誰が書いたか知らないが、科学的社会主義の古典にこんなことが書いてあった。
曰く「合法的なものは体制的なものである」ということだ。
合法なものが体制的なものであるというのは当たり前だが、体制的なものは一体何であるかということについて、この古典は何も書いていない。
体制的なものはすべて支配を成り立たせるための暴力装置であるから、体制的なものは支配のための暴力装置だと言っても過言ではないであろう。
マスコミもインターネットも、体制の暴力装置であると見抜ける人は数少ない。
大多数の人が、マスコミは親切にも情報をただで与えてくれるツールであり、インターネットはほしいときにほしい情報が手に入る便利なツールだと思っていることだろう。
実はマスコミには自己検閲するための部署があり、検閲者は記者の取材を素に、ここまで書いていいが、ここからは書いてはいけないと記者に指示する。
インターネットもそうで、毒にも薬にもならない記事は、検索エンジンが検索上位に持ってくるが、毒になったり薬になったりする情報は、検索ヒットしないように仕組まれているのだ。
さて、マスコミはあらかじめ、情報を取材によって入手し、それに対して肯定する記事と否定する記事の予定稿を作っておく。
そして当局の指示によって、美談のネタにしたり、スキャンダルのネタにして、大々的にキャンペーンを繰り広げるのだ。
そして括弧付きの世論をでっち上げ、為政者がなしたい政策を実施するための追い風にするのだ。
このことについて、単にテレビしか見ない人は反対意見を持つだろうが、インターネットをやっている人はきっと頷かれることであろう。
つまりテレビは中立、インターネットは自由だと思っている人は多いだろうが、テレビで大々的に報道し、インターネットで種コメントをぶち込んである種の空気を作り上げれば、為政者の思うままの世論をでっち上げることができるのだ。
そのようにして、今日もテレビとネットにお守りされた人が、極端な意見を持って、極端な意見を垂れ流して仲間を作るのだ。
本当に困ったものである。