ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

テニスからも学ぶ

2013年09月26日 | 示されたこと

 18歳までの私は、いつも本を小脇に抱え、図書館と本屋にばかり居て、書いては消し、読んでは眠りの、誰の目からも「青なり瓢箪」だったはずだ。だから運動すると、まるで時代遅れのコンピューターか蛍光灯のような所作だったと思う。
 大学に入る時、私には一つの決心があった。「脳みそまで筋肉」と遠ざけていたスポーツに、人生最後のチャレンジをしよう、と。これはごく内輪にいつも語るのだが、最初「硬式庭球部」室に入っていくと、みんな私を見ない。連続して三日通った時、初めて先輩が私に口をきいてくれた。「おまえ、隣の『ESS』と間違ってきてるんじゃあ、なかったのか!」と。なんと言うことか、私は間違って部室に来ていると、何日間か思われていたのだ。それほどスポーツとおよそ無関係の風に見えていたのだ。

 でも私は、それからテニスに夢中になってしまった。夢になんども自分の
Photo プレーで目が覚め、また壁と芝がかなりはげるほど、壁打ちの鬼になっていた。その後何年かして昔の仲間とバレーをする機会があった。しばらくプレーした後、彼らが寄って来て、私を取り囲み、しげしげと見て「おまえは本当に中村か?」と訊ねるのだった。別人に見えてしかたなかったらしい。

 テニスを始めてすでに43年以上も経った(写真は今日の対戦相手たち)。18歳の時の、あの決心がなかったら、「私はどんな人間になっていたのだろうか」とふと、そう思うこともある。テニスがあればこそ、私は目先の勝負に勝つとか負けるかと言うことと、その先にあるものを見続けることができた。真の勝ちは相手ではなく、自分自身に勝つことなのだ。それは自分の持てる力を出し切ることであり、出し切らせてくれた相手への感謝である。だから強い相手を、恐れながらも待ち焦がれるのだ。

・・・・・<ここからはクリスチャン向けです>・・・・・

 私たちの群れに今、「Self-image(自己像)」の学びが投げかけられている。肯定的な自己像を持つことこそ、信仰に矛盾しないばかりでなく、クリスチャンとしての成功と達成感があるという主旨だと私は理解している。確かに戦いの時に、自己を肯定的に見る、有為なものとして位置づけないと(つまり自信を持ってないと)戦う前にすでに敗北している。しかし逆に、試合後は反対である。自分を肯定するのではなく、たとえ勝ったとしても戦略の反省とか、メンタルな面での反省は尽きない。勝って喜ぶなどということはない。問題を見つけ、次回には繰り返さないように心がけるのだ。

 信仰でも順番は逆だが似たところがあり、悔い改めなど試合後のような反省とか訓練があり、その上に神からの(この「神から」というのが信仰の信仰たるところなのだが)肯定的評価と勝利が与えられるのだ。すべては神の器として、神の栄光を現し用いられるための、聞き従いの道程なのだ。まず自分に死に、己があってはならない。著名なスポーツ選手は一様に謙遜であるのと同じだ。つまりこれが「Self-image」の学びとどれだけ共通しているのか、それが今最大の関心事で、祈っている。  ケパ

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