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踊り松の碑 in 神戸市東灘区深江本町4丁目2

2023年04月09日 06時03分44秒 | 神戸情報
本日は神戸市東灘区深江本町4丁目2、旧神戸商船大学養正館 の敷地に建てられた
踊り松の碑に関連する写真を紹介します。

この記事を書くきっかけになったのは神戸市立中央図書館が発行する「KOBEの本棚」
103号2023年3月20日発行に紹介されていたからです。


上の2枚の写真は「踊り松の碑」です。 (撮影:2011-12-9) 


旧神戸商船大学養正館(深江本町4丁目2)あたりに踊り松と呼ばれる
老松の大木があった、また松林が群生していたことを後世に残すため
さらに、商船大学の開学30周年の記念に深江財産区の手で踊り松の記念碑が建立された。
踊り松の伝説について田辺眞人編著「神戸の伝説」(1976)のPage11-12を要約引用します。
卯の葉祭と踊り松
森の稲荷神社に伝わる社伝では元正天皇の霊亀元年(715)、卯月卯日(現在の5月初め)
神輿が海上から松の大木の根元に流れ着いた。神輿の中から「我は稲荷の神なり。
この山の手の森かげに祀れば、あたりを鎮め守らん」とのお告げがあった。
喜んだ人々はその松の回りを踊りまわって神迎えをし神託のとおり、北の森の地に
稲荷の神を祀った。
この時から、その松の木は踊り松と呼ばれ始めた。
以来、近在は平安な日が続き豊作の年が続いたという。
ところが、ある年の麦の刈り入れの季節に、大雨が降り続いて洪水が起こり、森の稲荷神社の
神幣が濁流に流されてなくなってしまった。一人の村人が、水のひいたあと、深江の踊り松の
根元に、その神幣が引っかかっているのを見つけた。
その知らせを聞いた村人は麦の刈り干し中だったので、杵を持ったまま松のところにやってきた。
喜んだ村人は杵を振り振り松の回りを踊り、神幣を神社に持ち帰った。
このことからもこの松を踊り松と呼ぶのである。
この時から毎年、卯月卯日に「卯の葉祭り」に氏子たちが松の回りで杵をかついで
神迎えの踊りをする風習ができ、松を踊り松とよぶようになった。
元禄14年(1701)刊の摂陽群談で「躍(おどり)は終に止みぬ」とあるので、
氏子が踊るこの風習はこの時点で亡くなっていた。
尚、深江の古文書「深江由緒書」では神輿が流れついたのは延暦5年(786)と記録されています。
深江本町4丁目の旧町名は踊り松にちなみ「深江踊松町」でした。


上の写真は現地説明板。

上の写真は大正7年(1918)に私立川崎商船学校が設立された時に讃岐の金毘羅宮から
勧請した祠と踊り松。踊り松は終戦直後の時点で枯れ死して存在していない。
写真の出典:神戸深江生活資料館 史料館だより 47号(2019.3.31)Page6

上の写真は寛政年間(1789-1801)に刊行された摂津名所図会で描かれた芦屋浦踊松。
高橋川の右岸に松林が群生している様子が伺える芦屋浦踊松として紹介されている。
現在の行政区分で言えば踊松は深江浜にあり芦屋浦ではない。
しかし、摂津名所図会が出版された頃は打出(芦屋市)より青木(神戸市)までを
芦屋浦と呼ばれていました。
芦屋浦踊松の右側(東側)に高橋川があります。俗謡に「深江越えれば大日如来、高い高橋、踊松」
と謡われていた。高橋川に板橋が架かっていることも絵から判断できます。

上の写真は本庄小学校に残されている松の木(昔の松は枯れ死、新たに植栽です。
この木は明治33年(1900)になって本庄小学校が建設された時に運動場のはしに
松の木が並んでおり、この松は当時を偲ばせています。 (撮影:2011-12-9) 
上の写真は現地の説明板です。
 

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