歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

法然上人②(父の遺言)

2009年09月25日 | 七高僧
法然上人②(父の遺言)

法然上人は長承二年(1133年)に
美作国(今の岡山県)稲岡庄の武士、
漆間時国(うるまときくに)の子として生まれられた。

幼名は勢至丸と名づけられたが、
それは阿弥陀仏の脇士の二菩薩、
観音菩薩(慈悲の象徴)
勢至菩薩(智慧の象徴)
のうちの勢至菩薩から
名づけられたものであった。

勢至丸はその名のごとく、
幼少のころより極めて賢い子供で
あったと伝えられていた。

勢至丸9才の時、その生涯を
決する大事件が起こった。
このころ、時国の所領にほど近い所に、
源定明(みなもとのさだあき)
という武者があった。
ふとしたことから時国に大層の恨みを抱き、
ある夜半、大勢の手下とともに、
時国の館を襲ったのだ。

不意の出来事に時国は一人、奮戦したが、
何といっても多勢に無勢、
たちまち斬り伏せられてしまった。
騒ぎに目を覚ました勢至丸が
時国の寝所に行ってみると、
既に賊どもの姿はなく、
体の各所に致命傷を受けた時国が
虫の息で横たわっていたのである。

「おとうさん、さぞかし無念でございましょう。
武士が互いに一騎討ちをして
武芸つたなく敗れたのであればともかく、
 寝首をかきに来るとは何たる卑怯な賊どもでしょう。
 しかし、お父さん、
敵は勢至丸が成長した暁には
 必ず取ってご覧に入れます。」
勢至丸はけなげに、臨終の父に敵討ちを誓った。

聞いた時国、
「勢至丸よ、敵討ちの志は嬉しいが、
 それは父の望むところではない。
 私の死は、私自身の前世の業縁によるのだ。
 もし、そなたの敵討ちが成就したとしても、
 敵の子は次に、そなたを敵と狙って、
 幾世代にもわたり、争いは絶えないであろう。
 愚かなことだ。
 もし、父のことを思ってくれるのなら、
 出家して日本一の僧侶となり、
 父の菩提を弔ってくれ。
 これがそなたへの最後の望みだ」
と言いつつ息絶えた。

時国の遺言は勢至丸の心の中に深く刻み込まれた。
勢至丸はそれに従い、出家を決意する。