文屋

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■詩のリーディングについてのちょっとした思いと自白。

2008年03月29日 21時23分46秒 | 日録雑感

ぼくは、詩を執拗に推敲したりはしない。
冒頭の1、2行の言葉が浮かんだら
パソコンを使って一気に80行ほどを書く。
ぼくは、詩をほとんど、キーボードでしか書いたことがない。
もちろん、道を歩いていて詩行が浮かんだときなどは、
喫茶店に入って、店の人にボールペンなどを借りて
なにかの紙に一気に書くこともある。
仕事上だが、ワープロを買ったのは、まだ70年代だったかもしれない。
コピー機のレンタルとだきあわせかなにかで
280万円ぐらいの価格だったように記憶している。
5インチぐらいの紙みたいなディスクを使っていた。
ぼくは、詩を書く姿を、あまり他人に見られたくない。
ぞっとする。
詩を書いている自分の姿を他人に見られることを。
ただ、まったく知らない人になら、見られても
いいかもしれない。
自分の詩を他人に、披歴することは、とても
寂しい、悲しいことだと思っている。
自分の詩は、他人とはなんら関係のない
かかわりのまったくないことだから。
だから、リーディングをすることは、ちょっと異常な
恥ずかしさにつつまれる。
その気持ちをぼくは、誤魔化したりしたくない。
恥ずかしいことにきまっている。
極地だし、果てだし
辺境だし、追い詰められてぎりぎりだし。
自分だけの固有の時間と場所だし。
そんなもの「共有できるわけがない」と思う。
細さを信じたい。
あやかさ、あやうさ、異様さを忘れたくない。
ぼくは、リーディングでの読み方の技術など
蔑みたい。それこそ、希釈であり
それこそ欺瞞の正体だから。
また、それをいやがおうにも求められ強制されるような
リーディングのシチュエーションは嫌いだ。
純粋な「恥」が誤魔化されて、
堂々たる、声に替えられてしまうから。
たまに、詩のリーディングのときに
テキストを持たずに、暗記で読む人がいるが
どうなんだろう。
あんなことしたら、恥が失われる。
暗記という技術が介在するし、演技の披歴に
すりかわる。ぞっとするほど、
それを見る自分が、恥ずかしい。

ちょっと思いついたので、メモのつもりで。