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ねじりまんぽと田辺朔郎氏の銅像 in 京都・蹴上 on 2017-4-13

2017年06月05日 04時34分51秒 | 京都情報
2013年11月3日BS朝日の百年名家の録画を観ていたら琵琶湖疎水と「ねじりまんぽ」の
映像があったのでそれに刺激されて2017年4月13日に訪問した写真を基に表題のテーマ
で記載していきます。

「ねじりまんぽ」とは地下鉄東西線蹴上駅を地上に上がってすぐのところにある歩行者用トンネル
の愛称で上からの大きな負荷に耐えられるよう、ねじったように斜めにレンガを
積んで作られたトンネルを意味します。英語ではNejirimanpo twisted tunnelとか
Spiral Brick Tunnelと訳されます。

英文での説明は下記サイトにあります。(京都 岡崎コンシェルジュのサイト)
 http://www.kyoto-okazaki.jp/spot/spnjmp

 Googleマップ(所在地の地図)へのリンク
 https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B000'31.1%22N+135%C2%B047'24.5%22E/@35.0086483,135.7879625,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.0086483!4d135.7901512


上の写真は国道143号線側の入口
篆書(てんしょ)体で「雄観奇想」(ゆうかんきそう)と書かれた扁額が目立ちます。
扁額は粟田焼きで、揮毫は第三代京都府知事・北垣国道だそうです。

「雄観奇想」という意味は、辞書などでみると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味。
北垣国道は琵琶湖疎水が完成した姿を雄観と表現さらに若きエンジニアの田辺朔郎氏の突出した
アイデアを讃えさらに電力、水運、上水道に利用する水の多目的な利用を奇想と表現したと推定
されます。


上の写真は上述の百年名家の番組の映像です。


上の写真はトンネル入り口付近に掲示の京都一周トレイルの案内板です。






上の3枚の写真はトンネルの内部。
(下の2枚は上述の百年名家の映像より)


上の写真は反対側の入口部分です。
扁額には「陽気発処」と書かれているようですが字が消えてしまっていて判読できません。

『陽気発処 金石亦透 精神一倒 何事不成』
(ようきはっするところ きんせきまたとおる せいしんいっとう なにごとかならざん)
という言葉の一部で『集中して物事に挑めば何事でも成し遂げられる』という意味だそうです。
上述のサイトでは次のように英訳されています。
we can do anything with our concentration


上の写真は琵琶湖疎水記念館の展示で「雄観奇想」の扁額が展示されていました。

琵琶湖疎水事業は、第3代京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者
として、明治18年(1885)起工され、同23年(1990)に竣工した。

ねじりまんぽを設計・製作した田辺朔郎工学博士に焦点を当てて写真紹介していきます。


上の写真は田辺朔郎工学博士の業績を讃え建てられた銅像、顕彰碑と説明石碑の遠景です。


上の写真は田辺朔郎工学博士の銅像


上の写真は田辺朔郎氏の顕彰碑


上の写真は田辺朔郎工学博士の説明石碑

田辺朔郎は文久元年(1861)江戸に生まれる。明治15年(1882)に工部大学校(現在の東大工学部)
の学生であった田辺は京都の衰微を回復するため琵琶湖疎水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に
会い請われて翌年京都府に着任し 財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け明治18年(1885)
起工後は設計 施工の総責任者となる当時はほとんど機械 資材とてなく いわば人力のみに頼る
長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが 卓抜な技術と強い信念不屈の精神力により
これを克服した。 また優れた先見性により世界で2番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し産業動力源
とするとともにわが国初の路面電車を京都に走らせた明治23年(1890)4月晴れの通水式を迎えた
田辺朔郎は28才であった。わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に近代都市京都
の基礎をつくった恩人田辺朔郎の像を建てここに顕彰する
                        京都市


銅像は京都華頂ライオンズクラブが1982年11月に建て、京都市に寄贈した。(下の写真)









上の3枚の写真は琵琶湖疎水記念館の説明パネル(北垣国道知事と田辺朔郎工学博士)

疏水建設は当初、運河や水車動力が目的だったが、後に水力発電や上水道へと役割を変えた。
第二疏水も着工され、東京遷都によって沈滞していた京都の産業界は活力を取り戻した。

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