今日のИКМТは、昼寝して、夕寝して、今起きて、こんな記事を書いています。
さて、運命には二通りの運命があるそうです。
一つは強制運命。
もう一つは自由運命。
強制運命とは、先天的な運命で、本人の意志で変えることはできません。
だから、これに逆らうことは悲劇を招くとは、古代ギリシャや古代中国の説の通りです。
さて、一方自由運命とは、自分が選択する運命で、本人の意志で変えることができます。
そこで問題なのは、意志の行使についてです。
人間の心の中には宇宙があります。
宇宙というのは、古代中国語で、時間と空間のことです。
簡単に言えば、
過去から現在に至るまでのすべての時間と空間の中で、すべての人がいる。
その、すべての時間と空間、そして生き物の中で、どれに意識の焦点を合わせて、生き方を選択するか?
そこに古代から論争の絶えない、強制運命と自由運命の話が出てくるわけです。
例えば、ベルサイユのばらのオスカル。
彼というべきか、彼女は、ジョルジュ家の末女として生まれ、イカレた親父さんに男として育てられましたが、中身は本人の性の通り女性。
それでフェルゼンに惚れ、ロザリーに好かれ、アンドレと相思相愛になるわけです。
今の時代だからいえることですが、主家に背いてフェルゼンと思いを遂げるもよし、ロザリーと同性婚をするもよし、アンドレと駆け落ちしてもよいわけです。
ここで、
オスカルが近衛将校の家に生まれ、女兄弟の末女として生まれたことは強制運命ですが、彼女が第二次性徴を迎えて、どんな性生活を送ろうとも、それは彼女の自由な選択の中にあるわけです。
その選択の中に、彼、彼女の意志の自由があるわけです。
主家に背いてフェルゼンと寝る。
ロザリーとの同性愛にふける。
アンドレと駆け落ちする。
エトセトラ。
そこに彼女の職業や配偶者選択があるわけであり、気に入らない自由運命からは、さようならをしてもいいわけであります。
たまたま彼女の目に見える選択肢はこれでありますが、目に見えない選択肢もあるわけです。
前にも書いたとおり、思考の枠組みというのは恐ろしい。
恋愛至上主義でいくから、これだけの選択肢しかありませんが、彼女がジョルジュ家の存続を望めば、ほかの選択肢もあったわけです。
そこに思考の枠組みを押しつけられる恐ろしさがあるわけですが、それはまた別の機会に。
そんなわけでございます。
館内麹町区で、ИКМТ。