「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

「憲法とは何か」

2006-05-03 | 
政治的話題は極力書かない方針のブログですが、きょうは憲法記念日。というわけで、長谷部恭男さんの「憲法とは何か」を取り上げます。岩波新書赤版1000点を記念しての、リニューアル第一弾の中の1冊です。今回出されたものは新書ブームの中、さすがは老舗というラインアップだと感じました。

閑話休題。で、本書です。憲法改正論議がさかんですが、肝心の憲法とはいったいなんなのか、という部分が抜け落ちた感じの議論も散見されるなか、本書では「憲法は立憲主義にもとづくものであることを常に意識しなければならない」という立場で議論が展開されます。

詳細はぜひ本書を読んでみていただきたいのですが、一言でいえば宗教のような絶対的価値観が失われて各人の価値観自体が比較不能な社会では、私的領域と公的領域を分けて、私的領域での自由の保障と公的領域での「不自由」「制限」という形で、人々の公平な共存をはかるのが立憲主義の根本。自分の正しいと考える価値観を国家権力を使って社会全体にまで広げようとすることは大きな危険を伴うという歴史的体験から選択された知恵といえる。憲法はまさにこうした考えの上に寄って立つ。だから「自分の考えを広めたい」という人間の本性に反するし、多数の価値観の調整という中途半端で煮え切らない感じもしてしまう。しかし、この立憲主義にこだわることこそが人権を守り、安定した社会を維持するためには必要である、といったところでしょうか。

憲法を、公的権力を制限することで我々の権利や生活を守ってくれる道具だ、と考えるのは確かに一面の事実だが、憲法自体が実は国民の生命さえも危険にさらしかねない危険なものでもあること、そのことに警鐘を鳴らします。最近「国を守る責務」なる言葉を憲法に盛り込むか否かといった議論もあるが、そもそもそこでいう国とは「裸の国土や自然」ではなく「憲法秩序」のこと。これは先の大戦で「国体」護持、いわば明治憲法秩序を守るために多くの国内外の人々の生命を奪う結果となったこと、などが例としてあげられます。

書き出すと次々と書くべき話が出てきますのでこの辺でやめておきますが、最近の憲法改正論議はどうも危ういと感じざるをえません。それは内容的に、ということでもあるし、長谷部さんが論じているような「根本」が抜けおちた、あまりに楽観的、表層的議論であるような気がしてなりません。「中途半端」は確かに難しいし、いらいらすることもありますが、だからといって「簡単明瞭、この価値観を信じれば皆ハッピー。信じなさい!」というのは恐ろしい。多様な価値観の共存ということの意味づけと保障の方法について、もっと細心の注意が払われてしかるべきだと考えます。

特に「九条」に関して言えば、自衛隊のイラク派遣で明らかになったこの国の文民統制能力の低下と、独立国家としての意思決定力の低さから考えて、いまの憲法を改定して自衛隊に正式な軍隊としての位置づけを与えてしまうことには強い危惧を覚えます。政治的プロセスに介入しないように、これ以上、米国の世界戦略の重要パートを担ってしまわないように、あくまでも「中途半端」な立場においておけばいいではないか、と。それはそれで日本人の優れた知恵なのだと自負してもよいと思います。

一方で環境権などを憲法にいれるべきだ、というのも一見聞こえがいのですが、実効性の担保という意味では法律制定や実際の行政のありようで論ずべき話で、憲法に一文加えるだけでそれがあたかも実現するかのように考えるのはいかがなものか、楽観的に過ぎるのではないか、と感じてしまいます。

おっと、きょうは随分と政治的な話になってしまいました。たまのことなのでお許しを。ま、「九条」の文言すら知らない人が若い世代を中心に増えているというこの国の教育の現状を、まず先に憂えておかないといけないかもしれませんね。