2022-06-24 17:14:58 | いけてつオタク話
成功した人間は、他者に自分を憑依させようとし、失敗した人間は、成功した他者を自分に憑依させようとする。

簡単に言えば、成功した人間は自分のコピーを作ろうとし、失敗した人間は他人のコピーになろうとするということだ。

それに気づいたとき瞬間、私は「あっ」と思った。
なぜ成功するかしないかわからない思春期や青年時代に、諸子百家や仏典、そして聖書の類いを読みふけったかだ。

私は結局自ら好んで他者のコピーになろうとしていた。

このいけもとてつこうという男は、天にも地にもただ一人。
その非常にユニークな人間である私が、なにゆえ、孔孟の類いや老荘の類い、さらには釈迦やイエスのカーボンコピーになろうとしたのか?

もっとも倫理道徳に外れたことをすれば、仲間からの制裁が待っている。
リンチに遭ったり笑われたりいろいろだ。

が、別段私は刑死者になろうとしているわけではない。
そうでない限り、私が私自身に自己憑依しても、何の不都合もあるまい。

なぜ、私が赤の他人のカーボンコピーになろうとしたのか。
それはあまりにも定型発達者から、私のあり方に物言いがつき、いい加減に頭にきていたからだ。

自分にも似たような欠点があるくせに、なにゆえヒトをやり玉に挙げるのかという怒り。
それと聖人君子のまねをすれば、定型発達者から、いちゃもんをつけられずにすむという判断からだ。

が、合わせなかったらいちゃもんがつけられる、合わせてもいちゃもんをつけられるで、どうすりゃいいのよ、定型ちゃんと悩んでいるうちに、心身が故障したわけであるが。

さてさて、話を元に戻すが、自分に誰かを憑依させるということは、精神的なマウンティングを他者に許可するということだ。

他人にあやかろうとするヒト以外、これはマウンティングされる側にとっては、非常に不愉快なことだ。

はたまた他人にあやかるということは、他人の世話になって生きるということだ。

いずれにせよ愉快な生き方ではない。

そんな生き方はやめようと思った。