「本作は、古代ギリシャの哲学者・プラトンの対話編『饗宴』への批判的な視点を出発点として手がけられたもの。『饗宴』では、詩人、知識人たちによる「愛(エロス)」についての演説、ソクラテスの「智慧(ソフィア)」への賛美が語られている。その『饗宴』が、2024年の東京で開かれるとしたら、そこに集まる人々とは誰か。そこではどのような「愛」や「智慧」が語られるのか。現代における「マイノリティ・ポリティクス」に焦点を当て、社会で透明化された人々のための愛のメッセージを、身体表現で可視化するものとなる。
開幕に合わせて、橋本は次のようにコメントしている。 私が望むことは、このような作品を作る必要が無い世界です。何十年も前のアーティストが訴えていた願いを、いまだに引き継ぐ必要の無い世界です。この怒りが諦めに変わる前に、私は評価の代わりに、変化を望みます。どうかこの作品がフィクションの蓋で閉じられないことを、そして、どこかで新たなノイズを生むものになることを願います。」
「第三のステージ」を創り上げたと評される橋本ロマンスさんの新作。
発売と同時に最前列中央の席をゲットする。
だが、公演約1か月前に、出演が予定されていたモーリー・ロバートソン氏の降板が発表された(『饗宴/SYMPOSION』出演者降板のお知らせ)。
降板の理由は、公演内容とモーリー氏の言説を見れば分かる。
演出・振付家ご挨拶
「この作品は、プラトンによる対話篇『饗宴』への批判的な視点から出発しました。古代アテネの男性の知識人たちが朗々と愛を演説する行為への強い違和感。特権階級によって定義される愛のグロテスクさ。では、もし2024年の東京で、愛を語る場があるとしたら、そこには誰が集まるべきなのか。そこでは、どのような愛が語られるのか。そもそも、安全に愛を語ることが出来る場所は残っているのだろうか・自分自身にも向けられたこの質問から、この作品は立ち上がっていきました。
ずっと信じてきた「平和」という言葉が、実は抑圧の上に立っているものだということを、私は2023年10月7日以降、強く認識するようになりました。「みんな」の平和を維持するために、踏みつけられ、いないことにされている存在の姿。それは、さまざまなマイノリティ属性や障害を社会からラベリングされ、差別を受け、透明化され、周縁化される人々の姿です。このような世界で、私は皆さんと同じように、アーティストである前に一人の労働者として、ノンバイナリーのクィアとして、そして一人の市民として生きています。(以下略)」
1段落目(愛)と2段落目(平和)の間に飛躍があるかのようだが、決してそうではない。
「愛」を語ることの前提と思われてきた「平和」が、実は抑圧の上に立っていることを、(適当な呼び名がないのでこう名付けるが)ガザ紛争が明らかにしたというのである。
ところが、この紛争の本質の解釈を巡って、モーリー氏は、橋本氏のスタンスに賛同することが出来なかったというのが、おそらくは降板の真相なのだろう。
「ただ、今自分が怒りを感じるニュースを見つめつつ、同時にパズル全体も見つめる必要があります。自分にとって"つかみ"のある半径に絞った「正義」、実務的な解決を無視した善悪二元論の断罪を続けても、結局事態は良い方向に進展せず、絶望と徒労だけが残る。
Perspectiveな視点を持ちつつ、本質的に自分に何ができ、何に貢献できるかを考えたほうが、社会も、弱者も、そしてあなた自身も救われます。
これは戦争や紛争に限ったことではなく、地球環境やアニマルライツの話も同じです。あらゆる問題は「待ったなし」だけれども、簡単な解決方法はなく、個人ができるオプションも限られています。
それでもなんとかしなければと焦って、無関心な人を不愉快にさせてでも問題の存在を知らしめようとアテンション・エコノミー的な抗議行動に出たり、問題の根源を探そうとして陰謀論に迷い込んだりする人々は後を絶たない。
すると、「正しさ」から出発したはずなのに"共感してくれる人の半径"がどんどん狭まっていき、疲労が蓄積して活動がしぼんでいくのです。
動くことは大切です。ただ、問題はどうやって情熱を維持しながら燃え尽きないようにやっていくか。やはり俯瞰した視点から世界への理解を深め続けるしかないのでしょう。」
ある意味”大人の意見”であり、殆ど「饗宴」(及び橋本氏や出演者らの試み)に対する批判のようでもある。
だが、私見では、このようなモーリー氏的なスタンスにも大きな問題があるというのが、橋本氏のメッセージだったように思われる。
つまり、橋本氏は、この種の”局外中立”は実践的には「無関心」と等価値であり、一種の暴力ですらあるということを、伝えようとしたのではないか?