いつか見たTV映画の中で、そして、いつか読んだ小説の中で、人は死んだあと体が分解されて原子になり、それが宇宙に散らばっているという世界観を知り、それがずっと私の気持ちの中に消えないままにあります。
人は死んだあと、無になるとずっと思ってきたのに、病気になり、死のすぐ手前まで行った私には、無になるということの恐ろしさや、無になるよりもっと恐ろしい永遠の苦しさが続く世界にとどまるかもしれないという怖さから、逃れられなくなりました。
もしも、死んだ後、原子になって、私が宇宙に散らばっているということが本当にあるなら、それは、無になるというむなしさから、少し救われるのではないかと思うようになりました。
原子になった私には、そこに私という意識などはないのだけれど、でも、存在自体は無になるのではなく、そこにあるのだということが、自分の存在が無になることよりも、ちょっと救われるような気がしてきたのです。
自分が無になるということの恐ろしさは、ずっと私の気持ちを苦しめてきました。でも、無になるのには変わらないけれど、自分の原子が存在するというのは、何か気持ちを温かくするように思います。
人は宇宙の中の、本当に小さな生き物だけれど、そして、生きた印なども本当に他愛もないものなのだけれど、瞬く間のような一瞬の人生を、喜び、悲しみ、怒り、癒し、など大きな時間を生きる人間の素晴らしさを思います。
そして、死んだ後には、何事もなかったように、宇宙の中に、原子として散らばっている自分を思うと、ああそうだったらいいなと思っているこの頃です。
3年ほど前にある本を読んだのですが、以来私もbeautiful-sunsetさんと同じように感じています。
本は、佐藤文隆さん(物理学の先生)と物理音痴(?)の女性との対談です。
佐藤文隆さんは
「この腕はどこからきたんやろと思ったら、その星のど真ん中を思い浮かべればいい。ぼくらは星の子・・・。
物理的にわれわれがすっかり消えるということはない。原子のある組み立てや配置が無くなるだけ。そして芸術やサイエンスは、人類がある限り受け継がれていくものだと思う。」と話しておられます。
過去記事で写真メモを残しています。もしよかったらどうぞ。
本「科学にすがるな!―宇宙と死をめぐる特別授業」の写真メモ1
https://kusakisora2.exblog.jp/28315705/
話は違いますが、若い頃「小説を書きたかった」と書かれていたかと思います。何かそう思われるきっかけがあったのですか?
私は今『いくつになっても、ずっとやりたかったことをやりなさい』という本をチラチラ眺めているのですが、その中に子供時代~若い頃の夢・感じたこと・思ったこと・していたことは何でしたか?という質問があります。
たまにぼんやり振り返っているのですが、beautiful-sunsetさんのように、コレといったはっきりしたものがないのです。で、失礼ですがあえて個人的な事をお尋ねしてみました。厚かましくてごめんなさい。
佐藤文隆さんの写真メモ見させていただきました。とても印象深いお話ですね。その中でも、私の気持ちにぴったり来たのは、「自由と民主主義が好き」ということです。そして、「要するにみんなが幸せにという気持ちです」それは、私がいつも思っていることですから。
でも、私は、自分が社会に何も貢献していないという気持ちで、いつも打ちのめされてきました。自分に一番合っているのは、物を書くこと、そういう風に思いますから、自分を発現していないと思うのです。
それは、空さんがおたずねになったことの答えになるかもしれません。私は子供のころから、本に囲まれて過ごしてきました。外で遊ぶこともあまりなく、詩を書いたり、漫画を書いたり、自分の心の中で遊ぶことが多い子供でした。
だから、自分は小説家になりたいのだといつの間にか、決めてしまったようです。でも、高校生になったころには、自分の能力の限界を知ってしまっていたと思いますが、それでも、小さいころからの思いを捨てることもできず、大学も国文科に行きました。
時々は小説を書いたりしていたのですが、やはり、自分の才能に限界を感じたことが、小説家になれなかった一番の理由だと思います。自分の仕事をきちんとしてこなかったため、社会への参加もできないできました。それが私の大きな後悔です。
でも、社会への参加が必ずしも必要だとは、この頃は思わなくなってきました。人は、自分の時間を誠実に生きたら、それでよいのではないかと思うようになりました。
空さん、たくさんのやりたかったこと候補がおありなら、一つずつ試して見られたら、いいのではないかと思います。良いことが見つかるといいですね。
丁寧なお返事を(しかも夜遅くに)書いて下さって、プレッシャーを掛けたようで・・。誠実に応えて下さってありがとうございます。
この本は1948年3月生まれの女性が、リタイアした高齢者に向けて書いたものです。
もうリタイアしたのだから、大人の常識の習慣を捨て、社会の価値観も捨て、まだ社会に洗脳されていない幼ない子供のように、自由に自分の気持ちの赴くままに、ただ楽しいことをして遊びましょう・・という感じです。私の解釈ですが。(笑)
ですから<社会への貢献>とか<上手か下手か><する意味があるかないか><形になったか>などと考えたり、自分がしたことを評価するのは一切止めようと言います。確かに子供はそんなこと一切しないですもんね。ただ面白そうな事やおいしいものに首をつっこむだけです(笑)
私の学校の教師たちは、とかく「社会への参加や貢献」や「何をすべきか・したか」を話したのでそれがでウンザリで、反抗的な学生でした。それでもその影響を受けて、自己査定する癖がつきました。今思うとあれにはやはり良くない面があったと思います。
著者は、ほんとにたわいない小さなことでいいから、まず心地いいことをやってみてと勧めています。で、思い出した好きだったものを食べる。居眠りをする。漫画を読む。空や草を眺める。など始めたのですが、
でも、これと言って「やりたかったこと」が見つからなくてそれでbeautiful-sunsetさんにお聞きしました。
そうそう。以前だったらこんな厚かましい質問はしなかったのですが、子供は何でも遠慮なく訊くなと思って、私もそうすることにしたのです。
またブログにこの本関連のことを書くかもしれません。
また長いコメントになってすみません。お返事はどうぞお気遣いなくお願いいたします。
「自由と民主主義が好き」「要するにみんなが幸せにという気持ちです」という概念は、私の生きる標のようなものです。そして、もう一つ、「科学は何のためにあるのか。これは知識は何のためにあるのかという問題と同じです。」人の幸せのために知識があるのだと思います。
だから、人は、自分の持って生まれた力を十分に発揮することで、自分の幸せ、人の幸せを少しでも実現できるのではないかと思っています。私の場合は、物を書くことに真摯に対応したとは思っていないので、それが私の後悔です。
世の中の名声やお金などは、自分の能力を発揮できた人生にとっては、ほとんど意味がありません。社会参加というのは、私にとっては、自分が良く生きたかという印です。
今、自分が小説を書くことに一生懸命だったかと、問うと、そうでもなかったと思うのです。ずっと、自分の生き方があいまいでいやだなと思ってきましたが、先のコメントに書いたように、この頃は、少し自分の一生懸命な姿を見返して、まあ、いいか、と思うことがあります。年を取って死を見るようになって、じたばたしても仕方ないと思うのでしょうか。
私の社会参加の意味を少し説明したいと思ってまたコメントしました。
夜起きているのは、いつものことです。私は昼夜逆転の生活をしているものですから。あまり時間のことは、お気になさらないように。(ブログは夜中に書いて、翌日の午後にUPすることかが多いです)
>自分に一番合っているのは、物を書くこと、
>人は、自分の持って生まれた力を十分に発揮することで、自分の幸せ、人の幸せを少しでも実現できるのではないか
>自分の能力を発揮できた人生
>社会参加は、私にとっては、自分が良く生きたかという印
という言葉でbeautiful-sunsetさんが「後悔」とおっしゃる気持ちが少しわかったような気がします。
ただ・・以下は、私個人の勝手な感想ですが、
そのように考えて、更にそれを実行できた人はほんのわずかではないかと。
本にあるように、多くの人は「自分に合っているもの」もわからずただ左右を見習い、「自分がやっていることに確信を深めて」、知識がただ増えるだけで、何かを得たように思いがちです。私もそうしてきた一人です。おもちゃ箱にガラクタを詰め込んだままです。
beautiful-sunsetさんの際立った能力は、そういうありがちの人には無い直感の鋭さから、周囲への違和感があり、周囲の無理解に苦しまれたのではないでしょうか。そしてこれも際立った「人に対する誠実さや思いやりの気持ち」を発揮できなかったし、受け止めてもらえなかったのではないでしょうか。
そしてまた人一倍、ご自分に厳しい。
すみません。これ全部、勝手な私の妄想ですが。
でも、こうして私の不躾な質問に丁寧に説明して下さったり、バラの庭を解放されたり、誰かに対する誠実な言葉とかで、折にふれbeautiful-sunsetさんの能力は自然に発揮されて、beautiful-sunsetさんなりの社会参加をされてきたのではないでしょうか。
ご自分ではあまり気づかなくても。小説を書かなかったとしても。少なくとも私はbeautiful-sunsetさんと知り合えてよかったです。
>人は、自分の時間を誠実に生きたら、それでよいのではないか
偉そうに言いますが、十二分にそう生きてこられたのではないかと思います。
今回はこれで終わります。長々しつこく m(_ _)m
私も空さんと出会ったことを、とても嬉しく思っています。いつも心のひだがくすぐられるように感じます。
空 さんと beautiful sunset 差との素敵な会話 読ませていただきました。 空 さんのブログも読ませていただきました。 ブログでこのように深い会話、交流がされるとは 思いもよりません。お二人の交流羨ましく思います。
これから、 時間のある時に 空 さんのお部屋に伺わせていただきたく思います。そして私は、紅茶のミルクティーがいつもの飲み物ですが、大きなカップを横において。
柳田邦男さんの言葉 「人は死が避けられくなったとき、自分が他の誰でもない自分として生きたかどうか、その証を必死になって求める。」という言葉が今の私に一番ぴったりです。今70歳となり、残された時間、これまでいろいろとあったやりたいことが収れんされてきたように思ってます。
beautiful sunset さんの 不安の思いとは 多少外れていると思いますが、ご主人を愛しておられ それだけでもお幸せなお二人の人生ではないでしょうか。
人は、ずっと自分と向き合って生きていかなくてはなりませんね。死を迎えるときに、自分は一生懸命生きたと思えれば、良いかなと思っています。
死の次の場所ではこの身体は必要ないから、死とともに身体は消滅するのでしょうね。でもね、私という人としての格の存在は永遠だと思います。それが、次の場所でどういう姿かたちとなっているかは、人間の知恵では想像もできないことだけは確かでしょうね。
人間の知恵で分かることなんてほんのちょっとですから。
無になるはずないから、希望が持てます。
と、死について私の思いを綴りました。
申し訳ありませんが、私は、自分の死は、無になるということだと思っています。