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彦根城からの眺望

2020年05月06日 04時35分36秒 | 滋賀県情報

一昨日(2020-5-4)、NHKBSテレビ「火野正平のこころ旅 2014年4月の再放送

滋賀県」を視聴していた時に彦根城からの眺望が忘れられませんという手紙が

あった。そこで彦根城からの眺望をテーマにブログを書くことにしました。

彦根城への訪問日は2020年1月9日です。

上の2枚の写真は天守閣最上階の展示パネルの写真で

西北から東北方面を撮ったものです。

上の写真は天守閣入り口付近に掲示の展望図

上の写真は私が撮影した西北方面の眺望

上の写真は東側の眺望 JR彦根駅など彦根市の中心街の眺望

上の写真は佐和山を中心にした眺望

上の写真は山の中腹の大洞弁財天(長寿院)を中心に撮った眺望

長寿院には野猿が居ついていたことを思い出しました。

上の3枚の写真は色々な角度から撮った彦根城天守閣(国宝)

 

Wikipediaより彦根城の概要と歴史(江戸・明治時代)を引用紹介します。

概要
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の

拠点として築かれた平山城(標高50m)である。
山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも

呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。 
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。
天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定

されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、
国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に

稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が

保存されることとなったのだという。 
天守が国宝指定された5城(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)の一つに

数えられる。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の

世界遺産暫定リストに掲載されたものの、
近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。 
滋賀県は明治の廃城令で解体された城が多く彦根城は唯一の保存例である。 

歴史・沿革

江戸時代
 
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、

その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、
西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」
と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城で

あったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に

居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、
1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、

直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、

1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。 
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)

が手伝いを命じられる天下普請であった。
1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。
大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。
この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。
その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中

では最高となる35万石を得るに至った。 
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、

月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。
徳川統治下の太平の世においては、城郭という軍事施設の存在理由がなくなり

本来の目的とは違った使われ方をしていた。
西国大名の抑えとして徳川幕府の重要な軍事拠点だった彦根城だが、主な機能は

政治の舞台や年貢米の保管となり天守や櫓は倉庫等として使う以外には使い道はなかった。 
1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。 
幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。
その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。 

明治時代
 
明治に入り、各地の城は廃城令で破壊・売却されていった。
彦根城の天守閣は明治元年に700円で落札され解体される寸前で、明治11年10月に

明治天皇が巡幸で彦根を通過した折、城の保存を命じたため破却を逃れたという。

その際、天皇に保存を奏上したのは、巡幸に随行していた大隈重信という説と、
天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)という説とがある。 

 

彦根散策記 on 2020-1-9のブログへのリンク

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/2ebb8abfddb5b4c863ef640cba2214cd

 

 

 


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