阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

阿武山(あぶさん)を語る(1) ふるさとの山

2018-08-14 13:36:52 | 阿武山

 

 ここでお話したいのは広島市安佐南区八木にある阿武山のこと。「あぶさん」と読むのが一般的だが明治から戦後まもなくまで「あぶやま」とルビを振った文献も存在する。峰続きの緑井権現山は「ごんげんやま」が一般的だ。江戸時代には頼聿庵などが阿武山の漢詩を残していてこれが音読みに影響を与えたのではないかとも思うがはっきりしない。なお、高槻市にある阿武山は「あぶやま」と読むようだ。

 さてこの阿武山、安佐北区の高陽地区在住の私にとって子供のころから朝夕に眺めた山だ。標高は586、4メートルとたいして高い山ではないけれど、旧安佐郡(おおよそ今の安佐北区、安佐南区を合わせた地域)のかなり広い範囲から見えて、当地高陽地区の北部からはなだらかな台形、少し南の矢口や緑井からは頂上が尖って秀麗な山容と二つの顔を持っている。

(安佐北区深川、三篠川の川土手から見た阿武山、左が最高峰)

 

(安佐南区川内、広島菜畑の向こうに阿武山)

 

 また、南側が海まで開けていることから広島デルタの西側からも阿武山を望むことができる。海の上からも眺めてみたいと思ってるが、まだその機会に恵まれない。

(中区西白島町、JR新白島駅から見た阿武山)

 

(西区観音新町、コカ・コーラウエスト広島スタジアムから見た阿武山)

 

 ここ数年、高齢の両親のこともあってあまり遠出できないことから、近場の安佐北区や安佐南区の小学校グランドで少年サッカーを見る機会が増えた。そのほとんどのグランドから、阿武山がよく見えた。地域の子供たちを見守る姿は私の理想であり、阿武山のようにありたいといつも願ってきた。それだけに4年前の8月、阿武山から土砂が出て多くの人命を奪ったことは大きなショックだった。何本もの土砂の傷跡が残る阿武山にしばらくは目を向けることができなかった。そして災害報道の中で、八木地区の伝承として「蛇落地」という災害地名があったとテレビ画面に出た。愛する阿武山のことであるから色々調べてみたが、これを災害地名と騒ぎ立てるのはあまり意味がないということはすぐにわかった。しかしながら、八木地区の伝承や陰徳太平記の大蛇退治の物語は実に興味深いものだった。眺めて写真を撮るだけでなく、阿武山についてもっと調べてみたいと思った。それからぼちぼち図書館にも通い、また八木地区を歩いてみたりもした。しかし図書館にじっと籠っているには不向きな性格で遅々として進まず、特に今年の夏はまた豪雨土砂災害があり酷暑でもあり、図書館に通う気力もなく、体力も落ちてきて人生の残り時間が少ないのではないかと思うようになった。そこで甚だ薄っぺらい知識ではあるけれど、ここまで調べた範囲内で何回かに分けて阿武山を語ってみたいと思う。どこか一行でも、どなたかの興味にかなうものがあれば幸いとしたい。

 

  阿武山を眺め歩けばゆきあひし君の白き歯 春立つらしも

  阿武山はふるさとの山かんちゃんのループシュートが稜線を這う

 

(安佐北区落合南、落合小学校グランドから見た阿武山)

 



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (川内小学校卒業生60歳)
2020-06-04 18:52:56
阿武山。今は西条にすんでいますが、42年前まで川内に住んでいました。太田川の辺りの昔の佐東町の町営住宅でした。
太田川の土手から川内小学校から、中学生になったら城南中から、どこからもいつも見ていました。いつも見る方向からは美しい形の山でした。たまに高速から見ると昔を思い出します。今よりはるかに貧乏で貧しかったですが父も母もいて楽しかったし、幸せだったような気がします。
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Unknown (cachillat)
2020-06-05 09:33:36
川内小学校卒業生60歳様、コメントありがとうございます。
私は57歳ですから、同年代ですね。少年サッカーを応援していて、川内小や城南中のグランドにも行ったことがあります。川内小からは武田山が、城南中もグランドの奥にいけば阿武山が見えました。また、経済大学に行くときには矢口から川内を通るバスに乗って広島菜の畑の向こうに見える阿武山を眺めています。旧佐東町といえば、子供の頃はバレーボールが強かったですね。安佐郡の大会では高陽地区のチームはひどい目にあってた記憶があります。
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