心はものではない。
あたかも心をもののように扱うのはいやだし、かといって心を神聖不可侵にするのもいやだ。
心の物化、心の物神化。
どちらもいやだ。
広告を見るがよい。
そこに「心理学の知見」によって、心を操作しようと試みる連中の意図が透けて見える。
そして心の物神化。
あたかも心を聖域化して、心を操作しようと試みる連中の意図が透けて見える。
これが二十一世紀・心の時代の実相だ。
本来心の時代とは、自由意志による温かい心のやりとりではなかったのか?
そんな考えが、大平首相あたりが言い出した、心や福祉の時代という言葉によって、自由意志による温かい心のやりとり自体を強制されるようになった。
笑えない喜劇である。
私がこんなことを言い出したのは、今まで見えなかった、近しい人たちの温かい心遣いが見えてきて、それに感涙したからだ。
実は心というものを疎外して物化物神化してきたのが他ならないこの私だからこそ、広告にあふれる対人操作のノウハウが透けて見え、辟易としているのかもしれない。
何やら論理が飛躍して意味の通じない文章になってしまったが、こんな文章を書くのは私の常である。
許されよ。
以上、IKMT。