心理学オヤジの、アサでもヒルでもヨルダン日誌 (ヒマラヤ日誌、改め)

開発途上国で生きる人々や被災した人々に真に役立つ支援と愉快なエコライフに渾身投入と息抜きとを繰り返す独立開業心理士のメモ

チョムロン村のH氏による電化プロジェクトのその後

2007-05-27 14:49:13 | 国際協力・一般
 昨年6月に 林克之1989「村に灯がついたーヒマラヤ・チョモロン村に電気をつけた日本人の記録」山と渓谷社 の感想をこのブログの「本」カテゴリーに書きました。
そして現場に行って見てみたいと思っていました。
今回それが叶いました。

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まず要約です。
 33才から10年間、通い続けて、水力発電を素人が建設した。
自分の生活は、年半年の諏訪でのタクシー運転手で稼ぎ、なけなしの給料を持って行って、残りの半年をチョモロン村で過ごすという生活が背景です。
 この本の裏表紙と巻末に、林さん自筆の1996年10月の書き込みがあり(現地のゲストハウスの図書ならでは!)、「KMTHC(?)より、林が村人に直接逢ったら処分する、とのレターが出ましたのでやめました。中国南部で村を考慮中です。」と。
 プロローグ部分には、丹部節雄さんが「林君とチョモロン村の人びととの間は、まさに蜜月状態だ・・・しかしその作業が、さらに上部の、マチャプチャレのベースキャンプに移るにつれて、カトマンズのアンナプルナ地区自然保護計画本部ACAPの一部の人びとと・・・すきま風が吹き始めた・・・」と書いています。
 そして、著者は、重い荷を背負い、山道を汗だくになって歩みながら、自問する「自分が一生懸命に打ち込めるものに出会え、楽しいからやっているんだ・・・自分にとって価値ある人生、意義ある生涯のためのステップなのだ。」

それに対してぼくは次のように感想を書きました;
 個人次元では、自分の想いを重ねて深く納得しながら、それに加えて、
社会的行為としては、過去に積み上げられた、失敗と成功の国際的な支援協力の方法論(その分野の専門知識は当然として、その社会での持続可能性の細かな吟味、参加型の進め方、費用対効果など)の学習と、継続的な点検が必須だ・・・と思いました。
 さもないと、個人次元だけの動機付けによる、途上国での協力行為は「相手に瞬時のユメを見させるだけの、自己満足だ」という批判と向き合うしかなくなるのではないか・・・と思える。
 異文化状況・異なる社会システム下で行われる国際協力は、専門的な学習や研究が必須な分野であり、ボランティアとなって、日本での技術を提供したら、誰でもが効果的な結果が出せるというものではない、という認識が必要と考えている、と。

それに tgさんから11月にカキコ情報があり、「林さんは全て無料で活動していたため、有料でもう少し大型の発電施設を作っていた組織と軋轢があったようです。
現在は中国・興坪(Xing Ping)で宿をなさっています。」とのことでした。

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ぼくが今回、話を聞いたチョムロンの村人たちは、打ち解けた後の会話で、こう言いました。
「現在は30Kw,20Kwなど、3つの水力発電施設が、イギリスやスイスなどの団体が7割、村人が3割の拠出で作られ、周辺の村々へも電線が引かれ、供給されている。」
「林は、ここ(家)にもよく来たし、個人的に会うととても気のいい人だった。ただ、とてもproudな人だった。そこが問題。」
「彼が発電量を増やそうとしたとき、ACAPが危険だから電気技術者を入れるようにとの条件を出したら、彼は自分ができると言って断った。この小さな問題が、大きくなってしまい、彼が来なくなった理由。」
「村の Electrification Committee が、維持修理する技術者を雇い、電気の使用料でその費用を出している。」
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前に書いた一般的な感想に加えて、
・16軒のロッジ(H氏が入った82年?には少なかっただろう)と約60家庭という村のサイズは、個人が電化するには大きすぎた、
・必要となった電力量の大きさと個人が提供できる量とに開きが出てきたこと、
・1986年創設の、開発と自然保護を掲げる統合的地域開発団体ACAPとの協調に失敗、
・安全対策への現地の要求を受け入れなかったこと、
・そして彼の proud と村人に映った性格特徴、など
が、彼が不承不承にプロジェクトを終了させざるをえなかった原因だったのかもと感じました。