最近になって、私たちの群れではないあるクリスチャンと、神とか信仰について話す機会があった。

話す内に、何か大きなズレを感じていたが、気がついたのは、信仰がまるで違うということだった。彼から見れば、私は狂信家のように見えたことだろうし、私から見ればなんとも歯がゆい信仰に見えるのだ。実は私もかつては30年間、彼のようなクリスチャンだったので、もろに口に出しては言わない彼の思いがよく分かる。
何しろ私は自分の人生を、自分の計画を捨て、神に聞き従うと言うし、どんなに苦難に落とされても神に感謝するという、どうにも通常では理解できない信仰を持っている。神に聞くとか従うとかを私が言っても、そもそも神が語られるという信仰や体験がなければ絵空事だ。偽善者風で、腹が立つ。だから最後には「ではあなたは、神の声が聞こえてるんですね?」という質問で終わる。
ここが実に難しく危険なところで、「ハイ」と言えば即座にこの人は、やっぱりまともな人ではない、とばかりに話は終わりになるし、かと言って曖昧にしてお茶を濁すこともできない。それで最近は「その前にあなたは、神が語られるということを信じますか?」と聞くようになった。そして聖書から神はいつの時代でも語られるということ、聞き従う土台としての聖霊の働きを、証を交えながらやんわりと気づいてもらうようにしている。
群のある方が私を評して、「ミイラ取りがミイラ(カリスマ派)になった」と言われる。正しくは「ミイラ嫌いがミイラに(神によって無理矢理に)された」者であって、それで「ミイラ取りに来る人は皆ミイラにする」ことに情熱を与えられているのだ。 ケパ

話す内に、何か大きなズレを感じていたが、気がついたのは、信仰がまるで違うということだった。彼から見れば、私は狂信家のように見えたことだろうし、私から見ればなんとも歯がゆい信仰に見えるのだ。実は私もかつては30年間、彼のようなクリスチャンだったので、もろに口に出しては言わない彼の思いがよく分かる。
何しろ私は自分の人生を、自分の計画を捨て、神に聞き従うと言うし、どんなに苦難に落とされても神に感謝するという、どうにも通常では理解できない信仰を持っている。神に聞くとか従うとかを私が言っても、そもそも神が語られるという信仰や体験がなければ絵空事だ。偽善者風で、腹が立つ。だから最後には「ではあなたは、神の声が聞こえてるんですね?」という質問で終わる。
ここが実に難しく危険なところで、「ハイ」と言えば即座にこの人は、やっぱりまともな人ではない、とばかりに話は終わりになるし、かと言って曖昧にしてお茶を濁すこともできない。それで最近は「その前にあなたは、神が語られるということを信じますか?」と聞くようになった。そして聖書から神はいつの時代でも語られるということ、聞き従う土台としての聖霊の働きを、証を交えながらやんわりと気づいてもらうようにしている。
群のある方が私を評して、「ミイラ取りがミイラ(カリスマ派)になった」と言われる。正しくは「ミイラ嫌いがミイラに(神によって無理矢理に)された」者であって、それで「ミイラ取りに来る人は皆ミイラにする」ことに情熱を与えられているのだ。 ケパ