決して一般論ではありません。
あくまで私自身のハナシです。
認知療法って何よ?…というお話はブログの記事で書ける量ではありませんし、私も専門家ではございませんので、詳しくは書きません。
とにかく、出来事をどう感じるかには個人差があるわけで、その差は、「出来事→その人なりの感じ方→感情」という仕組みになっているからだそうです。
この「その人なりの感じ方」を「認知」と言うわけですが、思考パターンとか砕けた言い方もできます。その人の基本的な性格・価値観といったもの(スキーマ=中核信念)に影響を受けています。
んで。
嫌な感情が湧いてきた時など、「何が起こって→どう考えて(自動的に湧いてきた思考)→どんな気持ちになったか」、を分析(紙に書き出す、とか)して、自動的に湧いてきた思考(自動思考と言います)=そのときの認知、とそれによって起こった感情を把握します。
で、他の考え方は無いかな、とブレーンストーミング的に探します。
その結果、「こう考えれば(こう出来事を捉えれば)」嫌な気持ちにならなくてすむ、という「考え方」が見つかれば、自動思考をその思考(適応思考と言います)に置き換えます。
これはそもそもの「認知の傾向が歪んでいる」人の為のものです。
なんでもネガティブに見てしまうとか、取り越し苦労のクセがあるとか、たくさんあります。
その原因もたくさんありますが。
この「認知の歪み」が、うつ病患者など精神疾患の人に多く見られるということで、認知療法は治療に取り入れられたりしています。
んで、私は復職支援センター時代にこの認知療法に取り組み、今ではいちいち紙に書き出さなくても、とりあえず認知の切り替えができるようになりました。
これがときどき出てくる「びっきぃ流プチ認知療法」なんですが…。
いやあ、「慣れ」ってコワイもので。
この「プチ認知療法」にコワイ落とし穴があることに気づきました。
というか「すでに落ちている」コトに気づきました(苦笑)。
あ、繰り返しますがあくまで私個人のハナシですから。認知療法の一般論ではありません。
んで何が問題かというと。
この「プチ認知療法」に慣れてきてしまうと、嫌な気分になり「そう」という段階で「適応思考」を探して、本来の自然な感情を抑え付けてしまう場合がある、ということ。
つまり本来ならば、「嫌な気分」になってから、その理由は?他に考え方は?という段取り(?)を追うことで意味があるわけなんですが、途中を端折ってしまっている、と。
例えば、誰かの話にカチンと来た場合。
(この例の場合、客観的に見てカチンとする必要も無い話なのに、という状況と思ってください。「認知の歪み」を持っているが故にカチンと来てしまっていると。)
本来なら、「何を言うねん。ムカつくわぁ。」と自動的に怒りを感じてから、「まあまあ、奴も○○なのかもしれないよ。他にも…」ってな適応思考を考え出して、怒りを抑えていく(自分を納得させる)、というのがスタイル。
で、そういうことを繰り返すことで、基本的な認知の歪みを直していきましょう、と。
ところが最近のびっきぃ。
カチンと来た瞬間に自動思考を追い払って、適応思考に置き換えてしまっています。
これは認知の歪みが治ったのではなく、適応思考の作り方が上手くなった(?)だけ。
だって、一瞬「カチン」と来ているわけですから。
自動思考による感情(この場合は「怒り」ですね)は一旦しっかり感じて、自分でその感情を受け入れた上で、適応思考を考えなくてはなりません。
なぜなら、「自動的な適応思考(ややこしいな)」では、かつて感情を抑圧していた頃と、本質的に同じだからです。
かつては「怒り」を感じても、それを表現できずただ我慢した。
今は「適応思考」という理屈で抑え付けている。
自分の認知の傾向の結果である「怒り」を、自分で認めず受け入れていない、つまり「抑圧している」ということでは同じだと。
日々の出来事に対する「対応法」としてはそれでいいかもしれないけど、本質的に自分の感じ方を改善しようと思ったら、それではダメですねえ。というか逆効果。
まず、自分で自分を認めるコト(精神疾患の人間にはものすごく深~い意味があります)がすべての始まりですからねー。
というコトに気づいた最近なのでした。
うつ病治療の基本中の基本である、「まず自分を認めること。」に逆行してしまっているぞ、と思ったのであります。
それで最近調子悪かったのかな…。
って、結局仲間内にしかわからん話になってしまったような。まいっか(苦笑)。
あくまで私自身のハナシです。
認知療法って何よ?…というお話はブログの記事で書ける量ではありませんし、私も専門家ではございませんので、詳しくは書きません。
とにかく、出来事をどう感じるかには個人差があるわけで、その差は、「出来事→その人なりの感じ方→感情」という仕組みになっているからだそうです。
この「その人なりの感じ方」を「認知」と言うわけですが、思考パターンとか砕けた言い方もできます。その人の基本的な性格・価値観といったもの(スキーマ=中核信念)に影響を受けています。
んで。
嫌な感情が湧いてきた時など、「何が起こって→どう考えて(自動的に湧いてきた思考)→どんな気持ちになったか」、を分析(紙に書き出す、とか)して、自動的に湧いてきた思考(自動思考と言います)=そのときの認知、とそれによって起こった感情を把握します。
で、他の考え方は無いかな、とブレーンストーミング的に探します。
その結果、「こう考えれば(こう出来事を捉えれば)」嫌な気持ちにならなくてすむ、という「考え方」が見つかれば、自動思考をその思考(適応思考と言います)に置き換えます。
これはそもそもの「認知の傾向が歪んでいる」人の為のものです。
なんでもネガティブに見てしまうとか、取り越し苦労のクセがあるとか、たくさんあります。
その原因もたくさんありますが。
この「認知の歪み」が、うつ病患者など精神疾患の人に多く見られるということで、認知療法は治療に取り入れられたりしています。
んで、私は復職支援センター時代にこの認知療法に取り組み、今ではいちいち紙に書き出さなくても、とりあえず認知の切り替えができるようになりました。
これがときどき出てくる「びっきぃ流プチ認知療法」なんですが…。
いやあ、「慣れ」ってコワイもので。
この「プチ認知療法」にコワイ落とし穴があることに気づきました。
というか「すでに落ちている」コトに気づきました(苦笑)。
あ、繰り返しますがあくまで私個人のハナシですから。認知療法の一般論ではありません。
んで何が問題かというと。
この「プチ認知療法」に慣れてきてしまうと、嫌な気分になり「そう」という段階で「適応思考」を探して、本来の自然な感情を抑え付けてしまう場合がある、ということ。
つまり本来ならば、「嫌な気分」になってから、その理由は?他に考え方は?という段取り(?)を追うことで意味があるわけなんですが、途中を端折ってしまっている、と。
例えば、誰かの話にカチンと来た場合。
(この例の場合、客観的に見てカチンとする必要も無い話なのに、という状況と思ってください。「認知の歪み」を持っているが故にカチンと来てしまっていると。)
本来なら、「何を言うねん。ムカつくわぁ。」と自動的に怒りを感じてから、「まあまあ、奴も○○なのかもしれないよ。他にも…」ってな適応思考を考え出して、怒りを抑えていく(自分を納得させる)、というのがスタイル。
で、そういうことを繰り返すことで、基本的な認知の歪みを直していきましょう、と。
ところが最近のびっきぃ。
カチンと来た瞬間に自動思考を追い払って、適応思考に置き換えてしまっています。
これは認知の歪みが治ったのではなく、適応思考の作り方が上手くなった(?)だけ。
だって、一瞬「カチン」と来ているわけですから。
自動思考による感情(この場合は「怒り」ですね)は一旦しっかり感じて、自分でその感情を受け入れた上で、適応思考を考えなくてはなりません。
なぜなら、「自動的な適応思考(ややこしいな)」では、かつて感情を抑圧していた頃と、本質的に同じだからです。
かつては「怒り」を感じても、それを表現できずただ我慢した。
今は「適応思考」という理屈で抑え付けている。
自分の認知の傾向の結果である「怒り」を、自分で認めず受け入れていない、つまり「抑圧している」ということでは同じだと。
日々の出来事に対する「対応法」としてはそれでいいかもしれないけど、本質的に自分の感じ方を改善しようと思ったら、それではダメですねえ。というか逆効果。
まず、自分で自分を認めるコト(精神疾患の人間にはものすごく深~い意味があります)がすべての始まりですからねー。
というコトに気づいた最近なのでした。
うつ病治療の基本中の基本である、「まず自分を認めること。」に逆行してしまっているぞ、と思ったのであります。
それで最近調子悪かったのかな…。
って、結局仲間内にしかわからん話になってしまったような。まいっか(苦笑)。