阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

参考1) 弥山神鴉

2019-03-18 11:18:50 | 郷土史

(この記事は「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰祭の歌を読み解くための予備知識として、弥山の霊烏について江戸時代の文献を引用しています)

 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」を読んできたけれど、あとどうしても書いておきたいのが、大頭社の鳥喰祭の歌と人丸社奉納歌の二首だ。鳥喰祭は狂歌家の風を最初に読んだ時に一番印象に残った歌でブログを書き続ける上で最大のモチベーションになっていて、シリーズのまとめとして書きたい気持ちもある。人丸社の方は近世上方狂歌叢書のテキストにある「筆梯」を「筆柿」と読みたい、ここで止まってしまっている。「松原丹宮代扣書」と「人丸社棟木札」に寛政二年三月十八日に貞国が大野村更地(更地は地名)の筆柿の元に人丸社を勧請したとある。学生時代に熱中した梅原猛先生の「水底の歌」に人麻呂の命日が三月十八日であることは秘事であった、というのは何度も出てきた。先生の訃報に接して、すぐにでもこの三月十八日について書きたいのだけれど、やはり原本の梯の字を確認してからだろう。柿と読みたい気持ちを抑えて、ここは一度冷静に原本を眺めてみるべきだと思う。しかしながら、高齢の両親の体調を考えると、都立中央図書館まで行くのは現状では難しい。伊丹の柿衛文庫ならば日帰りでとも思うが、閲覧できるとは書いてない。ここは先に、鳥喰祭について書くことにしたい。

 貞国の鳥喰祭の歌を読む前に予備知識として、三回に分けて江戸時代の文献を紹介してみたい。まず今回は、鳥喰祭の主役、厳島の弥山に住むという神鴉(おがらす、古くは「ごがらす」)についてみておこう。この弥山神鴉は厳島八景に入っている。神鴉、霊烏も「ごがらす」とルビが振ってある場合が多いのだけど、厳島道芝記など古い書物には「五烏」とある。弥山の神鴉は雌雄一つがいが年々相続するとあり、子烏を入れても二つがい四羽しかいないはずなのに五烏とはどういうことだろうか、速田大明神の祭神の霊烏を入れて五烏だろうか。いや、これはどこにも見当たらないから、単に御烏と音が同じなだけかもしれない。

 その速田大明神は、今は速谷神社といって広島では車の祈禱で有名で、バスやタクシーに乗ると速谷神社のお札をよく見かける。江戸時代の文献によると祭神は霊烏とあるのだけど、今の速谷神社公式サイトによると祭神は飽速玉男命とあって下述の文献では主役となっているカラスの文字は見当たらない。安芸国総鎮守として、阿岐祭という例祭をもっとも大切なお祭りと書いていて、「太古の昔、安芸国を開かれたご祭神に感謝し、安芸建国を祝うとともに、皇室の弥栄、国家の隆昌、そして地域の安泰と繁栄をお祈りします。」とある。厳島図会でも一説として飽速玉命を祀ったのかと書いているが当時でも社伝は霊烏であり、明治以降変ったようだ。近代の神道においては、カラスでない方が都合が良かったということだろうか。今回このシリーズはカラスの活躍が眼目であるから、少し残念な気がする。

前置きが長くなってしまった。今回は弥山の神鴉の存在を確認すれば十分だ。鳥喰については次回、次々回に譲ることにして、とにかく文献を読んでいただきたい。なお、蛇足ながら、「あぐ」は「食ふ」の尊敬語であって、五烏御供所にある「供御をあげ給はざるなり」は、お供えをしないのではなくて、お供えを召し上がらないという意味になる。

 

元禄15年(1702)、「厳島道芝記」より、

速田太明神 御社厳嶋より海の上五十町陸の路十丁余。都て六十丁余あり佐伯郡平良郷(へらのがう)に鎮座なり。芸州二宮(にのみや)速田(はやた)太明神と号し奉る。玉殿の内巌(いはほ)にてまします。抑速谷(はやた)太明神は。三はしらのひめ神いつくしまにあまくたらせたまふときの従神(じうじん)五烏(ごがらす)鎮座の地なり。はじめ三柱の姫神の部曲(みとも)に侍りて浦々嶋々七所を見そなはし給ひ。笠の濱に宮所を求めさせたまひし後。五烏は笠の濱より艮(うしとら)にあたつて。此平良郷に御光臨あり。いはほの上に御蔭(みかげ)をうつされ。郷(さと)の地主岩木(いはき)の翁に神(かん)がゝりましまして鎮座し給ふ。うしろは山高く(そび)へ松樹(しやうじゆ)斧(をの)をいれねは。鳥雀その所を得。まへは豊御田(とよみた)曠々(くはうくはう)として民をのつから殷饒(あきた)れり。御祭礼年中行事に委し。」

(国立公文書館デジタルアーカイブより、「厳島道芝記」速田太明神)

 

同じく「厳島道芝記」弥山の条より、

五烏(ごからす)御供(くう)所 御烏の神霊は二宮(のみや)速田太明神と跡を垂(たれ)たまふ。今一雙(ひとつかひ)の霊鳥(れいてう)この山にすめり。毎日奉る供御(ぐこ)かりにも不浄あれは。其侭(そのまゝ)にてすたれぬ。御嶋廻にやぶさきの冲におゐて。供御奉る。これを御鳥喰飯(おとぐゐ)と名づく。其日は必此所にて奉る。供御をあげ給はざるなり。御鳥喰飯は午(ひる)にて此山の供御は朝なるに豫(あらかじめ)其瑞(ずい)ある事筆にまかせ侍らんもおそろし。惣じて此御山に烏幾千万といふ数をしらず。其中に五烏雌雄(つかひ)は。神威あらたに類を離れ外のからすあたりへ近づく事あたはず。猶五烏の事は第四第六の巻にあり。」

(国立公文書館デジタルアーカイブより 「厳島道芝記」五烏御供所)

 

「秋長夜話」(天明年間の著述と言われている)より、

「○厳島に五烏(ゴカラス)あり、中華にて神鴉といふ、杜子美の詩に迎擢舞神鴉といふこれなり、又洞庭に神鴉あり、客船過れば飛噪して食を求む、人肉を空中に擲れば哺之、五雑爼に見ゆ、又続博物志に、彭沢に迎船鳥あり、摶飯(タンハン)を擲れば高きも下きも失することなしといへり、是皆同物なり。」

 

寛政6年(1794)、厳島八景之図 弥山神鴉より、

     弥山神鴉  黄門輝光

  この山の宮ゐを

    さしていくとせか

   すめるからすの

     つかいはなれぬ

 

天保13年(1842)、厳島図会 弥山の条より(フリガナ一部略)、数項前に弥山神鴉の挿絵もある。

神鴉(ごがらす)

この山に雌雄一双(しゆういつさう)ありて年々(としとし)子を育し相代(あひかは)れり山内(やまのうち)の凡鴉(ぼんあ)もとより幾百千羽といふ数をしらずといへども神鴉のあたりちかくもたちよること能(あた)はすその霊異は巻二養父崎社の條巻四速田社の條にくはしく挙たれは併せ見て知べし

      弥山神鴉(みせんのしんあ) 八景の一

  このやまの宮居をさらでいくとせかすめる烏のつがひはなれぬ 中納言輝光

  島めくる小舟に神や心ひくみやまからすの波におりくる  宣阿」

 

同じく、厳島図会 速田大明神社の条(フリガナ一部略)

速田大明神社 佐伯郡平良郷に鎮坐 ○幣殿拝殿御門御供所鐘楼等あり

祭神霊烏(れいう)

社傳に云く上古三神伊都岐島(いつくしま)に臨幸ましましける時霊烏部曲(ぶきよく)に侍りけるが御鎮坐の後(のち)この平良(へら)の郷(さと)にとび去しを土人(とじん)岩木某といふおきなこれを一社に勧請せりといへり案ずるに日本紀(にほんぎ)に 神武天皇大和国の逆徒を退治したまへりし時八咫烏(やたからす)先導(みちびき)のことありされはこの社に祭る所の霊烏も三神を厳島に先導たてまつりしなるべしかくて考れば速田は八咫の詞(ことば)の轉ぜるにや古文書には速谷(はやたに)とあり故(かるがゆゑ)にまたの説には旧事記(くじき)に阿岐国造(あきのくにのみやつこ)飽速玉命(あきはやたまのみこと)とありて速玉速谷言(こと)尤(もつとも)近しもしくはこの国造を祭りしならんといへれと社傳にいふところ上件(かんのくだり)の如くなれはその是非(しひ)今さためかたし」



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