美しい夕焼け

美しい晩年を目指して

感謝する出会い

2020-04-27 13:57:10 | 私の病気
新型コロナウイルスの医療現場で、活動されている医療従事者のニュースを見て、私のお医者様との出会いを思います。

最初の大きな病気は、乳がんでした。

自分で触って、しこりを見つけた時、その時代(2004年)は、乳房全摘手術が主流でしたから、インターネットで、温存手術をしてくれる病院を探しました。

そのうち、一番近い病院へ行くことにしました。そこは、私の住む地方都市の、主要な病院の一つでした。受診するには、医院の紹介状がなければ、初診料が高くなる病院でした。

でも、しこりがあるのだから、とにかく診てもらおうと行くと、その日は、乳がんの先生は一人もいらっしゃらず、消化器外科の先生に診てもらいました。(その頃は、乳がんは外科で診てもらっていました)

その先生が言われるには、「うちにはとてもいい乳がんの先生がいらっしゃるので、来週、その先生の予約を取りましょう」そして、看護師さんに「予約取ってあげてね」と言われました。

看護師さんが困って、「その先生の予約はいっぱいで、取れません」と、言われると、消化器外科の先生の、「そんなこといわずに取ってあげなさい」という鶴の一声で、予約してもらえたのです。

後で聞くと、その乳がんの先生は、とても信頼できると評判の先生で、とても人気(?)があったのだそうです。

そういうわけで、私は運良くその先生に見ていただくことができたのです。

入院している間も、お休みの日も必ず回診に来てくださり、「先生はいつ休まれるんですか?」と聞いたら、「患者さんが心配で、休むことができないんだよ」と言われました。

信頼して、すべてを任せられる先生でした。

その後、喘息になり、私の住む地域の呼吸器科の先生を、やはりインターネットで探しました。

夫が倒れて、家で介護しているときに、足に異常な痛みが出て、整形外科に行きました。そこで痛み止めなどをもらいましたが、胃が痛くて飲めないのです。

妹が、ちょっと変だから、近くの総合病院へ行って診てもらおうと、連れて行ってくれました。そこの救急で診てもらいましたが、胃の検査をしてくれて、異常なしなので、主治医と相談してみなさいと言われました。

それで、喘息を診てもらっている先生のところに、何も食べられないので、点滴をしてもらいに行きました。先生が、「いつもと何か様子が違うので、もう一度、総合病院へ行って、検査してもらいなさい。喘息の人がかかる珍しい病気があるから、それも書いておくからね」

そして、好酸球性多発血管性肉芽腫症、が分かったのでした。もしも、呼吸器専門の先生でなかったら、病気が分からないままに、命がなくなってしまったかもしれないと思います。

この先生を命の恩人と思っています。

他にも、いい先生や看護師さんにも出会っていますが、やはりこのお二人が、私の命を救ってくださったなーと思います。

人との出会いに、あまり期待をしなくなった私ですが、良いお医者様に出会えたことは、感謝の思いでいっぱいです。

それともう一つ、これは、24日に、夫の入所しているショートステイに、パジャマを届けに行った時のお話です。

私がいろいろなことをお願いするので、なかなか職員さんとの意思の疎通ができなくて、あまり親密な態度をする人がいません。どの人が出てきて、どんな態度を取られるのかと、いつも憂鬱な気分で行くのです。

24日に出てきてくれた人は、いつもはあまり愛想のない男性職員さんでした。それが、私たちの顔を見ると、ニコニコ笑って、「元気でいらっしゃいますよ。来たことを伝えましょうか。」と言ってくれたのです。

私は、ちょっとびっくりしたけれど、とても嬉しくなって、「お願いします。会いたがっていると伝えてください」と言いました。

心の中の温かい感情が、その人の態度に現れると、相手に大きな喜びをくれます。私は、ちょっと感動してしまいました。嫌なことばかり起こると思うけれど、いいことだって起こるよねと思ったのでした。


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才能の問題

2020-04-23 14:28:14 | 私の日々

若いころ、小説家になりたいと思っていました。

小説らしいものを書いたりしていたころもあります。でも、いつの間にか、 小説家になりたかった人になってしまいました。

だんだん年を取ってきて、何かやらなくてはと思い始め、書道を始めました。これはずいぶん頑張って、12,3年やりました。そして、私には、全然あっていないと気がついたのです。白黒の世界は、あまり好きではなかったのでした。

その後、ピアノを習い、優しいアレンジの「エリーゼのために」が弾けるようになって、やはり、これ以上続けてもピアノを弾ける人にはなれないと思いました。

ゴルフや英会話にも通い、40代は、自分に合うものを探す時代でした。でも、何も見つからず、やはりこれは才能の問題なのかなー、と思うことが多くなりました。

病気をして、自分の人生を考えるようになり、年をとったら絵を描きたいと思っていたこともあり、絵を描こうと思い始めました。最初は、絵を描く本などを買って、パステルや、色鉛筆で描き始めました。

上の絵は水彩絵の具と水彩色鉛筆で描いたものです。下は私の大好きな犬たちをパステルで、水彩色鉛筆で描きました。

    

  

一番描きたかった人物画を、水彩色鉛筆を主に使い、フォトショップでも描いて、それは一生懸命描いたことを、今その頃の絵を見て、思います。

      

   

そして、本格的に絵を習いたいと思い始めたのです。美術学校の絵の教室に通い始めたのは60才の時でした。

デッサンから始め、それは大変でしたが、とても楽しく、そのうち油絵を始めました。チャーリーを描き、大好きなタマラ・ド・レンピッカの「緑の服の女」を模写した時には、自分でこんな女性の絵を描けるようになりたいと思いました。

  

それから、絵の教室を替わり、2枚の油絵を描きました。自分の写真を見て、描きました。とはいっても似ているわけではありませんけども。

    

64才の時、夫が倒れて、絵の教室には、行かれなくなりました。それから、自分が病気になり、完全に絵を描く時を失ってしまいました。今は、描きかけの油絵が3枚あります(下の絵です)。いつか、続きを描きたいと思っていたのですが、もう3年くらい絵を描いていません。

振り返ると、なんだか、絵も自分に合っているのか、よくわかりません。体調が悪く、夫の世話をしなくてはならず、時間がないのは確かなのですが、何年も、ちょっとした絵も描こうと思わないというのは、絵と自分とがあっていないのかと思うのです。

なんだか悲しいですが、これも才能の問題なのかな、と思うこの頃です。

でも、これまでの絵を久しぶりに見て、やはり絵を描くのは、とても面白かったし、だんだん絵に自分の個性が出てきたと思うのですが、、、ちょっと甘いかな。

  



コメント (4)
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夫の帰宅

2020-04-20 14:09:07 | 
4月15日から17日まで、夫が2か月ぶりにショートステイから帰宅しました。

いつもは、1か月に2回、3日間ずつ帰りますが、コロナ・ウイルス感染が始まって、3月と4月の前半は、どんなふうになるか様子を見ようと思って、ショートステイにいることにしました。

帰宅して、ショートステイに行くときに、熱が37、5度以上あると、入所できないといわれていたこともあります。

夫をずっと家で介護することは、病気の私には、とても難しいことなので、コロナ・ウイルスがどんなふうになるかをみたいと思ったのです。

結局、感染は収まらず、今は、全国に緊急事態宣言が出され、人の移動を極力制限することになりました。

そんな中、夫を帰宅させるのは、不必要な移動だと思われるかもしれませんでした。

でも、夫の入所しているショートステイで感染はなく、家にいる私も母も、ほとんど外出することはありません。

母は自分の病院へ月1回行くだけ、私は、自分と母の病院へ月1回行き、夫のショートステイに毎週パジャマを届け、その帰りに雑貨などの買い物をするだけです。もちろんマスクをしていますし、手洗いもよくします。

夫はとても家が好きです。家族がとても好きです。今は面会もできませんので、3月の初めころに会ったままです。

私も、夫が家に帰ると、とても嬉しいし、1か月半も会えないと、とても心配でもありました。

主治医や、ケアマネージャーさんなども、家に帰ることをいけないとは言われませんでしたし、久しぶりに帰宅したのでした。

家に帰ると、夫は、とても嬉しそうでしたし、元気そうで安心しました。

夫が帰宅するときは、ヘルパーさんにおむつ交換や着替えなどをしてもらいます。

いつも来てくれる人の一人が、「こんな時期に帰るなんて、それが感染の原因になるのよ」と、私の顔を見ないようにして言いました。

この頃、何人かのヘルパーさんに、少し不満があり、それをケアマネージャーさんに言ったのが原因だろうと思います。

私は、言いたいことがあると、なかなか我慢ができなくて、人との関係がぎくしゃくしてしまうことがあります。

特に、夫に関しては、どうしても言わなくてはならないと思うのです。夫は、寝たきりで、意識も完全に戻ったというわけではありませんから、そういう状態の人を、気持ちよく過ごさせてあげたいと思うからです。

相手の人の反応は、とても意地悪だったり、無視したりということが多く、ひどく腹立たしいことが多いです。

今も、ショートステイとの関係もヘルパーさんとの関係もよくありません。

昔は、そういうことがあると、ずいぶん落ち込んだりしていましたが、今は、落ち込んでばかりいると、何もできなくなるので、昔のようには引きずらなくなりました。

ああ、この人と、今、出会ったということなんだなと思います。そして、意地悪や無視する人をかわいそうだなーと思います。寂しい生き方をしているのだろうと思うのです。

私は自分の人生が、あとそれほど長くないのではないかと思っています。だから、できるだけ嫌なことは、早くおしまいにしたいと思っているのです。



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夢のような薔薇の庭

2020-04-13 12:41:00 | 薔薇と庭


元気なころ、薔薇の庭を持っていました。

一番多いころは、60本くらいの薔薇が、庭に咲き乱れて、それは美しかったです。

5月の盛りのころは、お友達や知人が薔薇を観に来て、わが家のまさしく花の季節でした。

そのために、私は1年中薔薇の世話をしていました。夫や母も手伝ってくれて、みんなが薔薇を慈しみ、薔薇から幸せを受け取っていたと思います。


ただ、薔薇を美しく咲かせるためには、それはもう大変な労力と知識が必要でした。

54才の時、乳がんにかかってからは、体力もなくなり、年を取るにしたがって、薔薇が幸せよりも、苦痛をくれるようになりました。

だんだん、薔薇の数を減らしていったのですが、65才のとき、夫が倒れてからは、もう薔薇のことはすっかり忘れてしまったのでした。

そのころから、気候の変動や災害なども起こり、たくさんの薔薇が枯れました。



わが家の庭に、今ある薔薇は、20本、それも枯れかけたもの、衰弱したもの、なども含めてです。つる薔薇は、脚立に上がれないため、私の頭のあたりで切ったり、誘引したりしています。

病気で、体力もなく、気力もなくしてしまい、昔の夢のように綺麗で、豊かな香りの庭は、もう手に入れることはできなくなりました。

今ある弱った薔薇たちを、少しでも長く生かしてあげたいと、弱った私ができる限りの世話をしているこの頃です。

上の3枚の写真は、今のわが家の薔薇たちです。下の写真は、2015年4月に撮った写真です。薔薇が咲いたらまた、以前のきれいだったころの写真とともに載せていこうとおもいます。

  

  



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命の限界だったのかな

2020-04-10 03:11:19 | 私の病気
4年前、チャーグ・ストラウス症候群にかかった時、ステロイドを多量に注入して、命は助かりました。ただ、そのせいだと思いますが、骨が非常に弱くなりました。

退院して、杖をつきながら歩いていた時、道路で転び、整形外科に行きました。その日は、骨に異常はないといわれたのですが、翌日、家で転び、その時は、痛くて歩けませんでした。

救急車で違う整形外科に運ばれ、股関節が骨折しているといわれました。そして、手術を受けました。

その後、歩けるようになるためのリハビリをしているときに、息が苦しくなり、総合病院へ運ばれました。エコノミック症候群で、すぐに手術をしなければならないといわれました。

そのあとは、意識がなくなり、妹夫婦が付き添ってくれて、心臓と肺の血栓をとる手術を受けました。

4時間くらいといわれたのに、6時間たっても手術は終わらず、妹は、私の命が心配だったといいました。

手術後は、痛みがあるからと、1週間、意識が戻らないようにしてありました。体中にパイプがつながれていて、それは無残な姿だったようです。

その時、私は、3種類くらいの夢を見ていました。

一つは、ベージュの石のタイルが小さな塊から、だんだん大きくなり、私を襲う夢でした。

もう一つは、悪の童話という感じで、動物や鳥や人形が、輪になって歌を歌ったり、光る着物を着て棚の上から見下ろしていたり、それが何かしら恐ろしくて私を押しつぶしました。

そして、もう一つは、血の池の中の私、それは命が終わる予感のような、そういう夢だったのです。

少しずつ意識が戻りはじめて、目を開けると、私がつながれた機械が見えて、目をつぶると、怖い夢を見ていました。

私は夢を見ているとき、こんな夢をずっと見るのはいやだ、と思っていました。

そのうち、目をつぶってもそういう夢は見なくなり、だんだん現実の世界を認識し始めて、私は命を取り留めたのでした。

今思うと、あの夢を見ているときは、命の終わりの世界を漂っていたのかなと思います。

その後、私は、一度死にかけて、あとの命もそれほど長くないだろうと思うようになりました。そうだとしたら、これから自分の思うように生きればいいと思ったのです。

でも、人が生きるというのは、なかなか難しくて、思うように生きれば、多くのものと戦わなくてはならず、我慢をすれば、ストレスがたまるという中で、これからどの程度自分を出していこうかと、悩んでいるところです。


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