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初代兵庫県知事 伊藤博文の神戸時代の遺構や遺物

2018年08月01日 08時04分56秒 | 神戸情報
2018年7月12日は初代兵庫県知事 伊藤博文が慶応4年5月23日(新暦換算で1868-7-12)
に就任した時であることから兵庫県誕生150周年の記念式典が神戸国際会館こくさいホールで
行われサンテレビが実況中継の番組を放映しています。

伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日  新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日  新暦換算では1869年5月21日


1869年1月(新暦)『国是綱目』六カ条いわゆる「兵庫論」が問題視され短期で
兵庫県知事を辞任することになった。実際は後任(2代目久我通城(こが みちき)後に
北畠通城と改姓、3代目中島錫胤(ますたね))は実務をできない状況であったので
4代目の陸奥宗光(陽之助)に業務を引き継ぐまで知事を代行しています。
明治2年6月20日 新暦換算1869年7月28日
兵庫県知事を知事を辞任した後は東京に移り会計院の権判事に任命され上司の
大隈重信とともに初めての鉄道敷設に尽力することになります。
さらに明治3年(1870)財政・銀行・貨幣制度調査のためアメリカに派遣や
明治4年(1871)岩倉使節団の副使として米欧を視察、英語力もブラッシュアップされ
ご存知のとおり初代の総理大臣にまで出世していきます。


国是綱目六カ条は下記のとおり。
① 君主政体
② 兵馬の大権を朝廷に返上
③ 世界万国との通交
④ 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与
⑤「世界万国の学術」の普及
⑥  国際協調・攘夷の戒め


伊藤博文の兵庫県知事就任時は伊藤俊輔と称していました。
伊藤俊輔は馬にまたがつてあちらこちら駆け巡り「坊主奉行」と呼ばれていました。




上の2枚の写真は参考のために添付したもので2018年7月11日にイオンモール神戸南の
出前展示での国是綱目六カ条の要約と伊藤博文を紹介したパネルです。

参考のため兵庫県の知事の一覧表が記載されていますのでリンクさせていただきます。
 https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk32/pa13_000000016.html


また兵庫県政150周年のイベントとして初代兵庫県知事の伊藤博文に関する講演会などが
多く組まれその一部を筆者は聴講しています。

そのような状況下、伊藤博文の神戸時代の遺構や遺物をテーマに取り上げました。
写真を中心に紹介していきます。

神戸大倉山公園の伊藤博文銅像台座






上の3枚の写真は2018年7月29日撮影の大倉山の伊藤博文銅像台座と現地説明板
神戸市が上記の県政150年の記念日(7月12日)までに台座へのアプローチを作り、
高さ2mあったフェンスを1.2mの見やすいものに新調。さらに現地説明版も新しく
なりました。
説明書きが読み難いのでそのまま転記します。

大倉山と伊藤博文像台座
「我庵は茅渟の海原池に見て波の淡路は庭の築山」
明治の大実業家大倉喜八郎は、安養寺山(今の大倉山公園)からの眺望をこう詠みました。
大倉喜八郎は、明治維新の動乱の中で御用商人として活躍し一代で大倉財閥を築いた人物です。
大倉喜八郎は日清戦争後、安養寺山の約八千坪の土地を買い取り、広大な別荘を建てました。
当時の安養寺山は松の木が繁り瀬戸内海や淡路島が望めたそうです。
しかし、この景勝地に建てた別荘に、大倉喜八郎自身はあまり滞在せず、彼と懇意であり、
初代兵庫県知事を務めた伊藤博文が、「昼夜涼風吹不断、神戸第一の眺望且避暑地に有之」
と専ら利用していました。その伊藤博文が、1909年(明治42年)ハルビンで射殺されたのを
契機に大倉喜八郎は、伊藤博文が愛したこの地に彼の銅像を建て、公園として市民に開放
する条件で、土地と別荘を神戸市に寄付しました。二年後の1911年(明治44年)10月
銅像が建造され、大倉山公園が開園しました。
銅像は、伊藤博文がフロックコートを着用し、自身が起草の中心となった帝国憲法草案を
手にするもので、高さ十尺(3.03m)ありました。
台座は、京都大学初代建築学科教授の武田五一の設計によるもので台座上部の形状は階段状
ピラミッドがあしらわれています。台座のデザインは国会議事堂中央部分と類似していますが
これは武田五一の愛弟子である吉武東里らが師匠のデザインを取り入れて国会議事堂を設計
したためといわれています。
銅像は第二次世界大戦中に金属供出され、現在では銅像の台座と大倉山の名称が当時を
偲ばせています。                 神戸市


原形制作は小倉惣五郎 



上の写真は現地説明板の写真を拡大したものです。

参考のため2010年10月8日撮影の伊藤博文銅像台座



以前の説明書きも添付しておきます。
「伊藤博文銅像台座

石材によるこの大きな造形物は、初代兵庫県知事・伊藤博文の銅像の台座です。
銅像は当初1904年、湊川神社本殿の横に設置されましたが、翌年、日露戦争
の講和条約の内容に激昂した群集に引き倒されてしまったそうです。

その後1909年、ハルピンで伊藤博文が暗殺された後、親交のあった大倉財閥の
創始者・大倉喜八郎が自身の別荘のあったここ大倉山に台座をつくり、改めて銅
像を再建し、あわせてこの地を公園として市民に開放する条件で神戸市に土地
と別荘を寄付しました。
当時は周辺に高い建築物も無く、銅像は神戸港を行き交う船からも見えたそうで
す。その後1942年、第2次世界大戦中に銅像本体は金属供出され、台座だけが
残り、現在に至っています。     (財)神戸市公園緑化協会」


銅像は当初明治37年(1904)、伊藤博文が湊川神社の創建に奔走したことから、
有志により湊川神社本殿の右横に設置されましたが、翌年、日露戦争
の講和条約の内容に激昂した群集に引き倒されてしまったそうです。
暴徒化した人達により神戸港に沈める直前にようやく警官隊に奪い返され、その後
長州出身の服部一三知事を経由して郷里の萩に送られました。


上の写真は明治37年(1904)から1年足らず湊川神社に設置された伊藤博文公の銅像
出典:神戸佳族 Vol.54(2016年5・6)Page13

朝日新聞デジタル(2017年11月13日05時47分)では
「神戸・大倉山公園に残る台座 肝心の銅像は?」と題して記事を書かれていますので
リンクさせていただきました。
  http://www.asahi.com/articles/ASKC86D7CKC8PIHB034.html


改装前の伊東博文銅像台座について以前に書いた小生のブログを参照ください。
 神戸大倉山公園の伊藤博文銅像台座 on 2010-10-18


北風正造顕彰碑

上の写真は神戸市兵庫区にある能福寺の境内の北風正造氏顕彰碑です。
明治29年(1896)兵庫県知事周布公平により建立された。書は初代の兵庫県知事
伊藤博文によるものである。

禅昌寺の伊藤博文詩碑


上の写真が禅昌寺の伊藤博文詩碑です。 撮影:2012-5-16

聞通老僧移錫処延文遺跡
尚存留満山紅葉無人稀
風色蕭々古寺秋
 」
と書かれています。

明治初年、伊藤博文が若くして初代兵庫県知事のころ、
秋の一日この禅昌寺に観楓に来たときの作です。

裏面には昭和26年3月 武貞一族大法要 と書かれています。

禅昌寺の床の間に同じく伊藤博文の詩(下記)が飾られています。
清時不用問桃源携酒来尋紅葉邨
 漫擬当年狂杜牧青尊相対到黄昏



明親小学校
明親小学校は慶応3年(1867)6月13日に開校の兵庫学校*1が前身でのちに
明親館と伊藤博文により命名

注)*1 慶応3年(1867)6月13日、切戸町の函館物産会所の建物を校舎として、
    「兵庫学校」と言う名前で開校。明治6年(1873)には経営不振、
    新学制公布(1872年)があったことなどにより閉校。


若き伊藤博文の写真



上の2枚の写真は神戸時代の伊藤博文と説明書き 撮影:2018-7-30
兵庫県公館の展示より


上の写真は岩倉使節団当時(明治4年(1871))当時の写真

伊藤博文の書



上の2枚の写真は「南山寿」と書かれた伊藤博文の書と説明板 撮影:2018-7-30
兵庫県公館の展示より


上の写真は「鷗盟」と書かれた伊藤博文の書 撮影:2018-7-30
兵庫県公館の展示より


上の写真は酒杯に書かれた伊藤博文の書 撮影:2018-7-11
出前展示 イオンモール神戸南での展示より

伊藤博文の書状



上の2枚の写真は明治元年5月26日 新暦換算1868年7月15日付けの書状
撮影:2018-7-11 出前展示 イオンモール神戸南での展示より

兵庫県の誕生に関して越前宰相(松平慶永)からの命令書で兵庫県が大阪府の支配から
免れたことが記載されている大変貴重な手紙です。

最後に

上の写真は慶応4年5月23日  新暦換算では1868年7月12日に成立した
第一次兵庫県の地域がで示されています。
撮影:2018-7-30 兵庫県公館の展示より

第1次兵庫県(慶応4年(1868)~明治4年(1871))
 慶応4年(1868)5月に1次兵庫県が成立しています。発足当時の兵庫県は
兵庫(神戸)港を中心とした摂津国武庫郡以西の4郡及び播磨国の7郡に散在
する旧幕府直轄地で村の数は211、石高は6万6千石でした。
初代県令は伊藤博文で「兵庫論」と呼ばれる藩廃止の意見書を朝廷に提出
したことから長州藩の反感を買い知事を辞職します。
第2次兵庫県(明治4年(1871)~明治9年(1876))
 明治4年7月の廃藩置県により従来の大名領がそのまま県になりました。
 明治4年11月には3府302件をすべて廃止し、3府72件に再編成された。
 町村数609 人口14万8千人の県となりました。
 このころ県知事となった神田幸平(蘭学者)は先駆的な施策を実行し「経済」という
 言葉を初めて使用しました。
第3次兵庫県(明治9年(1876)~明治22年((1889))
 明治9年に明治政府は3府35県としました。
 この年の8月に兵庫県は播磨県及び但馬全域と丹波の氷上・多紀の2郡名東県の
 淡路を併合してほぼ現在の兵庫県に近い形となりました。
 人口は134万5千人となりました。当時は東京府、大阪府をしのいでいました。

 兵庫県の併合の過程で櫻井勉翁の米寿賀集の資料が貴重なものです。
 この中に豊岡県と鳥取県を兵庫県に併合する案もあったことが記載されています。



上の写真は第1次兵庫県時代の県庁の建物です(兵庫より坂本村へ移転)
撮影:2018-7-30 兵庫県公館の展示より


上の写真は兵庫県の変遷(第1次と第2次兵庫県)
出典:2018年7月12日 神戸新聞 兵庫県政150年特集記事

最後に伊藤博文の神戸への貢献事項を箇条書きで示してペンを置きます。

(1) 神戸病院の設置と医学伝習所開設 1869年4月(旧暦)

(2) 徳川道の建設費用(2万4千両)を谷勘兵衛より工面

(3) 小学校の前身兵庫学校を開設 1868年6月10日(旧暦)
     のちに明親小学校と命名

(4) 兵庫県県庁を兵庫城跡から坂本村へ移す

その他下記のような業績があります。

 ・日本初の混浴禁止令

 ・福原遊郭の設置

 ・湊川神社の創建

 ・新聞の魁となる「湊川濯余」の認可

 ・神戸事件の処理





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