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竹中郁と神戸文学館

2019年07月19日 06時50分43秒 | 神戸情報

2019年6月8日(土)、神戸市文学館で企画展「モダニズムの原風景 竹中 郁と原田の森」
を観覧しました。

そこで、竹中郁と神戸文学館に関する写真や資料を整理して書いていきます。

まず、Wikipediaより竹中郁(1904-1982)についての解説を引用紹介します。
竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日)は、日本の詩人。本名、育三郎。
兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。
兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同級生で、
生涯交友が続いた。小磯の卒業制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。
中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人と
しての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、
モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。
1924から1926年までヨーロッパに留学する。1926年に近藤東らの慫慂により『詩と詩論』
に参加する。1932年刊行の詩集『象牙海岸』中の「ラグビイ」は当時流行したシネポエムの
スタイルをとり、モダニズム詩の代表的成果の一つと評価されている。
しかし、モダニズム的都会趣味の芯には常に洗練された抒情があり、モダニズム詩の
フォルマリズム的傾向とは一線を画した。1930年には「四季」の同人になっている。
戦後は、詩作とともに雑誌『きりん』の創刊編集、多数の校歌作詞など、児童詩の分野
での指導育成に尽力した。
1982年3月7日、脳内出血のため神戸中央市民病院で死去。戒名は春光院詩仙郁道居士
兵庫県内の学校を中心に、数多くの校歌の作詞を行っている。
  (神戸市内のみピックアップ)
神戸市立入江小学校 (竹中の母校、当時は神戸市立入江尋常小学校)
             大正5年(1916年)卒業。作曲:有馬大五郎

神戸市立有馬小学校 作曲:川澄健一
神戸市立大池小学校 作曲:松崎啓治
神戸市立谷上小学校 作曲:脇坂修之
神戸市立長峰中学校 作曲:伊熊良穂
神戸市立鷹取中学校 作曲:髙木東六
神戸市立西須磨小学校 作曲:鷲山巖
神戸市立本山第二小学校 作曲:八木真平
神戸市立東須磨小学校 作曲:海老京一 (昭和25年)
神戸市立二葉小学校(現在廃校) 作曲:海老京一
神戸市立烏帽子中学校 作曲:石田純一  
神戸市立高倉中学校 作曲:川崎祥悦
神戸学院女子短期大学 作曲:鈴木洸
神戸大学発達科学部附属住吉中学校(現在廃校)


受賞:兵庫県文化賞[昭和30(1955)年] 
   神戸市文化賞[昭和48(1973)年] 
   紫綬褒章[昭和48(1973)年]
   日本現代詩人会先達詩人[昭和53(1978)年]
   読売文学賞[昭和55(1980)年] 


企画展概要
神戸市文学館で企画展「モダニズムの原風景 竹中 郁と原田の森」について
会期:2019年3月8日(金曜)~6月9日(日曜)

趣旨:神戸出身の詩人、竹中郁は港町のモダニズムを代表する文学者です。
   須磨の陽光を浴びて育った竹中は自由な雰囲気の関西学院原田の森キャンパスで、
   その才能をはぐくみました。在学中から文芸活動に関わり、詩作のほか同人誌の
   発行や「詩話会」の開催など活発な学生生活を送っています。
   フランス的な明るさがあったと評判だった同期の中でも竹中はその代表格でした。
   一時は画家を志していたこともあり、神戸二中以来の親友、小磯良平をはじめ、
   多くの画家とも親交を深めたほか、関学時代には絵画部にも入っていました。
   また、芥川龍之介や堀辰雄、三島由紀夫など竹中のエッセイには意外な文学者の
   名前も登場します。まさにモダニズムの交差点のような華やかさです。
   今回の企画展では、竹中の軽やかなたたずまいを生み出した原田の森の関西学院
   時代を中心に詩人の原風景を探ります。


展示の内容を写真で紹介できないのは残念ですが竹中郁の年表や関西学院での学生時代
(大正12年(1923)4月~昭和2年(1927)3月に文学部英文学科に在籍)の資料の
展示が印象に残っています。


上の写真は企画展のリーフレット


神戸文学館

神戸文学館のHP:http://www.kobebungakukan.jp/


上の写真は神戸市立文学館




上の2枚の写真は関西学院の礼拝堂として明治37年(1904)に建てられた、
明治の終わりごろの関西学院の原田の森の校舎群です。
昭和4年(1929)関西学院が西宮に移転後、このブランチ・メモリアル・チャペルは
戦災に遭いましたが神戸市が買い取り長らく王子図書館として使用されていました。
平成5年(1993)チャペルの元の姿に復元市民ギャラリーとしてオープン。
さらに平成18年(2006)に神戸文学館として開館。
平成20年(2008)3月には国の登録文化財に選ばれました。
竹中郁が関西学院に在籍中はチャペル及び図書館として建物が利用されていました。

竹中郁関連の碑など


上の写真は綱敷天満宮の奉賛歌の碑




上の2枚の写真は竹中郁(1904-1982)の作品ハムマー 詩集「象牙海岸」(1932)より
港都KOBE芸術祭」ファンタジー号での展示 撮影:2017-10-14


上の写真は王塚公園(神戸市西区)の正面(北側)の入口に設置された竹中郁の詩の石碑。
撮影:2011-6-23

二葉小学校の校歌
 二葉小学校(現ふたば学舎)に竹中郁作詞の校歌の掲示があります。


上の写真は竹中郁が作詞の旧二葉小学校の校歌の展示 撮影:2019-6-27


竹中郁の学校生活

兵庫くすのき幼稚園(兵庫幼稚園)
兵庫くすのき幼稚園は神戸市立兵庫幼稚園(創立 明治20年)、神戸市立 楠幼稚園
(創立 明治45年)の両園が統合された幼稚園で住所は神戸市兵庫区永沢町3丁目7−12

竹中郁が卒園した幼稚園です。宇野浩二や淀川長治、富子姉弟もこの幼稚園に通った。


上の写真は現在の兵庫くすのき幼稚園 出典:Googleストリートビュー


上の写真は明治20年代?の兵庫幼稚園 神戸で最古の幼稚園だそうです。

竹中郁は明治37年(1904)神戸市兵庫区永沢町4丁目24番に父石阪芳松、母下村氏
しうの三男として生まれてた。本名は育三郎。石阪家の菩提寺は築島寺。
兄弟は長女いと、次女たね、長男慶一郎、次男孝二郎、三女千鶴子
育三郎は1歳の時に叔母くにの嫁ぎ先の竹中亀太郎の養嗣子にもらわれ竹中姓となる。
竹中家は神戸市兵庫区北仲町10番地(現在は本町)で幼少時はここで育った。
明治41年(1908)4月、育三郎は満4歳で兵庫幼稚園に入園しています。
兵庫幼稚園は明治20年(1887)6月、神戸の開港事業に尽力した有馬市太郎らにより
旧七宮小学校跡に私立神戸幼稚園として仮設開設された。その翌年永沢町4丁目に
園舎を建て、明治31年に神戸市に寄付して神戸市立兵庫幼稚園と改称された。
竹中郁は明治43年(1910)3月、兵庫幼稚園22回生として卒園しています。


上の写真は明治43年(1910)の卒園写真 (どこに竹中郁が写っているかは不明)
出典:4)のPage39 昭和12年(1937)発行の50周年記念誌に掲載 

入江小学校(入江尋常高等小学校)
竹中郁が通学していた頃は神戸市立入江尋常高等小学校。入学は明治43年(1910)4月に
入学、大正6年(1917)3月に卒業。竹中郁の小学校時代は病弱で10歳まで保たんと医者
から言われるほどであった。2年生の年末に兵庫県立病院(現在の神戸大学付属病院)に
2か月間入院しています。そこで3年生のはじめからは須磨の八本松の別荘(現在の住所
でいうと須磨浦通り4丁目)に移った。そこから兵庫軌道(現在の山陽電鉄)まで歩き
電車に乗り入江小学校に通学するようになった。(通学時間は約1時間)

上の写真は竹中郁小学校3年生の頃(男兄弟と舞子にて)
出典: 4)Page62

また、育三郎は上級学校への進学のため5年生のときに須磨の別荘から北仲町の家に
戻っています。入江小学校には16回生として無事卒業しています。

入江小学校の卒業生には別車博資、東山魁夷、川西英などの著名な芸術家を輩出。
昭和62年度(1987)に廃校となりました。

入江小学校の校舎の建築を紹介したサイトにリンクさせていただきました。
 http://memoriesofkobe.blog63.fc2.com/blog-entry-43.html


兵庫高校(神戸二中)
大正6年(1917)4月、育三郎は神戸二中に入学した。

当時は第1次世界大戦(1912~1918)の末期で日英同盟により参戦し青島を攻略し中国大陸

に進出、神戸では三菱、川崎など軍需品需要で重工業が確立された時期で造船景気とともに

船舶輸送で稼いだ船成金が隆盛を極めていた。

ロシア革命(1917)に干渉してシベリア出兵をし資本主義が発展した一方、民衆たちの不満

も起こり米騒動や川崎・三菱の労働争議があった時代でもあった。

竹中郁は「二中の厳格野蛮なる教育に抗し得ず、成績不振さらに欠席も多く4学年で留年」と

著書の「自略譜」で書いています。

4)の書籍(Page79)で竹中郁の二中時代の成績と欠席日数が記載されています。(下記)

 大正6年(1917) 1年 180人中 164番 欠席12日

 大正7年(1918) 2年 180人中 141番 皆勤

 大正8年(1919) 3年 180人中 138番 欠席1日

 大正9年(1920) 4年 留年

 大正10年(1921) 4年 180人中113番 欠席7日

 大正11年(1922) 5年 101人中78番

神戸二中時代に画家の小磯良平(当時は岸上良平)と出会い終生の友となる。

上の写真は神戸二中時代の竹中育三郎

出典:4)のPage75



関西学院大学文学部英文学科

今回の展示で詳しく解説展示されていました。



小磯良平とみなとの祭

昭和8年(1933)11月7・8両日に第1回 神戸みなとの祭は開催されました。
小磯良平はそのPRポスターを制作しています。(上の写真)
シルクハットは竹中郁がモデルになっています。

 

墓所と戒名

昭和57年(1982)3月7日に亡くなりました。

墓所は能福寺で戒名は春光院詩仙郁道居士



参照資料:
  1)神戸人物史 モニュメントウォークのすすめ  Page102

  2)これだけは知っておきたい 神戸ゆかりの50人 歴史と観光の散策ガイドPage49

  3)神戸の100人  Page145-148

  4)足立巻一著 評伝竹中郁 その青春と詩の出発(理論社刊)

「評伝 竹中郁」の書評のサイトがありましたのでリンクさせていただきました。

  https://www.sogensha.co.jp/page03/a_rensai/kosho/kosho27.html

 

 

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