季節の「うえの」

上野周辺の四季折々の見所や、地元民ならではの楽しい情報を中心に、日本茶に関する話や明日から使える?発見をお届け致します。

八ヶ所めぐり~第七番札~

2006-04-20 18:26:22 | Weblog
7番目、だいぶ戻って参りました。
歌川広重「名所江戸百景」にもある<清水観音堂>です。


天界僧正は寛永寺を開いたとき比叡山延暦寺をモデルにし、不忍池を琵琶湖に見立てました。そして京都の清水寺をモデルとしてこのお堂を建てました。
江戸名所として多くの錦絵にも取り上げられています。
寛永8年(1631)建立で上野の山に現存する最古の建物です。
最初は、すり鉢山の上にありましたが、元禄時代に今の場所に移ったそうです。
上野戦争・関東大震災でも難を逃れ重要文化財の指定も受けています。



ご本尊は比叡山の高僧・恵心僧都作と伝えられる千手観音菩薩像です。
脇仏の子育て観音は子授け・安産・子育てで有名で昔から多くの信仰を集めています。


また、毎年9月25日には人形供養が行われます。元来は子宝を授かった両親が奉納した身代わり人形の供養ですが、今日ではかわいがってきた人形への感謝の供養にもなっています。



この観音堂の横には先日ご紹介した「秋色桜」があります。



また、西郷さんの銅像もすぐ近くです。
ちなみに西郷さんの銅像の作者は、高村光雲。
犬の名前は「つん」だそうです。ちなみにメスです。

また西郷さんの後ろには「彰義隊」のお墓があります。
彰義隊は、慶応4年、1868年2月21日に誕生しました。
すでに徳川幕府は大政奉還をし、鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜は寛永寺で謹慎してました。4月11日に江戸城が明け渡しとなり、慶喜は水戸に戻りました。
彰義隊は最初市中警備にあたっていましたが、薩長軍との小競り合いが増え、解散命令が出されました。これに応じなかった彰義隊は上野の山に立てこもり、ついに5月15日、上野戦争が始まりました。戦争は半日で終わりましたが、多くの犠牲者が出たそうです。
このある意味逆賊の彰義隊の亡骸は、バラバラに放置されていましたが、
この地に埋葬されました。
墓碑の彰義隊の文字は山岡鉄舟によるものだそうです。



さらにこの裏には、天界僧正毛髪塔や菅公梅という梅もあります。
歴史の色が濃く残っている、ちょっとうっそうとした森です。

その中に上野の森美術館と日本芸術院会館があります


正直、あまりにも雲の上の組織というイメージがあるので、何をやっているのか
また、どうしたら会員になれるのかわかりませんが、すごいとうことだけは
揺るぎのない事実のようです。その会館もこの森の中にあります。

そして
次は、西郷さんの階段を上野公園袴越しに下り、いよいよ「富付き」会場を目指します!

つづく・・・
コメント
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