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ヨハネス・デ・レーケと高田雪太郎(享年44歳)

100年前と言えば昔ですか、それとも最近ですか。
生命誕生からいえばほんの瞬間です。
しかし、人生からすると大昔になります。縄文時代のような、みたいな
です。
常願寺川の話をしていましたら全然通じませんでした。
自分達の郷土と思っていないようでした。
明治24年7月の常願寺川洪水の話です。
それは120年前。

富山地方鉄道、大山寺駅プラツトホーム下に流れ出る
常西合口用水は明治26年に完成を見ているが、この工事が1年で完成したことは
脅威なことであり、立案者 ヨハネス・デ・レーケの名は結構富山県内者には知られています。
しかし、デ・レーケと行動を共にした土木技師「高田雪太郎」の名を知っている人は
あまりいません。


彼は、工部大学校の第三回卒業生で明治22年に内務省勤務時
30才の時に富山県勤務を命ぜられた。それから明治29年まで
7年間の富山県勤務となる。

明治憲法は明治22年発布、帝国議会は第一回が明治23年、内閣制が始動した時
と同時に富山県で仕事することになった。
当時、毎年常願寺川は水害に見舞われその修復費は富山県財政を圧迫していた。

森山茂富山県知事は明治24年7月の水害について内務省に「土木之費国庫御補助之義二付上申」
として9月に上京している。
ヨハネス・デ・レーケは
オランダ人土木技師、富山県が政府への水害助成から来県した。
相手したのは高田雪太郎。

デ・レーケと高田は明治24年8月6日から9月2日まで約一か月、常願寺川中心に視察し
大鳶、小鳶を経て弥陀ヶ原、室堂へと、そして立山へは16日に登頂
している。

わずか一二年で常願寺川治水事業は完成した。政府の直轄補助金で総額約80万円。
当時、国の直轄河川費は62万円の時、しかも河川法の成立は明治29年
であるから、いかに常願寺川の被災が甚大であったかと思われる。
昨今の大震災に相応しうると思う。
短期間の大工事に ヨハネス・デ・レーケとともに
高田雪太郎は行動していた。
高田雪太郎がいたからこそ、デ・レーケの計画が実施できたと思います。
忘れてはならない名だと思います。
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