目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀こと池本哲晃(いけもとてつこう)の独り言です。

今日のお題は、「夕暮れの帰り道」

2020-09-30 23:15:28 | 写真付きブログ
久しぶりの写メアップです。
名付けて「夕暮れの帰り道」

今日は恋人さんとお茶した後、帰り道を散策しました。
肖像権の関係でシルエットだけでご勘弁くださいね。

途中、持ち主の方がシーソーに忘れていったトラックのミニカーを見つけました。
ご主人様に忘れ去られてしまったミニカー。
なんだかかわいそう。
何やら哀愁を誘うので、写メにとってアップしました。

そして彼女さんと一緒に拾った、オシロイバナの種三つ。
今日の思い出に拾って帰りました。

私も三つ、彼女さんも三つ。
仲良く三つずつ拾って帰りました。

そうそう、今日いいことがありました!
食わず嫌いのオクラを、ベーコンとのオーブン焼きで食べることができました!

感想は…。
とてもおいしかったです!

そんなわけでございます。
また写メをとったらアップしますね。

柔らかな笑顔と愛情のこもった言葉。

2020-09-30 10:40:17 | いけてつ独り言
仏教に和顔愛語という言葉がある。
意味は「柔らかな笑顔で愛情のこもった言葉」を話せ。という意味である。

が、こともあろうにこのИКМТは、
和顔愛語どころか、常にというわけではないが、しかめっ面をして、汚い言葉ばかりを話していた。
とてもじゃないが、和顔愛語の精神からは、ほど遠い。

私の母方のいとこは、
小さい頃からいつもニコニコしていて、
口癖は、「ありがとう、幸せ。」だった。

たった今、あの子は、小さい頃から誰にも教えられずに、和顔愛語を実践していたんだなあと思った。

そういえば、畏友・ハローさんも和顔愛語を地で実践している人だ。

今になって、いとこや畏友の良さがわかるのであるから、実に私の目は、節穴だったんだなあと思う。

それに、いつもしかめっ面をして、汚い言葉を話しているのは、まるで人の心に毒を流し込んでいるようなものである。

それではいけない。
実に反省することしきりである。

和顔愛語はどんな人にでもできる菩薩行であり隣人愛の実践でもあるそうだ。

遅まきながら、ИКМТも実践しよう!

以上である。

「心と対話」か、「物と制御」か。

2020-09-29 10:31:42 | いけてつオタク話
「心と対話」なのか、
それとも「物と制御」なのか。

現代文明は、あまりにも多くの存在に対して。「物と制御」の発想で、自分本位な我を押しつけてきた。

「物と制御」の例
暑くなったらエアコン、寒くなったらまたエアコン。
あなたは室外機から出てくる風に当たったことがあるだろうか?
夏は熱い風が出て、冬は寒い風が出る。

つまり夏の暑さや、冬の寒さに拍車をかけるのが、このエアコンの室外機から出てくる風なのかもしれない。

さて、話は変わるが、
私の飼っていたペットをしよう。
父が亡くなった日に家に帰ってきたら、鳥たちがいつものように甘えてきた。
が、今日は悲しいことがあったから、おとなしくしてね。
といったら、鳥たちは言い分を聞いてくれて、私が本調子になるまで、おとなしくしてくれた。

これが「心と対話」である。

が、きっとそこまでの信頼関係が、私と鳥の間にあったのであろう。
そうでなければこんなことが起きるわけがない。

なんかむちゃくちゃな文章になったが、頭のいい読者様には、きっと私のいいたことをくみ取って、真意を理解してくださることだろう。

そんなわけである。


強制運命と自由運命。

2020-09-28 23:59:35 | しんぶんクロハタ並びに小黒金剛石
今日のИКМТは、昼寝して、夕寝して、今起きて、こんな記事を書いています。

さて、運命には二通りの運命があるそうです。
一つは強制運命。
もう一つは自由運命。

強制運命とは、先天的な運命で、本人の意志で変えることはできません。
だから、これに逆らうことは悲劇を招くとは、古代ギリシャや古代中国の説の通りです。

さて、一方自由運命とは、自分が選択する運命で、本人の意志で変えることができます。

そこで問題なのは、意志の行使についてです。
人間の心の中には宇宙があります。
宇宙というのは、古代中国語で、時間と空間のことです。

簡単に言えば、
過去から現在に至るまでのすべての時間と空間の中で、すべての人がいる。
その、すべての時間と空間、そして生き物の中で、どれに意識の焦点を合わせて、生き方を選択するか?

そこに古代から論争の絶えない、強制運命と自由運命の話が出てくるわけです。

例えば、ベルサイユのばらのオスカル。
彼というべきか、彼女は、ジョルジュ家の末女として生まれ、イカレた親父さんに男として育てられましたが、中身は本人の性の通り女性。

それでフェルゼンに惚れ、ロザリーに好かれ、アンドレと相思相愛になるわけです。

今の時代だからいえることですが、主家に背いてフェルゼンと思いを遂げるもよし、ロザリーと同性婚をするもよし、アンドレと駆け落ちしてもよいわけです。

ここで、
オスカルが近衛将校の家に生まれ、女兄弟の末女として生まれたことは強制運命ですが、彼女が第二次性徴を迎えて、どんな性生活を送ろうとも、それは彼女の自由な選択の中にあるわけです。

その選択の中に、彼、彼女の意志の自由があるわけです。
主家に背いてフェルゼンと寝る。
ロザリーとの同性愛にふける。
アンドレと駆け落ちする。
エトセトラ。

そこに彼女の職業や配偶者選択があるわけであり、気に入らない自由運命からは、さようならをしてもいいわけであります。

たまたま彼女の目に見える選択肢はこれでありますが、目に見えない選択肢もあるわけです。

前にも書いたとおり、思考の枠組みというのは恐ろしい。
恋愛至上主義でいくから、これだけの選択肢しかありませんが、彼女がジョルジュ家の存続を望めば、ほかの選択肢もあったわけです。

そこに思考の枠組みを押しつけられる恐ろしさがあるわけですが、それはまた別の機会に。

そんなわけでございます。
館内麹町区で、ИКМТ。



あと一月足らずで初冬ですね。

2020-09-27 20:39:18 | いけてつ独り言
あと一月足らずで、岡崎律子さんの「夕暮れの帰り道」の歌詞が似合う季節になってきます。

人の心は見えないから、この歌のヒロインにように私に温かい気持ちを持ってくれる女の人がいても、私にはその心は見えないのでしょうねえ。

私が枯れ葉舞い散る冬の小道を歩いても、そんなシチュエーションを待ち望んでいることは周りの人にはさっぱり見えないで、単にでかい図体をした厳つい(いかつい)親父が、しかめっ面をして道を歩いているようにしか見えないのでしょうねえ。

実に悲しいことです。

人の心は見えません。
だから、口から出る言葉や身振り手振りは、心と一致させないといけないと思った次第です。

以上。管内赤坂区で、ИКМТ。