美しい夕焼け

美しい晩年を目指して

長い時間の中のかすかな時間

2021-08-31 13:52:31 | 私の日々


この写真は、わが家の庭の青じそです。8月13日から10日くらいずっと雨が降ったので、こんな巨大なしそになりました。

レンガと比べてみればわかると思いますが、異様な大きさに、すくすくと育ってしまいました。

ずっと雨が降らないで、猛烈な暑さの日が続いていたので、急な雨ばかりの日に植物の本能が目覚めたのでしょうか。雨の日の中で、ぐんぐん大きくなりました。

そんな青じそを見ながら、生きているということは、ほんのちょっとした周りの変化で、大きく変わるのだと思いました。

青じそばかりではありません。そのほかの植物、動物、人間も含めて、生きているものすべてが、周りの要素で変わっていきます。

山や川、土や空も、私たちの命とは違う時間の中で生きているのでしょう。それも長い時間の中で、少しずつ変わり、そのうち、存在もなくなるのだろうと思います。

私たちの宇宙は、いつか消滅するということです。それは、本当に長い時間の中でのことです。

そんな時間の中で、命あるものは、本当にかすかな時間を生きていると思います。地球だって、太陽だって、宇宙だって、いつかはなくなってしまうと思えば、私たちの短くわずかな時間など、いったいどんな意味があり、価値があるというのでしょうか。

例えば、宇宙を俯瞰してみることができたとしたら、私の人生など、どんなにかすかなものなのだろうかと思います。

それほどかすかな命、人生なら、その長い時間の中で、目にもとまらぬ一瞬の時間のことなのでしょうから、自分のことにこだわりすぎるのが、長い時間の尺度で行けば、つまらないことなのかもしれないと思います。

それでも、人は、自分のかすかな時間を愛おしみ、つらく悲しく、喜んでもいくのです。それは、価値があるかということではなく、たった一つの自分の人生の印だからなのだと思います。

自分の人生をできる限りの力で生きて、そして、長い時間の中では、大したことではないのだと、そういう風に思うと、心が少し安らかになるような気がします。


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面会できないのは嫌だ !

2021-08-25 13:05:53 | 
広島県では、コロナ感染者が18日から300人を超え、24日、県知事が、政府に緊急事態宣言の適用を申し入れました。

夫が入所している特別養護老人ホームでは、世の中の動きに早く反応して、コロナ感染者の数によって、面会を許可してくれます。

7月の最初には、感染者が減り、オンライン面会が直の面会に変わりました。

ところが、夫は、発熱して入院することになり、面会は、退院が決まって申し込んだため、8月18日が最初の日でした。

入退院の時にちょっと会ったけれども、ゆっくり会うのは4か月ぶりくらいでしょうか、夫は、やっぱりあまり機嫌が良くありません。

はじめ私は気が付きませんでしたが、だんだん、ああ目をつぶっているのは、機嫌が悪いのだと。

何もしゃべらないし、ずっと目をつぶっています。何か聞くと、気持ちばかりのうなづきをして、返事をします。

「私があまり来ないから、機嫌が悪いの?」、これにははっきりとうなづきました。

私も妹も、「えっー」と大声で言いました。それはないよ、と思ったので、「できるだけ早く手続きをして、会えるようにしているよ

でも、あとで考えると、今年になってから何度会えたでしょうか。会える時間も1回10分間。週に何度かは、午後いっぱい一緒にいて、DVDを見たり、おしゃべりしたりしようね、といっていたのに。

今度は、9月8日に10分間面会できます。でも、今のこの調子では、これでまた直の面会は中止になるかもしれません。

夫は目を開けないで、私にというか周りに、どうしようもない苛立ちをぶつけているのでしょう。

「面会できないのは嫌だ !」と夫が言っていたように見えた顔を、やりきれない気持ちで思い出しています。


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「五輪の薔薇」

2021-08-23 13:51:11 | 本・映画


19世紀のイギリスが舞台のミステリーです。作者は、チャールズ・パリサー、1998年に日本で出版された本です。

この本は、ずいぶん前に買って一度読んだことがあるのですが、すっかり内容は忘れてしまい、ただ、悲惨な物語だったとしか覚えていません。これでもかこれでもかと、悲惨なことが続いた本だったなーと覚えています。

それが、4cmくらいの厚さの単行本で2冊、本当に読み応えのある本でした。あまり内容を覚えていなかったので、もう1度読んでみようと思ったのです。


「五輪の薔薇」の紋章のついた馬車が、少年ジョンに与えた印象が、物語の始まりです。2・3人の召使とともに暮らす、少年とその母が、それから陥っていく波乱万丈の物語です。

人とはかかわらない二人の今の暮らしの謎、母が隠している秘密の文書の謎が、解き明かされないままに、裏切りや悪意の中で、どんどん苦しい生活に落ちていきます。

莫大な遺産の相続の話だということは、分かってきますが、誰が敵なのか、どれだけ敵がいるのかなど、謎は深まるばかりです。

誰にも助けられず、人に裏切られ、母の無残な死にも会い、それでも、ジョンは、ひたすら自分と母の正義のために、生きていきます。

少しずつ、何が起こっているのか、ということが分かってくるのですが、少年ジョンの一人だけの戦いは、いつも無残な形で終わります。そのうち、味方も現れてきて、最後にはすべての謎が解け、戦いも終わりを告げます。

その時には、たぶん17才くらいになっていたジョンは、正義ということの意味を考えるようになります。自分にとっての正義、それは本当に正義なのかと、考えます。正義と自分の欲との区別がつかないと思うのです。お金と財産について振り回されてきた人間にとっては、そういう風になるのでしょう。

この小説の、遺産相続の大きさに驚きますし、人が人を痛めつけるすごさにも驚きます。

それよりもすごいのは、19世紀の初めのころのロンドンの庶民の生活のすさまじさなどに驚きます。庶民は、時代が過ぎるほど、生きていきやすくなってきたのだと感慨深いです。

下巻になったころには、次から次へと新しい展開が起こり、もう少しもう少しと、なかなか読み止まれませんでした。

最後には、何とか平安な日が来るのですが、長い年月、世の中の悪意と戦ってきた少年ジョンは、17才くらいで、もう大人の顔を持っています。死ななかっただけ良かったかもしれませんけれども。

とにかく、分量も知識もものすごい本だなというのが感想です。もし、この長さのものすごい物語を読みたいと思われるなら、挑戦してみてください。


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チャーリーの毛の長さ

2021-08-09 14:37:20 | チャーリー


この頃は、人の体温ほどの気温の日があります。朝も25度以上の日が続いています。本当に暑いですね。(今日は台風のせいか、ちょっとしのぎやすいですが)

私たちは、洋服で調整することができますが、チャーリーは毛皮を着ています。それを脱ぐことはできません。

クーラーは1日中つけているのですが、低い温度にしないと、暑いのでしょう、フローリングの上に寝ています。

夜は母と一緒にベッドに行くのですが、この頃は、何度も扉を引っかいて私のところにきたいといいます。(私が夜遅くまで起きているので)

ベットのところに行ってみると、母が寒いと言ってクーラーの温度を27,5度にしていました。

チャーリーにしては、暑いのです。母に夏蒲団をしっかりかけてといい、クーラーの温度を26度にしました。それからは、少し寝られるようです。

それで、考えました。この蒸し暑い日本の気候の中で、足首までしっかりと覆う毛を持っているのは、やはり無理なのではないかと。



若いころは、毛も今ほど長くなくて、チャーリー自身も元気だったのだろうと思います。毛が長くてかわいそう、ということは感じませんでした。

先日、ペットショップのアドニスさんに美容してもらった時、相談しました。

アドニスさんも、このくらい毛が多くて長いと暑いでしょう、といわれ、もしよかったら、毛を切りましょうか、といわれます。

でも、顔の両側に伸びている毛を切るのは、とてももったいないので(なかなかこんなに伸びた子はいないです)、顔の毛の長さまで切るのがいいでしょうか、といわれました。

今年は、もう半分くらい夏も過ぎているので、来年、毛を切ることにしようということになりました。

チャーリーの毛が来年の夏、どのくらいの長さになるのか、不安な中に、ちょっと楽しみにも思っています。若いころのように、かわいらしくなるかもしれませんから。

下の写真はチャーリー1才と2才のころのものです。こんな風になるかどうかはわかりませんが。

 


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原爆の日を迎えて

2021-08-06 15:11:04 | 私の日々
8月6日は、広島に原爆が落とされた日です。

広島に住んでいて、祈念式典には出たことはないのですが、毎年、8月6日は、特別の日として、自分の中にあります。

人が人を殺すというのは、日常を超えたことですから、ほとんどの人は、人を殺しません。

でも、戦争は違います。そして、どんどん科学が発達してくると、ますます人を殺すことが簡単になっていきます。原爆は、私にとっての、科学が人を殺すことが簡単になることの象徴です。

だから、原爆の日は、いつも心にとどめています。何も行動は起こさないとしても。

高校3年生だったと思いますが、広島で、べ兵連のデモがありました。それに参加しました。

30代で、一度、原爆の日のあたりで、平和集会に参加しました。

自分の意思を表現したのは、それだけです。

何もしなかったといえる一生でしたが、でも、心の中は、いつも人が人として、平和で公平な日々を過ごせることを、強く願ってきました。

今年も何もしない原爆の日ですが、私の願いは、すべての人が幸せであることです。


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