ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

映画「スポットライト」に見る生涯独身制の闇

2016年04月18日 | 信仰
映画「スポットライト」。これは先週末から公開されたが、アカデミー賞の作品賞をとった映画なのに、行って観ると席はガラ空きである。これは日本がカトリック、もしくはキリスト教国でなく、認知度(話題性)が低いためであろうか?
しかし全キリスト教徒、および関係者には、ぜひとも観てほしい映画である。この映画を観終わってドルカスが聖書の一節を呟いた。

そこは生涯独身であった使徒パウロが1コリント7章で言った言葉で、パウロは信徒に罪を犯すよりは、と結婚を勧めた後、独身で神に仕えることに対してこう述べたところだ。
「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります」と。

この一節を私なりに理解すると、あまたの危険や困難がある異邦人伝道には、自分のような独身がベストだが、独身とは神からの特別な力(賜物)を受けたり、召しが要る。だから独身者として立つことは、その人の意思ではなく神の力による。そこを間違うと罪を犯してしまう。だから伝道者は独身かどうかにこだわらず、人それぞれでよい。
カトリックは修道会が基本で、ひとかどの聖職者は皆独身である。神に身を捧げる、それがいかに清いことのようでいていかに不自然か。男性ならその肉体の世にある限り、不断の戦いの連続であって、外見はともかく心の内で抑えきり勝利することなど不可能だとわかるはず。可能ならそれは神によって選ばれ、賜物を注がれた特別な人だけのものである。健康な心と身体を持った通常の男性にとっては、生涯独身など不可能である。不可能なことなのに、独身でなければ上位聖職者には進むことができない。それがどれほど罪深く罪と偽善を生む温床になるか、その実態をこの映画は暴いている。こうしてみるとプロテスタントの牧師というもの、むしろ結婚しているべきだが、これがあらゆる意味で健全なのである。少なくともプロテスタントでは、聖職者が独身を強要されることはない。神の御心のままに、である、

映画はアメリカのボストン・グローブ社という新聞社のメイン特集記事欄「スポットライト」の編集部から始まる。このスポットライト欄は、社会的な大問題を長期にわたって取り上げる記事欄のことである。
この欄で「聖職者による児童への性的な虐待」に対し、カトリック教会が組織的な犯罪の隠蔽工作をしていたことが暴露されていく。映画は司祭の半分ぐらいが不適切な性関係を経験しており、中でも幼児・児童への性的虐待をする性的倒錯した司祭は全体の5%に上るとしている。私はこの数字に納得する。倒錯していれば結婚への願望はない? そのような聖職者がいること自体、清い水に5パーセントの泥水が混じっているようなもので、もはや飲めるものではない。
映画で記者たちが最も重要視したのは、異性間の間違いを犯す正常なタイプ?の聖職者にではなく、幼児や、子供への倒錯した性犯罪者である司祭をかばい、病休扱いにし、しばらくしてまた復職させるという、被害者を増産する隠蔽体質のことである。つまり身内意識の自浄力のなさ、犯罪認識の甘さである。これを組織犯罪とみなしたのだ。
カトリックは行為の有無を問題にするが、聖書では神はその欲望が湧く心、それを罪と断罪される。カトリックの存在基盤である弟子のリーダー、ペテロは妻を同行しながら伝道したのだ。神に仕えながら、神を恐れないのだろうか? それなら神にゆるされ祝福された結婚をして、熱心に神に仕える方がよい。
このカトリックに対し、プロテスタント教会は牧師の結婚を認めている。いやむしろ既婚していることを一人前として認めている。カトリックの独身性とプロテスタントの結婚した聖職者のどちらが正常で、神のご意思に沿っているか。聖書を見れば明らかである。 ケパ
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