毎年、日本二十六聖人の殉教記念日に長崎は西坂に行くようになって、十三回くらいになるだろうか。しかし一番はじめはこのような厳寒のニ月ではなく、真夏に一人で訪れたことが思い出である。
電車が長崎市内に、後でわかったが、確か長崎の入り口、西浦近辺にさしかかった時、私は不思議な体験をした。霊的な高揚ーーそれは臨在だったのだが、どんどん強まって行ったのだ。それは浦上あたりで最高潮に達した。高揚した喜びと涙で、電車が長崎駅に着いても、私はしばらく動けなかった。(西坂公園のレリーフは、今回はお手入れ中であった)

日本二十六聖人殉教の地、西坂公園は長崎駅のすぐ近くにある。公園の直近、NHKから急な上り坂になる。実は昔はNHKのあたりから坂の下は海だった。だから西坂の丘は、海に突き出た半島の稜線部分にあたる。つまり、航行する外国の船に対しても、充分見せしめになったのだった。実際、そのようなオランダ船の記録がある。
で、この西坂の丘を上ると、私たちの群れで流行った、あの賛美 のような臨在が来るのだろうと期待していたのだが、そのようなものは期待に反して、この時には来なかった。最初に感じたあの臨在は、特定の地ではなく、長崎という街に対してであった。

長崎の街とキリスト教、両者の関わりは強い。近世でも明治に入る前後、隠れキリシタンが露呈し、浦上は一村総流罪となった。西日本各地に散らされ、住民の何割もが拷問で殺された。帰村後も荒れ果てた農地、不作、疫痢などはた目にはうち続く不幸が襲ったが、彼らは信仰が許された喜びを持って耐えた。それだけでも凄いことなのに、1945年の8月9日、投下された一発の爆弾は風に流されて、浦上の真上で炸裂した。ちょうど礼拝中であった。
長崎は特別な街である。街の風景が日本の他の町とどこか違う。街にはシスターたちの姿が溶け込んでいる。多くの犠牲を担ってきたこの街は、霊的な意味において、日本の祈りの聖地であると思う。十字架を負うと、もっと深く神の愛を知るようになるからだ。
ケパ
電車が長崎市内に、後でわかったが、確か長崎の入り口、西浦近辺にさしかかった時、私は不思議な体験をした。霊的な高揚ーーそれは臨在だったのだが、どんどん強まって行ったのだ。それは浦上あたりで最高潮に達した。高揚した喜びと涙で、電車が長崎駅に着いても、私はしばらく動けなかった。(西坂公園のレリーフは、今回はお手入れ中であった)

日本二十六聖人殉教の地、西坂公園は長崎駅のすぐ近くにある。公園の直近、NHKから急な上り坂になる。実は昔はNHKのあたりから坂の下は海だった。だから西坂の丘は、海に突き出た半島の稜線部分にあたる。つまり、航行する外国の船に対しても、充分見せしめになったのだった。実際、そのようなオランダ船の記録がある。
で、この西坂の丘を上ると、私たちの群れで流行った、あの賛美 のような臨在が来るのだろうと期待していたのだが、そのようなものは期待に反して、この時には来なかった。最初に感じたあの臨在は、特定の地ではなく、長崎という街に対してであった。

長崎の街とキリスト教、両者の関わりは強い。近世でも明治に入る前後、隠れキリシタンが露呈し、浦上は一村総流罪となった。西日本各地に散らされ、住民の何割もが拷問で殺された。帰村後も荒れ果てた農地、不作、疫痢などはた目にはうち続く不幸が襲ったが、彼らは信仰が許された喜びを持って耐えた。それだけでも凄いことなのに、1945年の8月9日、投下された一発の爆弾は風に流されて、浦上の真上で炸裂した。ちょうど礼拝中であった。
長崎は特別な街である。街の風景が日本の他の町とどこか違う。街にはシスターたちの姿が溶け込んでいる。多くの犠牲を担ってきたこの街は、霊的な意味において、日本の祈りの聖地であると思う。十字架を負うと、もっと深く神の愛を知るようになるからだ。
ケパ