歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

源信僧都⑩-5(往生要集-叫喚地獄)

2009年09月10日 | 七高僧
源信僧都⑩-5(往生要集-叫喚地獄)

④叫喚地獄(きょうかんじごく)
・殺生、盗み、邪淫、飲酒

ただ酒を飲んだり売買するのみならず、
酒に毒を入れて人殺しをしたり、
他人に酒を飲ませて悪事を
働くように仕向けたりなどと
いうことも条件になる。

衆合地獄の下に位置し、
その10倍の苦を受ける。
人間界の時間で852兆6400年である。

金のように黄色い頭の地獄の鬼が、
眼の中から火をだし、
赤い着物をきている。
手足は長く大きく、
風のように疾走し、
口に恐ろしい声を発して、
罪人に矢を射かける。
罪人はおそれおののき、
頭を地にすりつけて、
「どうぞ、あわれと思って、
 しばらくお見逃しください」
と哀れみをこうが、こう聞いても、
ますますいかりをつのらせる。

あるいは、金鋏(かなばさみ)で
口をこじあけて、
にえたぎる銅をながしこむ。
内蔵を焼けただらせると、
肛門からただちに流れ出てくる。



源信僧都⑩-4(往生要集-集合地獄)

2009年09月09日 | 七高僧
源信僧都⑩-4(往生要集-集合地獄)

③衆合地獄(しゅうごうじごく)
・殺生、盗み、邪淫

ここには生きものを殺したり、
盗みをはたらいたり、
邪まな淫にふけったものが墜ちる。

集合地獄は黒縄地獄の下に位置し、
その10倍の苦を受ける。
その寿命は人間界の時間に
換算すると106兆5800億年という。

衆合地獄は、
沢山の鉄の山があって、
互いに向かいあっている。
牛や馬の頭など、
さまざまの形をした地獄の鬼たちが、
責具(せめぐ)や杖(むち)を手にして、
罪人をこの山に追い込む。
すると、この時、
山が両方から迫ってきて押し合い、
罪人は間にはさまれて、身体は砕け、
血は流れて地上にあふれる。

あるいは、鉄の山が空から落ちてきて
罪人を打ち砕き、
砂の塊のようにしてしまう。

あるいは、罪人を石の上に置いて
岩石で圧しつぶしたり、
あるいは、鉄の臼にいれて鉄の杵でつく。
また、そこには大きな河があり、
なかに鉄の鉤があって、
どれにもみな火が燃えている。
地獄の鬼は、罪人をとらえると、
その河のなかに投げこみ、
鉤の上に落とす。
また、その河のなかには、
熱い赤銅がどろどろにとけていて、
かの罪人を漂わせる。
あるものは日の出のように
わずかにからだが浮かび、
あるものは重い石のように沈んでいる。
手を上げ、天に向かって
大声に泣き叫ぶものもあり、
たがいに近づいて泣き叫ぶものもある。
もう長い間、
はげしい苦しみを受けているのに、
頼るものもなく、救うものもない。

  

源信僧都⑩-3(往生要集-黒縄地獄) 

2009年09月08日 | 七高僧
源信僧都⑩-3(往生要集-黒縄地獄) 

②黒縄地獄(こくじょうじごく)
・殺生、偸盗

等活地獄の下に位置し、
縦横の広さは等活地獄と同じである。

殺生のうえに偸盗(ちゅうとう)といって
盗みを重ねた者がこの地獄に堕ちると説かれている。
寿命は人間界の時間に換算すると、約13兆年。

ここでは、地獄の鬼は、罪人を掴まえて、
熱した鉄の地面に臥せさせ、
熱い鉄の墨縄(すみなわ)で
縦横にからだに墨をうち、
熱い鉄の斧で墨縄のとおりにたち切る。
あるいは鋸でからだを切りはなすか、
あるいは刀で切りさくかして、
幾百幾千の断片にして、
あちこちにまき散らす。
また、左と右に大きな鉄の山があるが、
山の上にはそれぞれ鉄の幢(はた)を立て、
その幢の先に鉄の縄をはりわたし、
その縄の下には、
たくさんのにえたぎった釜が置かれてある。
地獄の鬼が、山と積み重ねた鉄のたばを
罪人に背負わせて、縄の上をわたらせ、
はるか下の鉄の釜のなかに落として砕き、
はてしなく煮る。
ここでは、等活地獄の苦しみに十倍する
重い苦しみを受ける。
地獄の鬼が罪人を責めて、しかりつける。
心が一番怨(あだ)をなすのだ。
この怨が一番の悪をはたらき、
この怨が人をとらえて、
ついに閻魔王の所に送らせるのだ。
お前ひとりが地獄で焼かれ、
悪事をはたらいたために食われるが、
妻子、兄弟など、親族や身内のものも
救うことはできないのだ。


源信僧都⑩-2(往生要集-等活地獄)

2009年09月07日 | 七高僧
源信僧都⑩-2(往生要集-等活地獄)

①等活地獄(とうかつじごく)
・殺生

最初の等活地獄は、
この私達の住む世界の地下一千由旬の
ところにあって、縦横の広さが一万由旬である。

この地獄に堕ちる業因は、
生き物の命を断つものがこの地獄に堕ち、
ケラ・アリ・蚊(カ)・蝱(アブ)の
小虫を殺した者も、懺悔しなければ
必ずこの地獄に堕ちると説かれている。
また、生前争いが好きだったものや、
反乱で死んだものもここに落ちるといわれている。

ここの罪人は、
互いにいつも敵愾心を懐いて、
もしたまたま出会うと、
猟師が鹿を見つけたときのように、
それぞれ、鉄のような爪で
たがいにひっかき、傷つけあい、
ついには血も肉もすっかりなくなって、
ただ骨だけになる。

あるいは、地獄の鬼(獄卒)が
鉄の杖や棒を手にして、
罪人を頭から足の先までくまなく打ち突き、
からだを土塊のように砕いてしまう。

あるいは、とくに鋭利な刀で、
料理人が魚や肉をさくように、
ばらばらに肉を切りさく。

ところが、涼しい風が吹いてくると、
また獄卒の「活きよ、活きよ」の声で
元の身体に等しく生き返るという
責め苦が繰り返されるゆえに、
等活という。
この地獄の四つの門のそとには、
また、これに付属した、
十六の特別なところがある。

第一は屎泥処(しでいしょ)といって、
極熱の屎(くそ)がどぶどろになっている。

第二は刀輪処(とうりんしょ)といって、
両刃の刀が雨のようにふってくる。

第三はおう熱処(おうねつしょ)といって、   
罪人を掴まえて鉄のかめの中にいれ、
豆のようにじっくり煎る。

第四は多苦処(たくしょ)といって、
量り知れない種類の苦しみがあるところで、
詳しく説明することができない。

第五は闇冥処(あんみょうしょ)といって、
まっ暗な処にいて、
いつも闇火(やみび)にやかれる。

第六は不喜処(ふきしょ)といって、
嘴から熱い炎をはく鳥や、
犬・狐のなく声が不気味で恐ろしく、
いつも襲ってきて、罪人にくいつき、
骨や肉をくいちらす。

第七は極苦処(ごくくしょ)といって、
ここは罪人が険しい崖の下にいて、
いつも鉄の火で焼かれるところである。

源信僧都⑩(往生要集)

2009年09月07日 | 七高僧
源信僧都⑩(往生要集)

源信僧都は、主著『往生要集』を
わずか六カ月で書き上げた。
『往生要集』は僧都44才の時の著作であった。

わが国有数の宗教文学作品で、引用文献の多さでは、
七祖の書物の中で第一の書物である。

源信僧都は、主著『往生要集』をわずか六カ月で書き上げた。
『往生要集』は僧都44才の時の著作であった。

わが国有数の宗教文学作品で、引用文献の多さでは、
七祖の書物の中で第一の書物である。

『往生要集』は源信僧都の
「予がごとき頑魯(がんろ)の者」という
真実の自己を知らされたお言葉から始まり
道俗・貴賎・賢愚の区別なく、
等しく救われる道は念仏の一門のみだという
基本的な立場に立って書かれている。

その中でも往生要集に描かれた地獄の有様は有名だ。
今日、地獄を語る場合、往生要集に基づいて
話しされているのが殆どである。

源信僧都はこれを通して、後生の一大事の解決こそが
人生の目的であるかを明らかにして下されたのである。

そして、源信僧都はその地獄を絵図にして、
視覚にも訴えた。

宮中にも飾られたが、その部屋は夜になると
地獄の亡者、獄卒達のうめき声が聞こえてきて、
誰も近づかなかったとさえ噂された。

また、妙好人庄松同行にもこんな話しが残されている。
ある寺に往生要集の地獄絵図と極楽絵図が掛けられた。
多くの同行が集まって見ていたのは地獄絵図の前。
その絵の凄まじい地獄の様子に、皆は口々に
「地獄とは大変なところだの」
と驚いていた。
そこへ庄松が来て
「お前ら、死んだら嫌でもこんな様子は見れるのじゃから、
 今の内にこちらの極楽を見させてもらったらいいぞ」
と言ったそうな。

流石は庄松、皮肉な言い方だが、的を得ている。



源信僧都⑨(母への臨終説法)

2009年09月06日 | 七高僧
源信僧都⑨(母への臨終説法)

源信僧都はついに、母の念願通りの
「後の世を渡す橋」となって郷里に戻られ、
感慨無量であった。

しかし、感激にひたっているばかりの余裕はない。
今まさに臨終を迎えている母の後生の一大事を
解決しなければならぬ。

源信僧都は母に、精魂を傾け臨終説法を試みられた。
「母上、どうかお聞きください。
 一切の人々の救われる道は、
 本師本仏の阿弥陀仏に、一心に帰命するしかないのです。
 阿弥陀仏はどんな極重の悪人をも、
 信ずる一つで救い摂ってくださるのです。
 一心一向に阿弥陀仏に帰命するより、
 後生の一大事の解決できる道はありません。
 心の闇を破って下さる仏は、阿弥陀仏しかおられないのです」
必死な説法が続いた。

そして母君も阿弥陀仏に救われ、
浄土往生の本懐を遂げたといわれている。
母君七十二歳の時であった。

源信僧都は、母の往生に千万無量の思いで、
「我れ来たらずんば、恐らくは此のごとくならざらん。
 嗟呼、我をして行を砥(みが)かしむ者は母なり。
 母をして解脱を得しめし者は我なり。
 是の母と是の子と、互いに善友となる。
 是れ宿契なり」
と述懐されている。

母の野辺送りが済んだ僧都は
横川の草庵に帰ると、
母の往生を記念して一冊の書物を著された。
その本が今日でも有名な『往生要集』六巻である。
以後、源信僧都は『往生要集』とともに
浄土門の大先達として、後世にも多大な影響を与え、
七十六才で生涯を閉じられたのである。

「よもすがら 仏の道にいりぬれば、
   我が心にぞ たずね入りぬる」

源信僧都⑧(生死の大問題の解決)

2009年09月05日 | 七高僧
源信僧都⑧(生死の大問題の解決)

横川の草庵でも、源信の煩悶は続いた。
来る日も来る日も、ほとんど寝食を忘れて
経典やお聖教に取り組み、
後生の一大事、生死の大問題の解決を求めた。

やがて歳月は容赦なく流れ、四十歳を過ぎたころ、
中国の善導大師の著書に感銘を受け、阿弥陀仏の本願を
説かれた浄土門の仏教こそが、万人の救われる真実の道で
あることを知らされた。
そしてついに、善導大師のご指南により、
阿弥陀仏に救い摂られたのである。
後生の一大事が解決できた歓喜により、
「今度こそ母上に心から喜んでいただこう」
と早速、僧都は故郷の大和国を目指して旅立たれたのである。
ところがそのころ、源信僧都の母は年老い、
病床の身となって、明日をも知れぬ容態であった。
うわごとのように
「源信に会いたい。源信を呼んでおくれ」
と繰り返すのみであった。
そこでその旨を携えた使いが源信僧都の元へ出され、
途中で郷里へ向かう僧都に出会った。
使いの者より、母の病状を知った源信僧都は、
夜を日についで家路を急がれた。
家では母が、
「源信はまだか。まだこないのか」
とひたすら帰りを待ちわびていた。
そこへ源信僧都が、三十余年ぶりに我が家は辿り着かれた。
「母上、源信です。今帰りました」
と耳元へ口をあてて告げるられると、
「おお源信か、よく帰ってきてくれたのう。
 今生ではもう会えないかと思っていたのに、
 夢のようじゃ」
源信の姿を見て、母の顔に生気が蘇った。
三十余年、一日として我が子を忘れたことのない母であった。
呼び戻したい心を必死にこらえ、ひたすら
「後の世を渡す橋となれかし」と
念じ続けた母であった。



源信僧都⑦(すべてを捨てて修行に専心)

2009年09月05日 | 七高僧
源信僧都⑦(すべてを捨てて修行に専心)

「死ねば必ず地獄行きの迷った人に
 褒められるよりも
 なぜ、真実の仏方から褒められる
 真の仏弟子になろうとしないのです」
という母の厳しい叱声に、
迷夢が一度に覚めた思いの源信は、
以後、名利を求める心を固く戒めて、
後生の一大事解決のための修行を
はじめてたのであった。

しかし、天台の修行を重ねるに従って
知らされてきたのは、
煮ても焼いても食えないような
浅ましい自己の本性であった。
天台の教学は、良源門下三千人の中で
他の追随を許さぬ深さを学び、読破した。
大切な聖教のほとんど暗記するほどであったが、
それでもなお自己の本心は、
後生の一大事を苦にするのでもなく、
真剣にその解決を求めようと焦っている
のでもなかった。
あして、捨てたはずの名利の心は、
厳しい修行をすれば
その厳しさを自惚れ、顕密の教法を極めれば

その学問の深さを密かに誇っているという有り様で、
なお止むことがなかった。
それでいて外見は名利を捨てて、
煩悩を超越しているような素振りで
巧妙に他人の目を欺いている、
まさしく偽善の塊であった。
源信僧都は求めれば求めるほど、
この自己の本心に驚かずにおれなかった。
無常迅速のわが身、
悪業煩悩の自己、
理においては充分すぎるほど分かっていながら、
後生の一大事に驚く心は少しも見当たらない。
愚かというか、阿呆というか、
迫りくる一大事に対して、
仏法を聞こうという心を金輪際持ち合わせず、
その悪をまた懴悔する心すらない。
こうなればただの悪人ではない、
極重の悪人というべきか。
顕密の教法は道心堅固な聖者には進み得ても、
自分のような頑魯の者にはとても達せられない。
頑魯の者とは頑固で愚かな者、源信は
自己の姿に驚かれたのだ。
ならば、どうすればよいのか。
ついに源信は、叡山北方の森厳たる谷間の地
横川の草庵に籠もって、
この極重悪人のなお救われる道を求めるに至ったのである。


源信僧都⑥(母の手紙)

2009年09月04日 | 七高僧
源信僧都⑥(母の手紙)

母からの歌は道を踏みはずした源信を
悲しんでいるのであった。
母君は歌に続いて、
次のように手紙を記している。

「山へ登らせ給いてより後は、
 明けても暮れても床しさ心を砕きつれども、
 貴き動人となし奉る嬉しさとおもいしに、
 内裏(天皇)の交わりをなし、
 官位進み、紫甲青甲に衣の色をかえ、
 君に向かい奉り、御経讃し、
 お布施の物をとり給い候ほどの、
 名聞利養の聖となりそこね給う口惜しさよ。
 唯命を限りに樹下石上の住居草衣木食に
 身をやつしては、 木を惟り(こり)
 落葉を拾い、偏に後世たすからんとし給えとて
 拵(こしら)えたてしに、
 再び栄えて王宮の交わりをなし、
 官位階品さまざまの袈裟に出世をかざり、
 名聞の為に説法し、利養の為の御布施、
 更に出離の御動作にあらず、
 唯輪廻の御身となり給うぞや。
 唯遇いがたき優曇華(うどんげ)の
 仏教にあいぬれば、
 思い入りて後世たすかり給うべきに、
 悲しくも一旦の名利にほだされ給うこと、
 愚なる中の愚なること、殊に惜しき次第、
 あさましく候え、
 之を面目と思い給うは賎しき迷なるべし、
 夢の世に同じ迷にほだされたる人々に
 名を知られて何にかはせん。
 永き後に悟りを極めて仏の御前に
 名をあけ給えかし」

源信僧都は、母の鉄骨の慈悲の教訓に、翻然として
自らの非を悟り、たちどころに、天皇よりの褒美の品々を
惜しげもなく焼却してしまった。
さらに、僧都という位も返上して、決意新たに
後生の一大事の解決に取り組んだのである。



源信僧都⑤(世渡る僧となるぞ悲しき)

2009年09月03日 | 七高僧

村上天皇は、あまりに年若い源信の豊かな才覚と
堂々たる弁舌に感嘆せずにおれなかった。
説法が終わった時、村上天皇は、
「見ればまだ若いが、そなたは何歳か」
と尋ね、十五才との答えに大いに驚嘆した。
天皇は褒美として、七重の御衣、
金銀で飾られた香炉箱、その外多くの物を与え、
また僧侶として栄誉ある「僧都」の位を
与えたのである。

一躍、僧都となり、天下に名声を博した
源信の喜び・得意は察するに余りある。
母思いの源信は早速、事の始終を文書に認め、
天皇よりの褒美の品々とともに
郷里に待つ母の元へ送った。
ところがしばらくして、
荷物がそのまま突き返されてくる。

添えられた母の手紙は、以外な文面であった。

“後の世を渡す橋とぞ思いしに
     世渡る僧となるぞ悲しき”

という冒頭の歌を見た時、源信はとっさに母の言わんと
する意味が分かった。

「私がかわいいお前を比叡山に送り、
 仏教を学ばせているのは、
 ただお前に、『後の世を渡す橋』と
 なってもらいたかったからです。
 後生の一大事の解決を万人に伝える僧侶に
 なってほしかったのです。
 それを忘れてお前は、何と悲しく浅ましい坊主に
 なってしまったことか。
 天皇に褒められ、仏法を名利のための道具と
 してしまっているではないですか。
 天皇とて地獄行きの迷いの衆生、
 そんな者に褒めれて有頂天になっているお前も
 畢竟迷っているのです。
 どうして仏に褒められる身となろうとしないのですか」