目覚めた孔雀。独り言三昧。

目覚めた孔雀こと池本哲晃(いけもとてつこう)の独り言です。

九州南部は梅雨明けだそうです。

2024-07-17 16:53:14 | いけてつオタク話
九州南部は今日梅雨明けだそうです。
そして私の住む関東地方は、十九日に梅雨明けの予定です。
ということは、東北地方は、二十一日ないし二十三日あたりに梅雨明けになるのでしょうか?

22日は大暑、それと同時に獅子座の季節の始まり始まり。
私の亡き父は、獅子座の生まれだったので、お父さんの誕生月です。

不思議なものですねえ。
獅子座の季節になると、梅雨が明ける。

そして東京地方は夏休みに入ります。

そうだ、夏といえば、私の友達の命日です。

彼はとっくの昔に生まれ変わったはずですが、どこで何をしていることやら?

亡くなった人を思い出して供養すると、生まれ変わった先で、相手が我々の応援を受けていることになるそうです。

従って、私が亡き父やご先祖様たちの供養をすると、生まれ変わった先でいいことに恵まれるそうなんです。

だから私がラッキーに恵まれるときは、生れ変わる前のおうちで、かわいい子孫たちが私たちを供養しているのだと思った方がよいと聞きました。

梅雨明けの話から、何やらオカルトめいた話になりましたが、そうやって主題がコロコロ変わるのが、私の悪い癖です。

今、亡くなった恩師の皆さんに供養のお祈りをしました。
ラッキーに恵まれますように。



逃れられないものから逃れようとするのは愚かなことだ。

2024-07-10 13:30:15 | いけてつオタク話
逃れられないものから逃れようとするのは愚かなことだ。
生老病死の四苦八苦から逃れることはできない。
それは当たり前のことで、そんなことはお釈迦様に言われる前から、百も承知のことだ。

で、こんな当たり前のことをいう人のことをありがたがって、何が楽しいの?
そう考えると、宗教の勧誘人って、実にありがた迷惑の存在で、昨日も書いたように、数学的論証を弄ぶ連中や、当たり前のことを言うおっさんの弟子になれと強要する連中なんざ、おととい来やがれだ。

で、いけもとの場合、馬鹿だから馬鹿にされるのは当たり前。それから逃れようと利口になるために一生懸命勉強し、都立の某高校や、私立の某大学に入ってはみたものの、やっぱり馬鹿だから、社会適応がよくなく、メンタルをやんで、人生をドロップアウトして、館で駄文を書いている。

うーん、全く愚の骨頂とは私のことだ。
わはは。

読者の皆さんも、こんな愚かなことをしてはいけませんよ。

逃れられないものから逃れようとするのは愚かなことだ。
ムーミンに出てくるジャコウネコじゃありませんが、無駄じゃ無駄じゃでございます。
あれ? ジャコウネコでよかったかな?

ほら、いけもとは頭がよくないから、アニメのキャラまで忘れてしまったわい。

そんなわけでございます。
以上、いけもと。


キリスト教の数学的解釈。

2024-07-09 23:57:38 | いけてつオタク話
キリスト教の論理。
人は死ぬ。死ぬからには理由があるに違いない。それはアダムとイブが神に逆らって、善悪を知る実を食べたからだ。

キリスト教の論理。
すべての人は死ぬ。ところがイエスは死後三日後によみがえった。だからすべての人は死ぬという、全称命題は否定された。ところがイエスは無原罪の子である。無原罪であるためには、原罪のあがないが必要だ。それがイエスのあがないである。

従って、原罪やその他一切の罪をあがないイエスのあがないを信じ、洗礼を受ければ、死を免れることはできる。

これ、現実にはあり得ない話なのですが、数学的には筋の通った論証なのです。

学問の世界において、数学的に筋の通った論証をすれば、現実妥当性は、後の学者が追試してくれる。

従って、こういった議論が大好きなヨーロッパの人々は、キリスト教が大好きなのであります。

そうそう、死なない人々は、一部の人々である。これ、すべての人は死ぬという命題の対偶ですが、これもその例はイエス。そして旧約聖書のエリヤ。
どちらも無原罪だとされています。

従ってキリスト教の主張でいけば、罪を犯さなければ、永遠に生きられるというのがその見解であります。

さて、新約聖書に、あれは確かパウロだったと思いますが、すべての人々は罪人だという、失礼な主張があります。

ということは、イエスやエリヤは人ではなかったのでしょうか?
人でなければ、罪人ではないのですから、それは昇天できますよね?

そこで、アタナシウス派の、イエスは完全な神であり、人であったとしないと、意味が通じなくなります。

ここでめでたく論理矛盾は解消されたわけでありますが、クリスチャンであった人々で、死後三日にしてよみがえった人は見たことがありません。

うーん、後の学者が追試をするといったところで、私はそれまで生きてないや。

うーん困ったものだ。

こういうことを言っているから、いけもとははぐれざるになるのよね。
身から出たさびか。
ちゃんちゃん。

病の言い分。

2024-07-05 23:54:48 | いけてつオタク話
薬を飲まないで病の言い分を聞くと、そこに大切にされなかった怒りと悲しみがある。

ここで大切にされなかったとは、甘ったれた坊ちゃんやお嬢ちゃんが世間の厳しさにぶつかって挫折したときの怒りや悲しみではなく、有り体に言えば、虐待に対する怒りや悲しみなのである。

そしてそれは決して妄想や幻覚の産物ではなく、実体験としての虐待なのである。

そしてそれらの体験を忘れるための、本来人が持っている、相手を許す感情が働かない。

そしてそんな扱いをされて傷ついた自分に対する周囲の慰めが得られない。

彼らがほしいのは判事ではない。空想の産物ではなく、現実の肉体を持った慰め手である。

お寺に行ったところで、そんな因縁を過去に積んだから、そんな目に遭うなどという暴言に等しい坊主の説法や、キリスト教会に行ったところでありもしない自分の罪を許してもらうように、虐待した連中を許せとのこれまた許しがたい説教である。

問題は、相手の罪を許せない自分がいることと、自分が受けた虐待を慰める慰め手がいないことである。

それに、カウンセリングにいって、全然関係のないカウンセラーの謝罪や慰めをもらったところで意味はない。

とにかく、彼らは内心辛辣な怒りを抱き許せないし、虐待された自分を慰めてほしいのである。

そんな話は親友だって聞いてくれない。
それでネットの出会い系をうろつくわけであるが、出会う相手は、お金か体目当ての輩か、自分よりも倍もひどいメンヘラである。

そしてそこで、江戸の敵を長崎で討つような、全然関係のない相手への搾取や虐待が始まり、相手の反撃を受け、けんか別れするわけである。

最後の最後に頼るのは自分だけと気づいたときに、許しがたい相手を許すことができるかもしれないし、自分で自分の悲しみを、それこそトリートメントできるのかもしれないのである。

決してキュアやケアではなく、トリートメントと書いた意図をくみ取ってほしい。

傷ついた自分をトリートメントするのは、自分にしかできないのである。

以上、メンヘラの独り言であった。


逆立ちに気づく。

2024-07-05 12:57:09 | いけてつオタク話
今まで俺は逆立ちしていた。
実は自我こそが、エスの召使いなんだ。

そして自我が、エスの要求が、その時代のエトスに合っているかどうか判断して、あることをやるかやらないか決めるべきなんだ。

別段ικμτは、反社会的なことや反道徳的なことをしたいわけではない。
むしろ、社会的に有用なことをなそうとしていたし、道徳的なことをなそうとしていた。

だとしたら、ικμτのエスと自我の葛藤は何だったんだろう?

そこに、人生の経験によって得られた超自我ではなく、エスの要求を何でも却下する、鬼のような、超自我もどきがいて、それとエスが葛藤していたんだ。

そう、
ここで私が言いたかったのは、
自我はエスの召使いであり、
私の超自我は、私の人生の経験によって得た超自我なのか、それとも、周りにいい顔をしたい、超自我もどきなのか?
ということである。

この二つの文章を書いたら、なんかすーっとした。
心が楽になった。

やっぱり逆立ちは疲れます。

以上、ικμτ。