美しい夕焼け

美しい晩年を目指して

私が長生きをしたい理由のひとつ

2021-06-28 13:06:26 | 私の日々
人は、自分の愛するものに対して、その存在の根本のところまで深く降りていき、その存在そのままを愛するようになると思います。

人がだれかを愛するとき、それは誰にも見えている姿ではなく、その愛する者の姿を知っているものだけが見える姿を愛しているのだと思うのです。

今、私には、施設に入所している夫がいます。96才になる母と一緒に暮らしています。そして、ヨークシャーテリアのチャーリーがいます。



私の家族は、今、自分一人で生活できるものはおりません。夫は、脳も体も健康とは言えず、母は自分の日々の生活はできますが、高齢なので、いろいろな助けが必要です。そして、チャーリーも日々の生活を助けてやらなくてはなりません。

もし、私が死を迎えた時、母は妹が一緒に生きていってくれると思いますから、それはちょっと安心です。

夫は、施設の方々に、どんなふうに受け止められているのでしょう。私の知っている夫を知っている人は、多分いらっしゃらないでしょうから、夫は不幸になるだろうと思います。

誰も自分を知っていないと分かれば、きっと不幸になるだろうと思うのです。

でも、夫と母は人間ですから、様々な助けもあるでしょうし、自分でも想像力を持っていると思います。



私が一番心配しているのは、チャーリーのことです。チャーリーは、今は犬というより、人間に近い存在になっています。

言葉も、音を少し覚えるのか、わかるように思えます。心の動きも、私にわかるように動きます。

チャーリーは、私の存在を分かっているように思えるし、私に対して働きかけたりもします。

それが、私の死後、ただ犬としてだけ扱われたとしたら、どんなに傷つくことでしょう。

私はこの頃、そういうことを考えるようになりました。できるだけ、私が長生きをして、夫や母や、チャーリーと一緒に暮らしたいと思うのです。

私は病気にかかっていますから、病気のせいで、足がしびれて痛み、薬の副作用か、それとも何かわからない理由かで、いつもいろいろなところが痛みます。

体が痛いときは、もうあまり長生きできないだろうと思うこともあります。あまり痛いと、それがずっと続くとしたら、生きているのがいやだと思うこともあるのです。

でも、家族のことを思うと、やっぱり一緒に生きていたいなーと思います。

ちょっとでもいいから、家族よりも長生きできるといいと思っているこの頃です。


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風景をつくる薔薇の庭

2021-06-22 13:40:34 | 薔薇と庭

薔薇の一番きれいな季節が終わり、庭は、あまり花がなくなり、寂しくなりました。

私が薔薇を植えた始めたころ、薔薇の花の美しさにこだわり、一輪の花を見て、それが集まった花の美しさを見る庭を作ろうと思っていました。

花の植え方も、花の美しさを気にした植え方をしていました。株が整然と並んだ、いろいろな花色の薔薇を楽しむ、華やかな薔薇園を作りたいという思いでいっぱいでした。

そして、薔薇園を作り始めて何年かしたころに、村田晴夫さんに出会いました。たぶん、テレビの園芸番組で見たのだったと思います。

村田さんのお話や存在感に圧倒されて、自分の作ってきた薔薇園が、何か薄っぺらいかなーと思ったのです。



それから、村田さんの本を買いました。村田さんは、つる薔薇を主にした薔薇園を提唱されていました。薔薇は、風景を作るためのもので、それは、人と人がつながるための風景を作るものだという考え方でした。

私は、そうか、薔薇は風景を作るものなんだと、目からうろこが落ちる思いでした。

薔薇が風景を作り、人がその中で、親しみあうという考え方は、とても新鮮で、薔薇園の作り方を考え直すきっかけになりました。

いろいろな薔薇の世界を作る方法を教えてもらい、私の薔薇園は、風景を作る薔薇の庭に変わっていきました。

村田さんは、町中の庭に、いろいろな薔薇が植えてあり、それがまた風景を作ると考えていらっしゃったと思います。

でも、10年前に、60才で亡くなられたことをインターネットで知り、本当に残念に思います。お元気でいらっしゃったら、もっともっといろいろな薔薇の世界を作って行かれただろうと思うのです。

私の庭は、村田晴夫さんに出会ってから、少しずつハイブリッドティーローズの1輪の美しさより、つる薔薇の華やかな集合美を見る庭に変わっていきました。

病気になってしまってからは、思うような庭にもなりませんが、それでも、村田さんのおっしゃったような薔薇を風景として見る庭を目指してはいるのです。

今の私の庭の薔薇の風景は、次の写真のようです。庭を右から左に歩いていくと、こういう風景に出会います。

薔薇園への入り口のアーチから見た庭、アーチに絡ませたスパニッシュ・ビューティー。

 

塀のところにはイングリッシュ・ローズを植え、その前に、彫像を置きました。

 

駐車場へ行く道に、アーチを置いています。アンジェラがかわいく咲きます。

 

庭の奥にパーゴラを置き、その下にベンチを置いています。そこに座って花を眺めるのも素敵です。


レンガで作った壁がアクセントになります。


塀に沿って、シュラブローズを植え、その前に、日時計を置きました。


家から出たすぐのテラスです。この前、壁を塗装してもらったので、きれいです。昔は、ここにも薔薇を這わせていましたが、今は寂しい限りです。


こんな風に、庭に入ってから、右から左に向かっていくと、庭に入るアーチから最後はテラスまで、今の私にできる限りの薔薇の風景の庭です。

つる薔薇の美しさや華やかさ、そして、つながりの温かさが感じられる庭であったらいいと思っています。




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夫が考えていること

2021-06-14 13:19:31 | 
この頃は、夫と直に面会することができなくなり、オンライン面会をしています。

一時は、広島県で、急速にコロナ感染者がでて、面会はすべて中止になったことを思えば、オンライン面会で、夫の顔が見られるのは、とても嬉しいことです。

でも、夫は、直の面会の時よりも、しゃべりません。「こんにちは」という挨拶はしますが、そのあとは、首を振ったりして意向を伝えるだけです。

最近夫が言ったことをあげてみますと、私が「スタンドバイミー」を録画したから一緒にみようね、といった時、「みたい」といいました。

チャーリーを見て、「チャーリー」と呼んだこと。でも、職員の「男の子ですか、女の子ですか?」には、「女の子」とこたえていましたっけ。

「テレビを見てるの?」と質問した答えは、「見ていない」、そばについていた職員が、「テレビはつけてあるのですが、あまりみていないかもしれません」といわれました。

私は、「じゃあ、テレビ見ないで、なにしてるの」と聞きました。「何もしていない」と夫。私は、「考えているの」と聞くと、うなづきました。

「昔のこと?」と聞くと、夫はうなづいて、「若いころ、楽しかったよねー」といったら、かすかにうなづいたように思います。

私には、話さないのですが、職員には、自分の子供のころのことを話すそうです。楽しかった子供時代、という感じで。

夫は、元気なころ、歴史が好きで、いろいろな知識を持っていました。読書家でもありました。いろいろなおしゃべりがとても楽しかったことを思い出します。

あまり、自分のプライバシーをしゃべらない方でしたから、若いころのこと、子供時代のこと、そんなに聞いたことはありません。

今、夫の脳は、どこまで回復しているのだろうと思います。そして、夫は、どんなことを考えているのだろうと、思います。

夫が、今、穏やかに自分の日々を受け入れて、自分の幸せだった時のことを思い出してくれていたら、と心から願っています。


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「魔法使いハウルと火の悪魔」

2021-06-03 21:47:41 | 本・映画


この何か月かで、小説を3つ読みました。けれども、あまり私の気持ちに良い影響をくれたものがなく、どれも何か書きたいという気持ちになりませんでした。

それで、児童文学を読んでみようと思いました。ちょっと前に買ったダイアナ・ウィン・ジョーンズの「魔法使いハウルと火の悪魔」、ジブリの「ハウルの動く城」の原作本です。

読んでいると、「ハウルの動く城」のキャラクターが目の前に浮かび、読書の楽しさから外れていたのが残念でしたが、ジョーンズの世界が生き生きと動き回り、魔法の世界に連れて行かれたように感じました。

ジョーンズは、気持ちの明るい人なんだろうと思います。会話が弾み、人が動きます。

ジブリのアニメのほうが、しっかりした世界を描いているように思いましたが、ジョーンズの魔法の世界と、そこに生きる人々の明るいたくましさを存分に楽しめます。

昔、私は、いわゆる純文学といわれる小説を読み、小説の中で人々がうまく生きられないことを見つけて、自分が、現実の世界でうまく生きられないことの慰めにしていました。

でも、年を取って、小説の中の現実に見つけられるような世界を読むのは、少し嫌になってしまいました。そんなこと、自分の現実と一緒だから、あまり読みたくはないと思うようになったのです。

そしてこの頃は、児童文学を読むことが多くなりました。児童文学には、人の根本のところの苦悩や、人が人と一緒に生きる喜びや、人としてあるべき姿の英雄や、人間の世界の理想的な形が、たくさん詰め込まれていると思うのです。

もちろん、小説の中にも、そういう小説があり、読むことを楽しませてくれるものがたくさんあります。

本を読むことの楽しさは、感覚的なものばかりではなく、考えながら世界を構築していくことにもある、とこの頃は思っています。


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