2014年3月16日(日)、JR高円寺駅の南側にある寺社を散策しました。
今回はその第7回で万寿山 松応寺を紹介します。
これまでの散策記
第1回 宿鳳山 高円寺
第2回 高円寺氷川神社(気象神社)
第3回 如法山 長善寺(赤門寺)
第4回 瑞祥山 鳳林寺
第5回 祥雲山 福寿院
第6回 永昌山 宗泰院
万寿山 松応寺の基本情報
住所: 東京都杉並区高円寺南2丁目30−1 TEL:03-3311-8020
宗派:曹洞宗 山号:万寿山 御本尊:聖観音坐像
Goo地図はこちら
杉並区教育委員会による説明板の内容をそのまま引用紹介します。
「当寺は、万寿山と号する曹洞宗の寺で、現在の本尊は聖観音坐像です。(戦火で本尊釈迦牟尼仏を
消失したため) 寺伝によると明暦2年(1656)浅草八軒寺町(現台東区寿2丁目)に開創されました。
開山は大松寺(現北区西ヶ丘1丁目)5世の悦州舜喜大和尚で、開基は雪岩長卯大和尚です。
山門に掲げる万寿山の山号は江戸時代の高名な書家高玄融の筆になるものです。
江戸時代の当寺は、与力・同心など武家寺として栄えていましたが、墓地が狭小なことから
大正7年6月に寺院の維持発展のため、現在地に移転して来ました。
当寺の歴史については、昭和20年の戦火で全焼し、本尊はじめ、寺宝・寺録などの全てを消失した
ため、詳細は、明らかではありません。
現在の本尊は、禅宗様式の濃い仏像で、藤原時代の様式を模したと思われるふっくらした円満な
お顔に特徴があります。
なお、当寺には「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵
(1850年歿)の墓があります。
昭和61年1月 杉並区教育委員会」
上の写真は入り口の山門。
上の写真は境内風景。
上の写真は「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵(1850年歿)の墓
佐藤 信淵(さとう のぶひろ)についてWikipediaより引用紹介します。
佐藤 信淵、明和6年6月15日(1769年7月18日) - 嘉永3年1月6日(1850年2月17日))は、江戸時代
後期の絶対主義的思想家であり、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。
出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)出身。
通称は百祐、字は元海、号は松庵・万松斎・融斎・椿園。
明和6年(1769年) - 出羽国雄勝郡で生まれる。
天明 - 寛政年間 - 父の遺言に従い諸国を遍歴する。東北・中国地方への度々の旅行で見聞した農村の
悲惨な間引きに最も心を痛めた[1]。
寛政4年(1792年) - 江戸京橋柳町にて医業を始める。
寛政9年(1797年) - 母が死に、上総国山辺郡大豆谷(まめざく)村(現千葉県東金市)に移る。
文化10年(1813年) - 江戸日本橋富沢町で医業を営む。
文化12年(1815年) - 平田篤胤に入門。
文化13年(1816年) - 医業廃業。吉川源十郎一件に連座して入牢。江戸所払いにより、下
総国船橋大神宮(現千葉県船橋市)に移る。
文化14年(1817年) - 大豆谷村に移る。
文政6年(1823年) - 『混同秘策』を著す。
文政8年(1825年) - 『天柱記』を著す。
天保3年(1832年) - 江戸所払いにより、武蔵国鹿手袋村(現埼玉県さいたま市南区)に移る。
『農政本論』を著す。
天保4年(1833年) - 『内洋経緯記』を著す。
天保10年(1839年)には親交のあった渡辺崋山、高野長英、小関三英とともに蛮社の獄に連座したが、
わずかに罪を免れる。
天保11年(1840年) - 綾部藩の藩主九鬼隆都に招かれて勧農策を講じた。やがて、かれの学識は
老中首座であった水野忠邦の買うところとなり、その罪も許されて、忠邦の諮問に
応ずるために『復古法概言』を著した(弘化2年刊行)。
信淵は幕府専売制ともいうべき「復古法」を実施し、流通を幕府の手によって直接統制し、
流通過程からの収奪による富国策を提示した。
天保12年(1841年) - 盛岡藩に仕官。
嘉永3年(1850年) - 死去。墓は浅草松応寺(現在は杉並区高円寺南2-29に移転)
明治15年(1883年) - 朝廷から正五位を追贈される。
明治42年(1909年) - 平田神社に合祀され、彌高神社と改称された神社の祭神となる。
今回はその第7回で万寿山 松応寺を紹介します。
これまでの散策記
第1回 宿鳳山 高円寺
第2回 高円寺氷川神社(気象神社)
第3回 如法山 長善寺(赤門寺)
第4回 瑞祥山 鳳林寺
第5回 祥雲山 福寿院
第6回 永昌山 宗泰院
万寿山 松応寺の基本情報
住所: 東京都杉並区高円寺南2丁目30−1 TEL:03-3311-8020
宗派:曹洞宗 山号:万寿山 御本尊:聖観音坐像
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杉並区教育委員会による説明板の内容をそのまま引用紹介します。
「当寺は、万寿山と号する曹洞宗の寺で、現在の本尊は聖観音坐像です。(戦火で本尊釈迦牟尼仏を
消失したため) 寺伝によると明暦2年(1656)浅草八軒寺町(現台東区寿2丁目)に開創されました。
開山は大松寺(現北区西ヶ丘1丁目)5世の悦州舜喜大和尚で、開基は雪岩長卯大和尚です。
山門に掲げる万寿山の山号は江戸時代の高名な書家高玄融の筆になるものです。
江戸時代の当寺は、与力・同心など武家寺として栄えていましたが、墓地が狭小なことから
大正7年6月に寺院の維持発展のため、現在地に移転して来ました。
当寺の歴史については、昭和20年の戦火で全焼し、本尊はじめ、寺宝・寺録などの全てを消失した
ため、詳細は、明らかではありません。
現在の本尊は、禅宗様式の濃い仏像で、藤原時代の様式を模したと思われるふっくらした円満な
お顔に特徴があります。
なお、当寺には「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵
(1850年歿)の墓があります。
昭和61年1月 杉並区教育委員会」
上の写真は入り口の山門。
上の写真は境内風景。
上の写真は「農政本論」「経済要録」「開国要論」等の著者で江戸時代の農政学者佐藤信淵(1850年歿)の墓
佐藤 信淵(さとう のぶひろ)についてWikipediaより引用紹介します。
佐藤 信淵、明和6年6月15日(1769年7月18日) - 嘉永3年1月6日(1850年2月17日))は、江戸時代
後期の絶対主義的思想家であり、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。
出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)出身。
通称は百祐、字は元海、号は松庵・万松斎・融斎・椿園。
明和6年(1769年) - 出羽国雄勝郡で生まれる。
天明 - 寛政年間 - 父の遺言に従い諸国を遍歴する。東北・中国地方への度々の旅行で見聞した農村の
悲惨な間引きに最も心を痛めた[1]。
寛政4年(1792年) - 江戸京橋柳町にて医業を始める。
寛政9年(1797年) - 母が死に、上総国山辺郡大豆谷(まめざく)村(現千葉県東金市)に移る。
文化10年(1813年) - 江戸日本橋富沢町で医業を営む。
文化12年(1815年) - 平田篤胤に入門。
文化13年(1816年) - 医業廃業。吉川源十郎一件に連座して入牢。江戸所払いにより、下
総国船橋大神宮(現千葉県船橋市)に移る。
文化14年(1817年) - 大豆谷村に移る。
文政6年(1823年) - 『混同秘策』を著す。
文政8年(1825年) - 『天柱記』を著す。
天保3年(1832年) - 江戸所払いにより、武蔵国鹿手袋村(現埼玉県さいたま市南区)に移る。
『農政本論』を著す。
天保4年(1833年) - 『内洋経緯記』を著す。
天保10年(1839年)には親交のあった渡辺崋山、高野長英、小関三英とともに蛮社の獄に連座したが、
わずかに罪を免れる。
天保11年(1840年) - 綾部藩の藩主九鬼隆都に招かれて勧農策を講じた。やがて、かれの学識は
老中首座であった水野忠邦の買うところとなり、その罪も許されて、忠邦の諮問に
応ずるために『復古法概言』を著した(弘化2年刊行)。
信淵は幕府専売制ともいうべき「復古法」を実施し、流通を幕府の手によって直接統制し、
流通過程からの収奪による富国策を提示した。
天保12年(1841年) - 盛岡藩に仕官。
嘉永3年(1850年) - 死去。墓は浅草松応寺(現在は杉並区高円寺南2-29に移転)
明治15年(1883年) - 朝廷から正五位を追贈される。
明治42年(1909年) - 平田神社に合祀され、彌高神社と改称された神社の祭神となる。
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