バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

「輝クロニクル第一期展」パンフレットより

2024-01-11 15:41:15 | ギャラリー輝
1/13から始まる、ギャラリー輝の企画展「輝クロニクル第一期展」パンフレットを作りました。
企画展の趣旨と展示作品のうち大作の解説をで構成されています。

パンフレットより企画展のご案内を転載いたします。




 池田輝は生前、「俺の絵はどうするだ。焚き付けにでもするだか」と私に問いました。じっとのぞき込んだ父の目は鋭く、その答えを見つめていました。「まさか」と応えるのが精一杯だった私はその時から大きな課題を背負いました。今も、あの時の射るような父の目と無念の情が私を突き動かし続けます。
 倉庫に詰め込まれた作品の数々の記録を取ることに3年かけ、2021年にギャラリー輝をリニューアルオープンし現在に至ります。
 ギャラリーや美術館の体は取っていますが、展示の専門知識はありません。毎度思考錯誤、四苦八苦で何とか展示を続けています。作家や作品への解釈途上につき、当初展示を躊躇していた際、「わかっているところから展示していけば良いよ。間違っていたら訂正すればいいんだから」と優しく背中を押してくれる人がいました。その言葉に甘え、今わかっていることを精一杯表現しております。

-上田クロニクル展-と合わせて展示
 
 上田市立美術館と梅野記念絵画館にて開催される上田クロニクル-上田・小県洋画史100年の系譜展と同時開催いたします。
 上田クロニクル展では、池田輝の鹿苑会時代の作品、初期から春陽会会員推挙(1973年)までの4点が展示されます。この展示を機会に当館においても、池田輝の初期の制作を更に深くご紹介いたします。
[上田市立美術館にて展示]
①裸婦 1957年25歳 P15
②馬に乗る 1973年41歳 F60
③一人 1974年42歳 F80 春陽会会員推挙
[梅野記念絵画館にて展示]
④遇話 1968年36歳 春陽会研究賞、鹿苑会岡賞
 この企画展に触発され、改めて作品を制作順に紐解き、さらにその時代背景等を重ね合わせることで、画業と生き様を深く掘り下げることができました。この企画展をきっかけに、今年91歳になった母から若き頃の父の様子を聞き出すことができたことも大きな収穫です。母の様子から、断片的に残る記憶がリアリティを持ってつながり、作品一つ一つに父の姿を重ねることができました。

デビュー期のキーワードは『自由』

「俺に自由に絵を描かせろ」

 随分乱暴な言葉ですが、養子に来る際、母に言い放ったそうです。母曰く、当時は戦後で男が少なく、ましてや養子にやって来る父が「威張っていて当然」な時代だったそうです。そ れまで貧しく画材が買えず自由に絵が描けなかったが、教員となり結婚し商店を営む家に婿養子にやって来た父は、給料は全て画材に突き込むほどの勢いだったそうです。要するに絵を描く自由を手に入れたのです。母曰く、「まるで好きなことをしに来たみたいだった」。借家の和室の一角、4畳ほどの空間を畳を上げてアトリエとし、十分なスペースとは言えないまでも夢中になって自由に描き始めました。
生涯の制作を紐解くと3つのステージに分けられます。
第1期 初期から春陽会準会員となるまで
第2期 春陽会準会員後から教員を退職するまで
第3期 教員退職後から画業を閉じるまで
 今回の展示は第一期展です。
 鹿苑会入会、そして春陽会入選、春陽会準会員推挙までおよび水彩画を含めた大作10点、小品24点を展示しております。(「馬上の人」は常設展示)
 絵を描く自由を得た作家は、ため込んでいたイメージを手当たり次第具現化していった様子が伺えます。作品のモチーフは、近隣風景、静物など身近なものが多く、ほとばしるデビュー感が溢れています。技巧を凝らすことはなく、また画面の整理を進めず、思いのまま自由に描いています。当時から絵の具をふんだんに使い、色を重ね目指す色を作り出しています。しかし池田輝独特の赤が生まれるのはこの後のことです。

自由に絵を描き、制作への思いがほとばしる作品の数々をご覧下さい。

大晦日に蝶が舞う

2024-01-08 10:55:22 | ギャラリー輝



不思議で幻想的な光景に出くわした。
それは大晦日の晩、皆が揃って乾杯しようという時に、突然部屋の中をモンシロチョウが舞ったのだ。
皆が歓声を上げる中、並べる料理の上を、そして部屋にいる7人の頭上をひらひらと舞い続けた。

「チョウは亡くなった人の使いだ」と何人かが言った。
スピリチュアル得意な私なのに、それは初耳だった。何よりスピに無頓着の夫までが言うから驚いた。

上田市立美術館と梅野記念絵画館にて、上田クロニクル展が開催される。その展覧会に父の若き頃の絵が4点展示される。
学芸員の方と連絡取り合ううちに、企画展の作り方、作品解釈の仕方など展示の神髄に触れることができた。それを参考に池田輝作品の再考査をした。
その結果、画業50年を3期に分け、今回上田市立美術館と梅野絵画記念館の展示と期間を合わせ、ギャラリー輝で「輝クロニクル第一期展」を開くことにした。

大晦日に一族が集合した。
年末年始を過ごしにやって来た遠方に嫁いだ娘の夫や私の夫ら、男手3人で夕刻から大作掛け替えが始まった。
小品は既に展示し終えていたが、大作は男手が最低3人必要だ。
大晦日で一族集合するこの機会に展示替えすることにしていた。
私はと言えば、前日から準備していた大晦日の料理が一段落したので、男達が力仕事をしているそのすきに企画展のパンフレット文面を打ち込んだ。

パンフレットには父の制作秘話、それも若いときの話を中心にまとめたものを載せたい。
一月ほど前から91歳になる母から少しずつ話を引き出し、そこに兄の記憶を加えることで、私の思い出話だけで作るものとは比べものにならないくらいリアリティあるストーりが作れたのだった。
この文章を添えて作品を観ると、絵を描いている父の姿が浮かんでくるようだ。
母から聞き出した話は父の暴露話が多く、これは今回の作品解釈に必要な内容だか本当に文章にして良いのか、また間違いはないのかと印刷する前に母に確認しておくことにした。

居間でこたつにあたる母に私が読んだ文章を聞いてもらう。
じっと目をつぶり、一字一句耳で校正している。
全て聞き終えると、「おまえ、文うまいね。よくこれだけまとめたね」
この話が公開されることに多少異議を唱えるかと思いきや、全く問題は無いという。それどころか、「いかに私は当時たいへんだったか」と思い出話の追加が始まった。これらが載せられて恥ずかしい思いをするのは父だけなのかも知れない。
こんなやりとりを終え、母からひとしきり褒められ、パンフレットがあらかたできたことに充実感を味わい、こたつに料理を並べ始め、展示大仕事が終わった夫達が居間に集合したその時だった。

白いチョウが舞った。

「テルさんが喜んでいるよ」と夫。

やりたい放題だった若き頃の話を公開することを父が認めたのか。
倉庫にしまいっぱなしの力作を展示したことを喜んでいるのか。
それとも、力仕事を終えた夫達をねぎらったのか。
なんだか幸せな気分に包まれた大晦日だった。

先を照らす明かりが欲しい

2023-10-11 15:24:37 | ギャラリー輝
先日、上田で長く営業していた画材店「遊美」さんの店主が亡くなった。
困ったときの遊美さんで,頼りきっていた方だけに陳腐な言い方だが,本当に心にポッカリ穴が空いている。

あれは中学生の頃だっただろうか。
上田の海野町に大きな文具屋さんがあり、そこは画材も豊富で度々父に連れられて行った。
ある時店の奥の部屋から出てきた青年を「この人にいつもお世話になっているんだよ」と紹介された。それが先の店主、遊美さんだった。
その後独立し,画材専門店を開業されたのだった。

父は上田に用事があると,いや別に用事がなくても絵を描く合間に午後になると上田に出かけていたが,その都度遊美さんに立ち寄っていた。
店内をぐいぐい奥まで進みまるで我が家のようにくつろぎ、コーヒーをご馳走になっていた。
そこは芸術家のたまり場で,そのテーブルにはいつも誰かしら知り合いが居て,居心地の良い空間だったのだろう。
父が佐久で個展を開く際、プロフィールを作るために遊美さんでワープロ借りることになった。ワープロの機種により操作が異なる。書式設定だの修正だのと戸惑いながらカチャカチャ打っていると、父は「おい、まだか?」なんて言いながら奥で仲間と談笑していた。遊美さんはその間に立ち,時折様子を見にやって来た。その空気感は遊美さん独特。

父から色々聞いていたらしく,遊美さんは私のことをよく知っていた。
そして私のことを「おねえちゃん」と呼んでいた。
いつ頃までそう呼ばれていたのか。
いつの間にか「おねえちゃん」とは呼ばれず、かといってどう呼ばれていたのか思い出せない。ねぇとか、あのでもなく、それで会話が成り立つフワッとした空気でつながることができていた。いつだったか呼び名が必要になったときに、おねえまで言いかけてやめたことがあった。
ゆるりと会話しながら、そしてぴしゃりと色々アドバイスしていただいていた。

聞きたいことがあったので、電話した。店の固定が出ない。携帯も出ない。なんだか無性に心配になり店舗に駆けつけると「調度今絵を運んで帰ってきたところだよ。電話鳴ってるの知ってたけど,出られなかった」
トラックで運送するほどお元気なことにほっとしたが,なんだかとても疲れている様子だった。
その後額選びしてもらい,受取に行き、それが最期だった。

絵に合わせて額を選んでもらうことはもうできない。
輝さんならいつもこうしたよ、とさりげなく道を照らしてもらうこともできない。
おねえちゃん、と呼んでもらうことなんかもうできない。

おまえはそれでいいだか

2023-09-01 21:22:44 | ギャラリー輝
9/1 防災の日。そして今日から学校始まるという日。
私は今日の最高気温37.4度を記録した上田市にいる。
そんなに暑かったか?と思うのは,新しい家は窓閉めてエアコンつければ家中涼しい。
デイサービスから帰ってきた母から、「今日は上田が一番暑かったんだって」って教えられて知った次第。
陽が落ち,窓を開けると秋を感じさせる風が吹き抜ける。
温泉入ってさっぱりして、ジージーって虫の声や,別所線が到着する音を聞きながら、なんともゆったりと今日一日を反芻するのである。

今日は父の100号サイズの作品が念願のお嫁入りした日。
小説は何度か読むたびに深みが増すように,絵画も毎回が新しい出会いである。お嫁入りするのはなぜか毎回初見と思わせるインパクトのある作品。

寄贈した作品は人物画。男女がまっすぐこちらを見つめる。その眼光鋭く,ストイックに制作していた作者の気魂がこちらを覗きこんでくる。いつも「おまえはそれでいいだか」と問われている感じがする。
寄贈先の会長は「わたしは柔らかい表情だと思いましたよ」と。
私もまだまだだ。

この作品を寄贈する思いなどプレスインタビュー受け,地元のキノコ料理を堪能し,父の仏壇に寄贈を報告し、水不足で元気なくなっていたエントランスの樹木に水をやり、さて今日はつつがなく一日が終わろうとしている時。

微妙にずっと心に引っかかっていてそっと蓋をしていたことを、「これはどういうことですか?」と突きつけられた。
父の作品を整理し紐解き、画集作り、そして美術館もどきを作り,展示し,ファイリングしとガシガシやってきたが、ここまで判らないことの連続だった。絵のサイズの表記も知らない。額の付け方も知らない芸術ド素人が。その場で考え読み解き,覚えて,自己流で整理して押っつけ作業でここまでやってきた。
そうして世に出した作家に関する情報が、後になって間違っていたことに気づくのである。その気づきの連続なのである。
一度出した情報は一人歩きしてしまう。

作品情報が両手からあふれ全てひっくり返しそうになっている時に、作品整理も解釈も途上だからまだ展示できないのです、と父の知人に弱音を吐いたことがある。そのとき相談した方は、「判っているところから出せばいいよ。間違っていたら訂正すればいいよ」と言って下さった。その言葉に背中を押され,2021年秋に堂々と、ジャーンと池田輝の美術館をオープンしたのだった。

少し時間に余裕ができて,資料整理を進めると作品の制作年の間違いを発見した。
ということはそれまでの自分がつけていた作品の解釈が嘘になってしまう。
そこが今回の指摘だった。
痛い。
大発見!のノリで性急にアウトプットし後に検証不足に気づき、反省。
なんか自分の人生、いつもこんなことの連続だ。
考えるよりまず行動。思いついたらまず行動。
アイデアが浮かぶと形にしたくなる。とにかくすぐやってみたくなる。

この癖は気をつけようと、今後へのチャンスだったと言うことにして今日はもうこの辺にしよう。
思い返せば、そこまで真剣に作家、作品と向かいあい、今一緒に首をひねっている人がいるという事実が暖かい。

外ではジッジッと虫の声。
別所線の発車ベルが聞こえる。

あさっては稲刈りだ。


私の財産

2023-06-16 18:13:54 | ギャラリー輝
画家である父の絵をもっと知りたいと思った。
若い頃はどんな絵を描いていたのか。
父の制作を紐解くために倉庫の手前から1点ずつ作品を出しては眺めた。
広げて写真を撮り,記録を残す。
大変根気のいる作業で、千葉から長野の実家に帰省した際、週末や春休みや夏休みにコツコツ作業し、3年かかった。
大作で80点ほど。小品キャンパスは800点ほど。紙の作品はまだ手を付けていない。
小品整理は難航した。
記録どう取るのか。画像は。取り終えた作品はどう並べるか。整理初期は試行錯誤の連続で,途中まで行ってはやり直しの繰り返し。
一つ一つこなせばいつか終わると自分に言い聞かせ,膨大な作業に何度もくじけ、投げ出したくなりながらも最後までやり遂げることができたのは、それは作品の持つ力のお陰だった。
もう無理、こんなことやめようと思う頃、気を発する作品に出会う。

この情景。
この色。
そして、この構図。
自分の好み通りの絵が出てくるのだった。
「いい、この絵、すごい」
整理作業に挫折しそうになるタイミングに登場する作品。
この絵はいつか必ず展示したいと思わせる作品。

小学生の頃、夏休みの自由研究に取りかかった工作を途中で投げ出そうとした時、父は言った。
「おまえはそういうやつだったか」
作品整理の最中、ずっとそんなことを後ろで言われ続けた気がする。
そして3年かけて全作品を記録しデータベースを作った。
父の全作品を把握し整理できた。この結果は私の大きな財産となった。
父の制作を全て掴んだこと。いつでも記録が引き出せること。自分の心に詰め込むことができたこと。
この事実が財産である。

「いい、この絵、すごい」と思わせ,最後まで整理する力となった作品のうち現在所蔵するものを集めて、館長お気に入り小品集を作ってみた。
(実は好きな作品ほど手放しているので究極のお気に入りは含まれないが)
感動に任せると多くなりすぎるからと絞り込んで、それでもその数120点あまり。
背中を押した感動の瞬間が蘇る作品集となった。
何度見てもドキドキし、口元がゆるむ。




この作品集ファイルをギャラリー輝に訪れた人に見せると、
「また何か作ってみますか?」
画集にしたらどうですか、ということらしい。
誰でも見ることができるようにしたいのでギャラリー輝に閲覧用に置いた。
この作品を順次展示していこうか。
でも館内この作品ばかりではお腹一杯になるから、少しずつ展示していこう。

私の好きな浅間山

2023-03-18 14:57:54 | ギャラリー輝
ギャラリー輝の「浅間展」始まりました。
初日は雪が舞うお天気です。

ぐるりと浅間山が展示され、皆それぞれに表情が違う。
どこから描いたのか、いつ描いたのか、それぞれ異なる表情の作品を眺め、「私はこれが一番いい」「いや、私はこちら」などと皆さんそれぞれだからおもしろいですね。

私はこの「追分浅間」F8(455×380)です。




東京に向かう列車の窓から、また東京から帰省する時、見送りそして迎えてくれたのはこの浅間です。


長く伸びる浅間の稜線の向こうに、確かに存在する関東平野に憧れた子供の頃の思い。
これらを写し取った様に思える作品でもあります。

ギャラリー輝に来られたら、皆さんそれぞれの思いで「私の好きな浅間山」を選んでみてはいかがでしょうか。
そしてできたら、その理由を教えてください。
そしてお帰りにアンケート箱にホイッと入れてください。
皆さんのお好みやエピソードを伺うのが楽しみです。



今日初日トップバッターの方は、
「それはもちろん、1階のあれでしょ!」
即答でした。
F120(1940×1303)未完の浅間山。
今回展示のメインです。




池田輝の浅間展

2023-03-07 22:23:40 | ギャラリー輝
周囲をぐるりと山に囲まれた信州。遙か東方に稜線が延びる浅間山の麓だけ、ぐるりと一周する山が切れる。
その山の切れ目の先、そこは関東。
子供の頃から思っていた。
あの先に広がる向こう側。そこには新しい何もかもがあるだろうという思い。
私にとっての浅間山は、向こうとこちらを分ける稜線であった。




父にとっての浅間山は。
父は画家としての生涯50年間、浅間山を描き続けた。
父にとってのビューポイントならぬ、制作ポイントがぐるりと浅間山の周囲に点在する。
「ここから眺める浅間山が最高だ」と教えてくれたポイントがあった。
そうやって最高の浅間山を追い求めた50年間の作品。

今回ギャラリー輝で浅間展を開く。
記録を残している浅間山作品は100点あまりある。その中から40点を一挙展示する。
どちらも見ても浅間山。キャプションのタイトルも浅間山だらけ。
全部同じ山。
でも全部違う。
山に向かったときの作者の心意気、空気感、そして浅間の機嫌というのか何か山が放つ「気」がそれぞれである。

早く皆さんに見せたい。
展覧会スタートまであと10日。






春爛漫

2022-04-16 14:19:05 | ギャラリー輝
ギャラリー輝、展示替えした。
大作8点、小品51点展示し、輝の世界に思いっきり浸れる空間になった。
代表作「馬上の人」F200は当面常設展示とするので、今回の展示替えで大作は新しく7点出たことになる。
こうやって1年に一度このペースで展示替えしたならば、10年で所蔵の大作が1回転することになる。
フーって感じ。

大作はすべて春陽展に出品したもの。
春陽展とはその名の通り、春の展覧会。
東京の展示を皮切りに全国何カ所か回る。東京展は以前はゴールデンウィーク中だった。最近は少し前倒しになり今年だったら4/20から5/2の開催。
いつも大体この頃展示なので、出品は3月下旬から4月上旬あたり。

出品のその日まで、ギリギリまで根を詰めて描き、搬出トラックに乗せ肩の荷を下ろすのは春先。
ちょうど今。
だから、今展示している大作の全ては、今と同じ時期に描き上げたことになる。
信州の3月はまだ凍てつく日が続き、そんな中でも春の訪れが感じられる日があり、公立の学校は卒業式を終える。
そんな空気の中で描き上げた作品たち。

展示替えオープンし並んだ8点に、春の兆しが感じられるのはそのせいか!などと改めて気づいた今日この頃。

春爛漫、作品No.60「奏でる」F100 1973年 41歳の時の作品


ギャラリー輝 春の展示替え

2022-03-28 15:23:31 | ギャラリー輝
 昨秋リニューアルオープンしたギャラリー輝、4月に展示替えします。
 大作8点、小品30点展示予定です。



 最期の作品となった「座す女」(未完) S80 2005年 73歳

 この作品は父が至極元気でスケッチ旅行だ絵画教室だのと走り回っていた時に描き始めたように記憶しています。
 久しぶりに帰省した際、「おい、写真撮るからそこに座ってくりや」
と言われ、アトリエのキャンバスの前に用意された椅子に座ると、手はこうやって膝の上に乗せろ、足は斜めに流せだのとポーズを指定され、あげくにファインダーを覗きながら。
「おいも老けたな」
と言ったのです。
だからこの作品、モデルは私です。

それから数年後。
父は脳梗塞で倒れ、おまけに癌を患い、闘病生活が始まりました。
体に麻痺が残りながらも制作を続けたものの、「絵を描くと頭がキーンと痛くなる」のでした。一番酷使してきた造形を司る脳がやられたようでした。
画家はのんびり生きているから長生きするものだと思っていました。恐らく99歳まではいけると。
父亡き後作品や資料を整理し、いかに制作と格闘してきた人生だったのかを知りました。万年受験生として、自分との戦いを続けていたのでした。
ギャラリー輝リニューアルオープンするにあたり、父の生き様を調べれば調べるほど、知らなかったもう一つの父の側面を知るようになりました。
それは教師としての父の姿です。
それはまた次の機会にまとめます。

そうして体に麻痺が残りながら、入退院を繰り返しながら画業に専念する信州の洋画家池田輝の生き様を、地元ケーブルテレビがドキュメンタリー番組にして収めることになりました。
作品を完成させるまでの道のりを追う形で。
その作品が「座す女」です。

一筆一筆じっくり考えながら色を置く姿。
筆を持ちながら画業について語る姿。
そして制作半ばで筆を置く姿。
それらがつぶさにドキュメンタリーに残され、だからこそこの作品はいつまでも記憶が薄れず、美化もされず、目の前に残り続けます。
そんな重たいものを一杯背負っているので、ギャラリー輝リニューアルオープンには展示しませんでした。

父が精魂込めた作品は倉庫に多数眠っています。
それを一つ一つ順番に外に出していくのが私の使命と思っています。
あえて最初の展示から外した最期の作品を、思うことあって2022年春は展示することにしました。

「座す女」は未完の作です。
ある夜父は電話してきました。
もうこれ以上描くことができないから、撮影を終わりにしたいと宣言するのだと。

父はそれから程なくして亡くなりました。

母が最期の一筆を目撃していました。
アトリエで絵の前に立ち、親指に赤い絵の具をべったり付けると、「これでおしまい」と言って絵の具を女の鼻にギュッと押しつけたそうです。
最期の一筆が鼻の赤です。

「逃げるな。しっかり見定めよ」と言ってる父の声が聞こえてきます。

2022年4月16日
ギャラリー輝、展示替えにて。
是非ご覧いただき、赤い絵の具の気を一緒に受け止めて下さい。



9/18 池田輝の美術館 OPEN!

2021-08-22 15:35:12 | ギャラリー輝
池田輝の美術館としてリスタートする、ギャラリー輝のオープン準備を夏期講習休み期間の1週間で大慌てで済ませた。
1ヶ月前、オープン案内状など書類の類いを地元で友人に相談し、自宅に舞い戻り作成し、印刷発注し、送付リスト作成し、と一体いつ何をやったかわからなくなるくらい色々やり。
夏期講習第3クール終えた翌朝、出来上がったそれら全てを車に詰め込み、家を出る前に抗原検査済ませ、そこから6日間長野に滞在しオープン最終準備としてやるべきことは全てやった、と思う。
長野滞在の6日間こそ、いつ何をやったか思い出せないくらい作業詰め込んで色々やった。






この美術館作りは全てにおいて制限時間付きだった。
プランニングが本格的に動き出した頃にコロナが始まった。
自由に往来できない中、工務店と双方初めてのオンラインによる打ち合わせやら、限られた滞在期間での一気打ち合わせなど。
常に次はいつ会えるかわからないから、「今ここにいるうちに終えましょう」だった。
今なら直接打ち合わせできるからと各業者がその日ピンポイントで打ち合わせに訪れたり、各所訪問したりの日々だった。
それは建物ができた後も同じで、外構、看板、造園、インテリア打ち合わせも限られた時間で即決で行った。

だからこそ、「これでいいのか」「何か間違ったことやっているのではないか」という一抹の不安がつきまとった。
最終準備としてオープン案内を各所に届けたり郵送したり、動画作ったり、もうオープンに向けてテープが切られたにもかかわらず、相変わらず足を止めたい気分になる。
落ち着いてゆっくりことを進めるべきなのに、いつも時間に追われている。
そこにきて毎日更新される信じられないようなコロナの数値。
この数字を見る度に心が沈む。

夏期講習第4クールスタートするので自宅に戻った今朝突然何かわからないが不安の波が押し寄せてきた。

自分一人で抱えることができない小心者の私は、すぐさま助け船を出すと
「どうした、どうした?」と。
そして
「いつでも手伝うよ」と言われ安心に包まれるのだった。

オープン案内を送った方から、あちらこちらから連絡が入り、「一人じゃない。なんとかなる」という上向きの気持ちに変わるのだった。

実質オープンまであと一月ある。
にもかかわらずやるべきことは全てやってある。
夏休みの宿題を残りの3日間で怒濤のごとくやるタイプの自分が、これほどまでに前倒しで事を進めることができたのだから自分で自分をほめちゃおう。
コロナ騒動の最中で作業時間制限付きだったからこそ、こうやって一気にできたのかもしれない。
そういえば自宅建てるときもそうだった。
工務店にいつまでに間取り考えるようにと急かされたから決めることができた。
あの時と同じだと思えば、そんなに間違っていないとも思える。

あとはやるだけやったのだから、オープン後皆さんが訪れるのをゆったり待つ日を楽しみたい。
信州のお気に入りの風景にブランを入れ込んだ絵を描きながら、訪れる人を待つ。
その横に友がいたら尚いいね。




北大ポプラ並木

2021-08-08 18:26:29 | ギャラリー輝
オリンピックマラソンを観戦。
ことのほか北海道は暑い!ということだけど、東京でやっていたら台風と重なったのでこれはこれでよかったかも。
などと思いながら観戦していると、ランナーは北海道大学校内へ入っていった。

ポプラ並木を走る。

父の絵に「北大ポプラ並木」という絵がある。
1960年代。
父が結婚して間もない頃、給料が振り込みではなく封筒で渡されていた頃。
勤務していた中学校が夏休みの月末、給料を受け取りに学校に行きその足で給料袋を持って北海道スケッチ旅行に出かけたという武勇伝を残している。
「お金がなくなったから帰ってきた」と夏の終わりに帰宅したらしい。

そこでどんな絵を描いたのか。
わかっているのはこの1枚のみ。

さすがに家族に悪いと思ったのか,兄と私に豪勢な土産を買ってきた。
自分には空気を入れて膨らませる巨大なバンビだった。またがり居間でピョンピョン飛び跳ねて遊んだ記憶がうっすらとある。
兄にはダダダダダッと打てる機関銃おもちゃ。
兄はすぐにそれを持って北向観音境内で遊び,置き忘れ、紛失したというエピソード付き。

こういう武勇伝は母にすれば隠しておきたいことらしいけど、今のうちに沢山聞いておきたい。


お気に入りの絵を飾る

2021-08-08 16:56:07 | ギャラリー輝
ギャラリー輝オープンに向け,準備最終段階です。
展示はもうとっくにできています。
ただココロナ禍オープンのタイミングが上手く合わず,ずるずると引き延ばしてきたけれど,もうこれ以上遅らせることもないと思えるようになりました。
父の命日に近い,9月18日にオープンします。

とはいえ、感染者急増中の今,一月後の様子でまた延期になるかもしれませんが。

オープンの案内状作成やポスター、パンフレット作りを進め,後は投函するだけ。

新築の部屋にはとりあえず生活用品がギリギリ置かれているだけで,生活感も私のお城感もない。
頻繁に通うことができないから徐々に整えるということで。
近所に東京の人の家だという素敵な建物があるけど、そちらはここ1年コロナで全く訪れることがないそうで、ずーっと雨戸が閉まったまま。
どこもそんな状態だから,何事も急がずゆっくりやります。

そんな中ふと気づいたことが。
ベッドサイドの真っ白な壁に,あの絵を飾ろう!

部屋のイメージに合うお気に入りの絵があったはず。
パソコンデータから画像探し出し,倉庫で探しあて、ありました!

自分の部屋にお気に入りの絵を飾ろう。
まずはそこから。

 


他人目線で要再吟味!

2021-06-23 15:30:03 | ギャラリー輝
自分がわかっていることを、他人に上手く伝えるのって難しい。
わかりすぎているからこそ、肝心なところを省略してしまう。

父、池田輝の作品を展示するギャラリー輝をリニューアルオープンにむけ準備している先日、2日間だけトライアルオープンした。
ほぼ準備は終わっているけれど、コロナ禍まだオープンにはタイミングが合わない。
感染症対策どこまでやれば万全なのかも自信ない。
だからそれらのトライアルを含め限定二日間オープンであった。







折しも別所線100周年イベントで、駅ピアノが別所温泉駅に置かれていた。
皆思い思いに弾いているから、いつになく駅周辺は人気があり久しぶりの観光地モードになっている。



その中6/19は半端なく人が多かった。
何だろう。皆ぞろぞろと駅に向かっている。電車を利用するのではなく、車を駐車場に置いてあるいは無料バスでやって来て駅を目指している風。
駆け足で向かう人までいる。
ブラン連れて駅に様子を見に行くと、そこは人、人、人。
雨にもかかわらず、駅舎の周りにぶわっと人だかりができている。
なんでもこれから、「ハラミちゃん」という人のコンサートがあるとのこと。
ふーん、って。
後で知ったけど、ハラミちゃんは超人気とのこと。
そんなこと知らないから、そそくさとギャラリーに戻る。



このギャラリー作るにあたり、池田輝の作品を全て目を通し、写真やメモも片っ端から確認した。
その量が多すぎて頭ですら整理できていないのだから、整然とアウトプットするまでに至らず、さりとて今わかっていることだけでもまとめて展示しようと思う。
完全理解を待っていたら、いつ完成するかわからないから。

自分としては作品展示はストーリーを追っていきたい。しかしそうもいかず、展示スペースや作品の色、形で組み合わせるから関連付けたい作品が離れてしまっている。
これは気になる。
恐らくわかりづらいし、何度も行ったり来たりして鑑賞するか、通り過ぎて理解不十分で帰られるのか。
そんな不都合補完すべく作品解説をできるだけ丁寧に作った。つもりだった。



来館した方の感想に愕然とした。
「これは一人の人の作品ですか?」
そこ!
そうか、そうだよね。
半世紀にわたる作品を時系列で展示したわけではないから、作風の変遷が多数の作家によるものと勘違いされたんだ。
あまりにも当たり前のことを伝えていなかったなんて。
ハラミちゃん、だれそれ?以上でしょ。


作家が生前整理していた印象的写真をパネルにまとめた。これも解説不足だね。

伝えるって難しい。
観て感じてね、じゃダメです。

何からやりたいか、かな?

2021-05-23 16:38:15 | ギャラリー輝
ギャラリー輝の外構工事ようやく始まりました。
しかし現地に確認に行かれないまま。
ここは業者にお任せするしかないのですが…。

一応状況見ながらですが、9月オープンで、と思っています。
その間にやるべきことを一つずつ整理していきます。

まずは今展示している大作8点、小作品22点、関連資料を網羅した図録作りたい。
作品リストを使いやすく整理したい。
徐々にSNSに作品をアップしていきたい。
本当は先にやるべきなんだけど…、ホームページ完成させたい。
(どうも良くわからないことは優先順位に関係なく後回しになってしまう)
ギャラリーリニューアルオープンへの思い(手記)を完成させたい。
「馬上の人」を入れたポストカードセット作りたい。
倉庫の作品をいったん全て外に出して整理したい。
兄の作品整理も始めたい。(将来的に親子展開くために)
前庭の植栽したい。

どれもこれも直接現地いかなければできないことばかり、ではない。
ここに居てもできることがある。でも締め切り遠いからいまいちダッシュかからない。これはいつもの悪い癖。
ボーッとする時間もったいないから、何か進めたいのにエンジンかからない。。

何からやるべきか。
 だとちょっと違う。自分に無理がかかる。
何からやれるか。
 これも義務感が漂う。
「何からやりたいか」
 が正解だと思う。

うーん、でも今日は朝からずーっとバネやっていたから、まずは庭でブランと遊びたい。

東側に浅間山見えるかな?

2020-12-07 14:31:23 | ギャラリー輝
今日はギャラリー輝、棟上げでした。
本来なら前日に帰省し、棟上げを祝い、大工さん達に振る舞いする日でしたが、「勝負の3週間」に勝負をかけ、帰省を自粛しました。

現地から営業さんが逐次画像を送って下さいます。
朝からずーっとそわそわしています。

図面で確認して、東側隣家とすっぽり重なるので、東側の眺望は無理とはわかっていたけど、それでももしかしたら2階の窓の一つだけでも浅間山に向かって隣家すき間を抜けるかも?と期待していましたが。
棟上げ写真から判断すると、やはり東側はすっぽり隣家と重なりますね。

でも、新しい発見!

前面道路からギャラリー入り口までのアプローチ部分から、障害物なくまっすぐ浅間に視界が繋がるように見えますね。

見えなきゃ見えないで、それはそれで良いとはいうものの、もしかしたら前庭から見える?という希望を発見。
年末帰省の折、自分の目で時確かめよう。
がぜん、アプローチ計画に熱が入る