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バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 30 最終日 パリを発つ

2025-07-18 18:00:44 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月10日(木)晴れ

今日でヨーロッパともさらばだ。
朝起きて帰宅の準備に大わらわだ。
宿を10時に立つ。ホテルの前で記念写真を撮った。(ここには)二度と来ることはないだろうと思った。


パリ シテ島のホテル

電車で空港へ行く。空港には11時30分に着いたが、途中道に迷って苦労した。
空港には日本人ツアー旅行の人達がたくさんいて、もう日本に着いた気分になる。
免税の洋酒を何本か買い込んだ。

帰路はアンカレッジ、ソウル、成田経由で往路と同じく大韓航空機だった。
アンカレッジは夜10時だというのに真昼間だ。しかし太陽のない世界で幻想的だった。またアラスカの北極雪原の上を通過したときは不気味さに襲われた。




成田には夜の八時半に到着した荷物のさばき(受け取り、チェック)に時間がかかった。

高瀬君が車で迎えに来てくれていた。
空港を後にしたのは9時半近かった。
麻美の下宿近くの食堂に立ち寄って夕食を取った。日本酒、寿司が大変美味しかった。
部屋に入ったとき、12時近かった。
無事帰れてホッとした。


【追記】
地下鉄を降り空港行きのバスに乗る際に、地下鉄出口を間違えたためかなり歩くことになった。
そういえば地下鉄を降りたとき、ホームで黒人が何か大声で叫んでいた。
地図を見ながら夢中で歩いていたので、聞き取れなかった。
地上に出るとビルの建ち並ぶ交差点に出た。空港行きのバスは見当たらない。
さっきホームであの人は「空港行くならこっちだ!」と叫んでいたと気づいた。
アンカレッジでトランジットした。
待ち時間暇なので外を眺めに屋上に出た。凍えるような寒さの中、先客が一人だけいた。
フェンスに手をかけこちらをチラチラ見ていた。
山城新伍さんだった。
「おい、女子大生」って声かけたそうだった(と思う)。
こちらから挨拶すれば良かったけど一般人に声かけられても迷惑かと思い、寒くて長居はできずロビーに引き返した。

日本に戻ってきて程なくして私は病気になり、緊急手術することになった。
序盤にスイスで体調崩したのは病気が起因していたと思う。
よく何もなく帰国できたと、悪運の強さに我ながら感心した。
父をはじめ家族も周囲の皆にも同様に言われた。
埼玉の病院に入院中、父が電車を乗り継いで見舞いに来た。
その帰路、テロ騒ぎで電車が止まり、混乱する在来線を乗り継ぎ1日かけて上田に戻ったそうだ。
父曰く、「ヨーロッパ行った後で慣れているから、何でもなかった。平気だった」

_________________________________

こうして”無事に帰れて”が締めの言葉になるほど、スリリングな二人旅でした。
旅の道中、そして帰国後にもスケッチブックに克明に残していた父の旅行記をこうして読み解き、リライトしながらついにようやく行程最終日を迎えました。
このブログのほとんどはギャラリー輝滞在中にアップしています。
記事に登場する父の絵、実物を観ながらの作業です。

日記を読み解き、当時の父の気持ちを知り、「もっとこうすればよかった」と反省と後悔の日々です。
ギャラリー輝に訪れる父の友人、知人にそんな話をすると、
「お父さん、旅をとても喜んでいたよ」
と励まされます。

日記の最終日が近づくにつれ、名残惜しさでゆっくり歩を進めてきました。
第30話 最終日の記録をアップする前に、ブログ「バネの風」の引っ越し作業があり、さらに7月26日から始まる「輝クロニクル第3期 第二章展」の準備に追われ、最終日ブログのアップが大変遅くなってしまいました。

ようやく完成しました。
父は帰国後、アルバム持参で旅の土産話を方々で披露したそうです。
「いい旅したね」
という人がいたり、
「うわー、そんな旅したくない」
という人に分かれたそうです。
帰国後、地名や建物の正確なスペルを確認されました。作品タイトルの為でもあり、こうして日記を残す為でもあったのでしょう。

父はこの後友人と何度となく海外スケッチ旅行に出かけています。
さすがに星の無いホテル泊ではなく、父曰く「豪華なホテル」で現地ガイドが付いたりタクシー移動ありの「贅沢な旅」だったそうです。
もっと描きたいと言ったスペインを訪れ、アルルにも再訪していました。

ギャラリー輝では、今後「父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記展」を開催できればいいな、と思っています。
日程は今のところ未定です。
スケッチ画が多いので額装の準備、作品と旅行記を合わせて鑑賞していただけるようにする展示方法など、どのようにすべきか思案中です。

2026年には企画展開きたいと思っています。

その際は、皆様、是非ギャラリー輝にお越しいだければ、嬉しいです。少し恥ずかしいですが。


麻美をスケッチする




父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 29 パリ5日目街を散策

2025-06-29 11:29:22 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月9日(水) 雨のち晴れ

宿を出るとき雨に濡れたが、しばらくして止む。
今日は展覧会を見るので、モンパルナス周辺を歩く。
観光案内所に行き、展覧会や個人の美術館とザッキンの展示館を教えてもらう。


モンバルナスの広場スケッチ


セーヌ川スケッチ


ポンヌフスケッチ

近代美術館では、近代絵画の走りの連中が一部屋毎にたくさん展示してあった。
ピカソ、マチス、ブラック、カンピーリ、デュフィなどの無名の頃の作品を数多く見た観た。
しかしカメラフラッシュが使えなかった。
その後ザッキンの住まいを展示館にしている美術館に行く。
週に一度、水曜にのみ開館という風変わりな会場で、館内は自分たち二人の他、監視の人だけたっだ。
ここでもカメラフラッシュは禁じられていた。
ゴッホとも友好があって、ゴッホが写生用具を肩に背負い、小脇にキャンパスを抱えて歩く姿の大きな彫像があった。
静かな部屋で、麻美も喜んでいた。


ザッキン美術館1


ザッキン美術館ゴッホ像


ザッキン美術館庭


パリ町並み

夕方は散歩する。
いつも食事に通う通りを外れると、偶然にも個展通りに出くわした。
日本と異なり、どの会場も窓越しに観て回れる構造だ。
アメリカ絵画と異なってフランス人の仕事は色彩が柔らかいと感じた。
夜はポンピドウに行った。
表ではフランス中堅作家の展覧会が催されていて、裏に回ると講演会会場に出た。
一見シンポジウム的な雰囲気が感じられ、日本との相違を感じる。
一人は机に腰掛け、聴衆者は床に尻を降ろして聞いていた。
帰り、焼き栗を買って歩きながら食べた。美味かった。

【追記】
観光案内所では”ザッキン”の発音が通じないのか、フランス名が異なったのか難儀し、ようやく行き方を確認できた。
ザッキンの美術館は民家だった。
中には誰もいない。
私たち二人だけの展覧会みたいで開放感に包まれていった。
ゴッホの大きな彫像に感動し父と話し込んでいると、守衛がやってきて
「うるさい。しゃべってはいけない」と言う。
誰もいないのにね、等と父と話しているとまたやってきて、「シーッ」
午後は土産を買いに歩く。
サンジェルマンデプレ辺りを歩いただろうか。
父は出発前に友人知人から餞別をいただいていたので、メモを見ながら土産を見繕う。
何を買ったか記憶にないが、その中で印象に残っているのはアクセサリーショップ。1点物のペンダントを見つけた。父の友人と自分用に色違いで購入した。後に友人の方にはセンスがいいと大変喜ばれた。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 28 パリ郊外古城巡り

2025-06-28 21:25:45 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月8日(火)晴れ

昨夜は明け方まで雨だった。今日はツアーバスで郊外を回ることになっている。
朝早く出る。昨夜の雨もすっかり上がっている。
気候がガラッと変わって寒い。革のジャンパーを着ている者が多く、これがパリの今の本陽気らしい。
バスは日本語ガイドが乗車しているので、日本人客が15人で、若者が多く、新婚も二組同乗していた。一人585フラン(17550円)の一日コースであった。
ロワール地方の城を3つ見る。


パリ郊外スケッチ車窓から

シャンボール城、シュノンソー城、アンボワーズ城の3つを城を回る。
ガイドに追い立て回されてゆっくりできない一日だった。
どれも古城と周囲の風景が素晴らしくマッチしていた。
帰りは夜の8時近い。


シャンボール城スケッチ2

 シャンボール城スケッチ1


シュノンソー城スケッチ


 シュノンソー城スケッチ2


シャンポール城をデッサン 

シュノンソー城前庭


昼食レストランスケッチ


【追記】
前日に旅行代理店に行き、古城めぐりツアーを予約した。
父が肩をつついて「おい、見ろよ」と通りを指さす通りには、ショートカットでモンペ姿の日本人中年女性がいた。
ぱっと見、水前寺清子。
古城巡りツアーに参加すると、昨日の中年女性も同じバスだった。

このツアーは日本人ガイドが付くことになっているから、日本人が15人ほどいた。
水前寺清子風の他は新婚旅行カップル、美容室の研修旅行組(なぜか皆若いカップル)だった。美容師達は前日ドイツでウエラ工場見学をしてきたという。
バスのガイドはフランス語、英語、日本語の順でマイクが回るので、日本語ガイドの番が来る頃には肝心の観光名所は通り過ぎていて、仕方なくガイドは主にこの後の予定や注意事項をしゃべっていた。
昼食レストランでも日本人はレストラン一角の隅にまとめられ、給仕は常に最後。「なんだかなー」状態。
この置いてけぼり感の中で一人気を吐いたのは先の水前寺清子風。
日本人我々のテーブルには給仕はなかなか回ってこない。
もう少しパンが食べたいと言えないでいる日本人カップルの代わりに「パンのおかわり下さい」と日本人を代表して英語で注文した。
私がフランス語で注文しなくて良かったと思った。

城めぐりでは館内を皆と同行せず、バスを降りると父は庭園でスケッチしていた。
ガイドから「絵を描くなら、自分で車で回った方がいいよ」と言われた



父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 27 パリ三日目 ノートルダム寺院を訪れる

2025-06-28 12:55:06 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月7日(月)晴れ

今日は近くにあるノートルダムに9時に行く予定なので、朝食前に宿の前の植え込みの風景をチョークで描いた。

昨日までの暖かさとうって変わって震えるような寒い朝になった。
朝食の後厚着で出た。
ノートルダム寺院はシテ島内で、宿は西端だが寺院は東側にある。剛健な建物で堂々たるものだ。ステンドグラスの礼拝堂が素晴らしい。
378段の石段を登った。
パリ市街地の光景もよく見え、スケッチできた。


ノートルダムでスケッチ


ノートルダムからの眺め1

ノートルダムからの眺め2

ノートルダムからの眺め3

ノートルダム寺院

パリ風景スケッチ

その後ロダン美術館に行った。歩き疲れていて頭がボーッとしていたが、精力的なロダンの仕事を見た。地獄門の秀作を見た。これが第一の感激だ。また、碌山をこちらの頭の中に入れた見方もした。ゴッホの作品もあったのが不思議だった。彫刻でアカデミックなモノも多く、やや退屈する感もあった。
帰り、街のウインドウのぞいて歩いたのが楽しかった。
今日は日本人の多くに逢った。

【追記】
サグラダファミリアの石段を登って以来、どこでも塔に出くわすと登った。ノートルダム寺院でも同様。
有料で,北側の塔から中段まで登る。そこから先は南側の塔から登る。

昼食はサンドイッチを購入し、チュイルリー公園で食べた。
フランスパンに生ハムを挟んだサンドイッチが固いけど美味しい。
池の鯉と遊ぶ犬をしばし眺めた。
木の下でハープを弾く青年の帽子にチャリンと入れると、小さな声でmerci。


チュイルリー公園噴水

チュイルリー公園で遊ぶ犬

チュイルリー公園ハープを弾く青年

ロダン美術館は観光客に人気で、ルーブルや印象派美術館同様、たくさん日本人がいた。いきなり目の前に現れた「考える人」に圧倒され、裏から横からとじっくり見た。
庭に出ると花壇の中に先ほど見たものより小ぶりの「考える人」が転々と置かれていた。ありすぎ注意というくらいあり、どんどん感動が薄れていった。

帰路画廊通りでいくつかのギャラリーを覗いた。
どこかに「中村直人」の作品置いてあるかなと二人で探していると、店員が何を探しているのか、レクチャーしようかと話しかけてきたので、naondoはあるかと聞いたが、ないとのことだった。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 26 パリ二日目

2025-06-22 12:05:00 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月6日(日)晴れ

モンマルトルの宿は料金が高いということで、変えることになる。
シテ島の宿に電話で予約が取れる。
宿をチェックアウトする前に近くの「のみの市」を散歩した。麻美は彼に革ジャンを買ってやる予定で参上したのだが、値段が高くて手が出ず、いろいろ探り歩いて、コートを買った。

パリ、蚤の市

昼近く予約しておいた宿に行った。地名的なことはよくわからないが、有名な場所らしい。その場末の宿だった。
一つ星の看板で、7階を螺旋階段で上った屋根裏部屋に通された。麻美は気味悪がって宿主に苦情を申し出ると、親父は即座に管理人の上の階の2階の部屋を空けてくれた。
何百年もの歴史を感じるホテルでドアは二度くらい修理されている。物入れの壁板は剥がされた痕跡がある。トイレは1階登った階段の隅にあった。バスは料金制でトイレの横に並んでいた。


午後からパリ見学に入る。
まずルーブル美術館に行く。セーヌ川ふちにあり、シテ島の宿を出てすぐだった。日曜は無料とあって大変混雑していた。全館を見なかった。エジプト時代とギリシャ時代の彫刻が目にとまった。
そこを出て印象派美術館を見た。セザンヌが際立って良かった。ゴッホも良い。セザンヌは現代絵画の構築の基をなすと感じた。サントビクトワールの風景がなくて残念だが、大学の頃に知った「丘と樹木の絵」に触れたことが嬉しかった。
夜のレストランでの夕食が美味だった。


ルーブル美術館

【追記】
一人旅したときに、パリでお世話になったおばあさんに紹介された蚤の市でシルクのスカーフとコートを買った。いいもの見つけてきたとおばあさんに誉められた。裏地にグリーン系のチェック柄が洒落た、カーキ色のトレンチコート。膝くらい短めの丈だった。素敵な裏地が付いて縫製もしっかりしているから大変よいものだとの評だった。
パリジェンヌが、同じようなコートに革製の幅広ベルトもしくは大判スカーフをベルトにして、スリムジーンズを合わせていた。
帰国後パリジェンヌを真似したコーディネイトが大層受けた。今回は同じ蚤の市に行ったが、いいものが見つからなかった。スカーフも随分質が落ちていた。
そのおばあさんに、旅行中何度か電話するがつながらない。
直接アパートを訪ねることにした。
留守だった。隣室の女性が出てきて、今旅行中とのこと。「あなたは前に来た日本人だよね。何かメッセージ残す?」と言われ、彼女の部屋に通されテーブルで手紙を書き、お土産に用意してきた百人一首を託した。


この日から最終日まで泊まったホテルはシテ島にあった。
使用人に紹介された部屋は最上階の屋根裏部屋だった。
ベッドに這い上がり窓を開け「ここからのバリの景色が最高だ!安くするから、この部屋にするといいよ」とパリジャンには珍しく明るい口調でぐいぐいときた。確かに景色は最高。しかし問題はベッドが一つということ。
「2ベッドの部屋にして欲しい。私たちは親子だ!」と伝えると、ひどく驚いて、慌てて階下の家主に伝えに行き別の部屋を紹介された。
そこは大きなベッドが4つある巨大な部屋だった。どのベッド使ってもいいとのことだった。
今はいつの間にか消えてしまったが、その後しばらく10年も20年もの間、スケッチ旅行中使ったソープの香りを嗅ぐと、たちまちこの部屋の映像が蘇り、洗面台に立つ自分が浮かんだものだ。
シテ島界隈では犬を散歩する人をよく見かけた。大型犬が多いが、小柄な小太りの犬もよく見かけた。犬種はわからない。



父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 25 ついにパリに到着!

2025-06-14 16:15:04 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月5日(土) 雨のち曇り

明け方4時頃から雷鳴鳴り響き、すさまじい天候になった。雨は降っていない。朝食時には雨になった。

パリ行きだ!
アヴィニョンまで普通列車で行き、そこからフランスの新幹線TGVに乗った。
列車は45分遅れた。
途中リヨンあたりからスピードが上がり日本の新幹線よりも飛ばしているように感じられた。

パリには2時少し前に着いた。

駅は随分雑踏だ。乞食もいる。活力ある街である。
宿探しのため麻美は飛び回る。インフォメーションは満員。近くの公衆電話は壊されていて使えず。
駅より離れたところまで宿探しに歩いた。宿はモンマルトル街に見つかった。
宿に荷を下ろしユトリロで有名なサクレクール寺院を歩いた。無名画家の集まりで有名なテルトル広場にも顔を出した。

寺院の高台からはパリの街が一望できた。



アヴィニヨン発パリ行きTGV


モンマルトルのテルトル広場2


モンマルトルのテルトル広場1


サクレクール寺院

【追記】
明け方の嵐は恐ろしかった。部屋の雨戸をきっちり閉めた。木製の雨戸がガタガタ揺れた。嵐が過ぎ去るのを不安な気持ちでベッドでうつらうつらした。

おいしいものは最後に食べる派。そんな性分だからか、父が最も行きたがっているパリを最後に訪ねるルートにした。それに合わせて帰国便はパリ発にした。
それが良かったがどうかわからない。
今ならおいしいものは先に食べようと思っている。
一番おなかがすいているときに食べた方がより美味しい。とは思うもののやはり食卓では最後に取っておき、夫にさらわれるを繰り返している。

さて、最後にとっておいたパリ。北駅に到着。

東武線が浅草駅に入る瞬間が、郊外からパリ北駅に入る光景に似ている。そんな説明をすると、父は子どものように窓に張り付いてパリ到着を眺めていた。

毎回行く先々でその日のホテル確保するので、スリリングでもある。この日は比較的すんなりホテルがとれた。画家の街モンマルトルだったので、父は満足だったのではないか。
ホテル代は予算オーバーだったから、「とりあえず今日はここで一泊」ということにした。

テルトル広場には似顔絵描きの画家がたくさんいて、人だかりができていた。衆人環視の中で似顔絵の客がモデルになっている。「おいもやるか?」って、とんでもない!と思ったが、今なら恥ずかしげもなく客になれたかもしれない。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 24 アルル最終日

2025-06-01 10:01:07 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月4日(金)晴れ

今日はカマルグ行きだ。バスで小一時間南下した。原生馬といっても”さく”の中で飼育されている馬たちで期待外れであった。
海岸は波が高く荒れていた。高い波しぶきを一杯浴びた。
街には土産店が並ぶ。
近くの沼地にフラミンゴがいるが、歩いて遠いので行かなかった。見るところもないので、いったんアルルに引き返した。
午後ニームに行ってみた。大学都市で活気に満ちていた。
麻美は以前来たとき狙っておいた銅板のフライパンを土産に買った。アルルを中心とするプロバンス地方には6日間滞在した。
まだパリに行ってない。
ゴッホがパリを離れて陽の光明るいこの地方に移ったその気持ちも加わって、去りがたい気持ちだ。

カマルグの海


アルル闘牛場外壁スケッチ


アルル協会 NO.763 F6


ニーム闘牛場1


ニーム闘牛場2


ニームの公園

【追記】
アルルとカマルグとくれば、映画「フレンズ」。アルルの闘牛場とカマルグがロケ地だった。
映画「フレンズ」は年上の姉がいる幼なじみに誘われ、上田の映画館に小6の時に観に行った。満員で立ち見だった。よくわからないまま途中で映画館を出た。最後まで観たかった幼なじみは残念がっていた。皆は一様に感激していた。後に小説でも読んでみたけど、やはり感動は共感できなかった。
カマルグにいくバスの中で、父にその映画の話を少しした。特に反応はなかったので、映画の内容はあえて語らなかった。
カマルグでは期待大の野生馬にもフラミンゴにも会えず、海岸まで散歩する。海は荒れていたので人気はなく、犬連れの一家が波打ち際を散歩していた。
犬はセントバーナード。リード付けていなかった。フランスの犬は大型犬が多いが、たいていよくしつけられているので危険ではない。
しかしその犬は吠えながら、飼い主の制止を無視してこちらに突進してきた。危ない予感がした。
アルルでは犬に襲われそうになるのが2度目。東洋人が見慣れなかったのか。
この日記を文字起こししながら、当時の父の気持ちをリアルに知ることができている。
「もっと現地で絵を描きたかった。観光よりも一カ所滞在してじっくり描きたかった。」
そんな本心が今見えてくる。あの時そう言ってくれれば無理に観光などしなかったのにと歯がゆい思いをしている。
アヴィニヨンに関してはBruelさんに再会するという目的があったが、他、アルル、ニームも一度訪ねた土地だから私としては是非行きたいとは思わなかった。この後行くパリだって同様。自分としては特に見たいところ、行きたいところがあるわけではなかった。父のヨーロッパ旅行ガイドのつもりだった。もっと描きたい、とあの時言ってもらえれば、あちこち移動しなかった。
ニームでは前回来た時、街の中や公園で変な男に後を付けられ手鏡で後ろを確認しながら歩いた。アルルより大きい街で物騒な感じがした。
前回ニームの土産物屋の壁に掛けられていたフライパンが欲しかったが買わなかった。フライパンの裏面に街の景観を彫り込んだ、オブジェとしてのフライパン。土産物屋に前回同様壁に吊るされていたので、即買いした。
アルル土産の一つに”サントン人形”がある。プロバンス地方の農夫や高齢者をモデルにした民芸品だ。いくつかある土産物屋の中でひときわ目を引く店があった。そこには大量生産ではない、手作りの1点物を置いていた。前回は高くて手が出なかった品だ。帰国後もこれがずーっと欲しいと思っていた。今回も同じ店に行くと、同じ場所に前回見たような人形があった。これを買いたい、この前はお金がなくて買えなかったと父に訴えると、
「買えばいいじゃないか。俺もそっちの小さい方買うよ」
と当時日本円で30,000円と15,000円のサントン人形を買った。
以来、旅先などでいいと思ったものは、思い切ってその場で手に入れるべし、と学習した。
銅製フライパンは長いことうちのキッチンの壁でオブジェとして飾られ、サントン人形は今も大事に我が家のリビングとギャラリー輝に飾られている。

サントン人形1


サントン人形2 

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 23 フランスの犬に吠えられた

2025-05-10 13:19:43 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月3日 (木)晴れ

今日もまだストが続いていた。九時半に1本アルルに行く電車があるので、駅まで送ってもらいアルルに帰ることができた。家族が言うには、アヴィニヨンはフランスで一番物騒なところで、毎日のように人が殺されている騒ぎが報じられているとのこと。
アルルに戻って午後から写生を始めた。ゼロ号2点描いた。やっと絵の方も地道に乗ってきた感がある。
明日は野生馬のいるカマルグに行き、5日はいよいよバリに乗り込む。パリでは見物が主で描く方ができないので、油はこれが最後であろう。


アルル裏通りスケッチ

N0.540 アルル裏通り街


アルル ローヌ川

アルル ヴァンゴッホホテル


【追記】
Bruel夫妻はその日ドイツ旅行を予定していた。ストが続いていたので何度も駅に確認の電話していた。旅行前日に泊めてもらったことを知り、大いにお詫びと感謝の言葉を重ねた。
ようやくアルル行きもドイツ行きも出発できそうだとわかり、厳重な戸締まりを終え駅に送ってもらった。
アルルのホテルに戻るとホテルの息子さんが厨房から慌てて出てきた。
「夜になっても戻らない。深夜に戻るかもしれないから一晩中ホテル入り口の鍵をあけておいた」と早口に言われた。
「朝になっても帰ってきた様子がない。確かアヴィニヨンに行くと言っていた。ストで困っているはずだ」と女将さんと心配していたそうだ。そうか今晩は戻らないとホテルに電話で伝えておくべきだったのだ。
知人の家に泊めてもらったと伝えると、奥から出てきた女将さんと二人で「良かった、良かった」と喜ばれた。なんだかあちらこちらで迷惑かけたみたいだ。

この日にアルルに戻り描き上げたと思われる作品2点を添付する。
そのうちの1点。
「扉」
これについては作品にメモ書きが残されていたので、それをご紹介。記載内容からすると、この日制作の作品ではないみたいだが・・・。


□輝の作品記録から

「扉」
フランスの犬に吠えられた!
1985年、教職を退き娘と1ヶ月間のヨーロッパ一人旅をした。予定のない気ままな旅であったが、幾多の苦労やハプニングにも見舞われた。
昨日はアルル闘牛場の入り口を一日描いたので、今日は宿に近い車も通れない細い路地に入った。犬の糞が乾燥して風邪に舞い上がり、汚臭が立ちこめる通りだった。
ふと、汚れた白壁に黒緑になった鉄の扉門が目にとまった。イーゼルを後ろの壁一杯に立てかけて描いた。人通りは全くなかったが、しばらくするとイラクのフセイン大統領を思わせる風貌の男が、賭け事でもしているかの様子で扉の中に消えていった。そこでしばらく描いているうち、尿意をもよおしてきた。壁に向かい放水を始め、ひょっと二階の窓を見上げると、先ほどのフセイン風の男が窓から顔を出しているではないか。フランスでは立ち小便厳禁と聞いている。あの男が降りてきて何かするかもしれないとの思いから、急いで道具をたたみ、イーゼルにキャンバスを取り付けたまま抱えてホテルに飛び込むように戻った。この宿は3日目だったので飼育されていた犬は私になじんでいたはずなのに、本気で吠えまくられてしまった。宿の女将さんがしきりにわびていた。フランスでは犬を吠えさせることは飼い主の恥とされている。

「扉」は帰国後手を加え仕上げている。「これ、いいだろー」とアトリでから持ってきて見せられた。欲しいと言うと意外にも「だめだ」と。後に我が家のリビングに飾られることになった。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 22 アヴィニョンへ行く

2025-05-06 17:34:49 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
1985年10月2日(水) 晴れ

アルルも気候の変わり目、朝夕は肌寒くなる。
麻美の知り合いの先生をアヴィニョンに訪ねることにして駅に行く。
駅はストで列車は12時近くに1本出ることがわかった。一方それより早く出るバスがあったので、バスに乗り、1時間でアヴィニョンに着いた。

駅で電話して(知り合いに)迎えに来てもらった。

家はローヌ川を渡り、城壁を巡らした湖上の脇の高級住宅街で外見は良くないが、部屋は良い住まいであった。
主人は音楽大学の教授、奥さんは60歳近い。昼食を準備して待ちわびていた。遠慮のいらない家族で親近感を覚え、今日まで描いたスケッチを総ざらい見せた。
その後、麻美が前回この家に来て世話になった時撮ってもらったスライドを映してもらい、見た。3年前、赤い手袋にオーバーを着てジーンズをはいて、随分若い姿で写されていた。

夕方帰ろうと駅に電話をを入れてもらうと、スト続行で電車もバスも動かず、夜の12時までだめなので、泊めてもらうことになる。

午後、アヴィニョンの公園に車で連れて行ってもらう。高台からの風景が素晴らしかった。主人はピアノのレッスン中で、教え子の親が代わりに七時に迎えに来てくれた。

主人の妹さんは日本の大学で講師をされていたが、病死されて、残された部屋が日本趣味で飾られていた。日本を愛した様子がうかがえる。

夜は遅くまでスライドを見せられ、眠い。


アヴィニョンの公園でスケッチ、アヴィニヨンの街

川の途中で途切れている、歌にあるアヴィニョンの橋



ブリュエルさん宅で夕食

【追記】
前回フランス一人旅を計画中に、もしアヴィニョンに行くことがあったらこの人を訪ねるといいよと大学の先生から電話番号を教えられていた。
一人旅半ばの頃、人恋しさもあり、アルルから、なんとはなしに、その番号に電話してみた。しかし無情にも「この電話は現在使われていません」音声が流れた。
別に用事があるわけでもなし、それで終わりでよかったのに、電話ボックスから出ると老夫婦がやってきて、「どうしたの? 電話番号調べてあげる」と言う。
地方別電話帳には同じ名前の人が無数にあった。
次に職業別で調べようと言う。
どこに住んでいるかわかるかと聞かれ、「確かアヴィニョンの駅から大きな橋を渡った高台にあるって聞いた気がする」と紹介してくれた教授の話を思い返しながら伝えると
「それはvilleneuve les Avignon だ!」
該当の番号が数件に絞られ、電話番号のメモを渡され、端から電話してみろという。
老夫婦はじっと後ろで見ている。
そして上から電話すること3件目。Ca y est! ついに、つながった。
「明日遊びに来なさい」とトントン拍子に話が進み、そのままBruel夫妻を訪ね、方々観光に連れて行ってもらい、1泊させてもらった。

帰り際に奥さんにお弁当を渡され、駅で別れる時に次にフランス来たら必ず電話するようにと何度も念を押された。
電話を調べてくれた老夫婦といい、Bruel夫妻といい、南仏の人はきさくで明るい。

今回そのご夫妻を再び訪ねることになった。Bruelさん宅を訪ねるのが、私の旅の目的の一つでもあった。お土産に羊羹を渡すと「youkan!]と大変喜ばれた。
挨拶してお土産渡し父を紹介して失礼するつもりだったが、ストで電車もバスも動かず、そのまま1泊させてもらった。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 21 アルルで別行動

2025-04-13 14:05:54 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
21. 1985年10月1日(火)晴れ
 9月14日に日本を出て既に半月以上経ち残してきた家族のこと、畑の様子、女子短と様々頭の中に募ってきた。

 今度の宿では朝食を頼んでいないので,パンをかじって済ませた。麻美は街を一人で歩いてくると言うので、単独で街中を描きに出た。
街は小さいので,ローヌ川と闘牛場を目標にして歩いていれば迷うことはなかった。ローヌ川岸を下って橋まで行き、町中に入りたばことコーヒーを飲む。16.5フランだった。今日はチョークで描いた。画材屋があったので、フィクサチーフを買う。小瓶のスプレーだが36.5フランで手持ちは残り2.5フランだ。街の中程に遺跡を見つけ入った。その中でスケッチに夢中で昼の閉門を知らないでいた。門は閉ざされているので昼寝の門番を起こす。スペイン人の老婆が出てきて荒調子で喋るが言葉が一向に分からない。言っていることは感じで分かるので謝った。入場料を払えと言っている。残りの2.5フランを出すと料金版を指さして4フランだという。さんざんの思いで外に出してもらった。午後1時近かった。

 今日はチョークや鉛筆で描いてまわった。遺跡からの民家、闘牛場からの赤い屋根の風景、街の中心地にある大きい建物の中のヴィーナスに似た石膏のある一角風景。
 今日も疲れた。麻美が近くの中国料理屋で日本食品の類を買ってきて、食事は部屋で済ませた。


No.1099  アルル礼拝堂No.1075 


アルルの家並みNo.1060

 
アルルde Rhone

アルル闘牛場

アルルスケッチ

アルルローヌ川

アルル郊外スケッチ

【追記】
 この旅行記は父がノートやスケッチブックに現地で、そして帰国後書き直すなどして残した記録を文字起こししている。乱雑な文字で読みづらく,記憶を辿りながら、判じながら読み進めている。さらに書き残した作品や写真を探し当てはめている。この旅行記はまだ続くが,実は最後まで読んでない。その都度、1日1日を判読し,作品や画像を探し当て,1日分が完成したところから掲載している。だから明日はどんなことが書かれているのか、明日のことを今は知らない。
 同じ旅を共有していても、父の感想に触れ「へー、そうだったんだ」と今更ながらに知ることが多々ある。
 実はこの10月1日にたどり着きたくなかった。読みたくなかった。きっと私への批判を書いているだろうし、今この日のことを思うと後悔で一杯だからだ。そんな思いから10月1日がやってくるのが気が重かった。
 
 父が書いているように,日本を発ち半月経ったこの頃、私は二人旅に辟易していた。どこに行っても「親子なんですか!?」と驚かれ、中には「男女が旅行するのは普通は夫婦か恋人同士だ」などと言ってくる人もいて、奇異の目で見られているように感じていた。それだけではない。言葉が分からないからと常に頼られどこに行くのも一緒。私は父に「簡単な挨拶は覚えたら」と言い放った。いつも一緒に行動することに爆発しそうな気持ちを押し殺し,この日は一人アルルの街を彷徨うことにした。その時、父は父で大変な思いをしていたことを知ったのはこの日の午後だったか、どこかで合流してからだった。だからこの日の日記はどれだけ悪口書かれているかと恐る恐る読み解く自分。そのくせ自分も一人の時間を楽しく過ごせたわけではなかった。ゴッホの跳ね橋を目指すが途中野犬に襲われそうになり,警察官に助けられ駅まで送ってもらった。そして駅近くの遊覧船でローヌ川観光しようと乗船するが時間になっても一向に出発せず、結局他に客がいないからと欠航となり、何もしないで時間だけが過ぎたのだった。
 この後父とどこで合流したか記憶にない。ホテルの部屋か,街の中だったか。
 ホテルの近くにベトナム人がやっている惣菜屋があり、そこで色々買った。醤油ベースの味付けで久しぶりに「おいしいもの食べた。こうやって買って食べるのもいいな」と父は喜んでいた。しかし食事のことは日記ではさして触れていない。あの夜の食事では、父は父なりに私に気を使ったのだと分かった。
 これはどこでどうやって挽回すればいいのか。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 20 アルル2日目 闘牛場を描く

2025-03-28 11:51:51 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
20.1985年9月30日 (月)晴れ

朝食の時、他にも客が5名いた。10:30がチェックアウトなので、ローヌ川風景を窓から描いた。晩秋の太陽が淡く澄んでいた。川の中に,コンクリートの残された橋げたが,この地の歴史を語り,川岸を歩く点景の人がのどけさを与えてくれた、
昨夜の宿は二つ星で高価なので、麻美が前回来たときの宿が取れていたので,広場に近い宿に引っ越しした。
昨夜外食に出たときに見つけておいた闘牛場の外壁を描くことにした。F6号に取り組んだ。
今日一日はこれに決めた。外壁をぐるっと回った。日陰を見つけた。石造りの重量感にてこずり,色がぱっとしなかった。
今日の宿は女将が経営していて,落ち着いたホテルだった。










【追記】
スイスジュネーブ湖を起点とするローヌ側は,アルルで大ローヌと小ローヌに分岐して地中海に注ぐ。
前回アルルに来たときはミストラルが吹き荒れていて,川沿いを散歩する人影は見られなかった。今回は穏やかなローヌ川だ。ここアルルは老人が多い。
駅前広場で前回来たときとそっくりにペタンクに興じている老人たちがいた。あの時と同じ人かもしれない。同じように声かけられ,ベンチで話し込み、駅前スーパーで何とかという野菜を買えばおいしいよとしきりに言われた。
アルルには数日滞在するので,お気に入りホテルに落ち着くことができて良かった。ローヌ川沿いの教会を見て、父は「油絵はヨーロッパの景色を描くのに適してるのだな」と語っていた。スペインの黄土とは違った、街全体が色を抑えた石造り景色はどこを見ても絵になる。今日は一日闘牛場を描くと言いキャンパスを広げた。通行人に取り囲まれたりしながら描いていた。画面をのぞき込んで「うまいね」と言って行く人もいた。カフェのテラスでサンドイッチとコーヒーの昼食を済ませ、グレープフルーツジュースを頼んだ。皮ごと絞られていたのか,苦くて飲めなかった。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 19 ようやくフランスに入る

2025-03-01 16:41:25 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
19 1985年 9月29日(日)
 今日フランスのアルルに行くようになる。9:50発の電車を待った。昨夜の睡眠不足で駅で待つ間も電車に乗っても眠ってばかりいた。アルルは来るときに通過したところだ。途中から別れて入ったローヌ川がゆったり流れ,今までのスペインとはがらりと変わった。
 電車を降り歩いて5分くらいのところの宿を予定していたが満杯で駄目だった。そこは麻美が前回来たときに泊まったホテルで、ゴッホが住んでいた家を改築してホテルにしたもの。奥まったところに二つ星の宿が見つかる。宿の親父はスペイン人に見えた。フランスと聞けば作法のやかましいところと思ったが、この親父は良くなく、強引にひきづりこまれた。夕食を外で取るといったらホテルの親父が世話してくれた。そこもスペイン人経営だった。
【追記】
 前回一人旅でアルルに来たときに,ホテルの前のテラスでくつろぐ宿泊客の老夫婦に呼び止められた。ホテルを探していると言うと、「このホテルはいいよ。きれいだし,食事もおいしい。私たちはいつもここに泊まるよ」と声を掛けられ,幸いにもシングルルームが空いていたので即決した。フロントを出て,今部屋を取りましたと告げると,テラスのおばあさんは「よかった、よかった」ととても喜んだ。
 そのホテルは母と息子で営む,こじんまりしたホテルだった。その後アルルの街で知り合った同じように一人旅する卒業旅行の日本人男性が、今のホテルを変えたいと言い,他のホテルから引っ越してきた。それまで彼がいたホテルは、「地球の歩き方」で紹介されたからか日本人がたくさん宿泊していた。日本人に会うことなどほとんどない一人旅だったのに、なぜかそこにはたくさん日本人が居た。そこの親父さんが口やかましく辟易すると言っていた。彼を引き連れて来てもう一部屋取ると,女将さんは微笑ましいものを見るようにニコニコしていた。そんなんじゃないと全力で言い訳しておいた。

 今回は空きがなかったが,明日は空くとのことなので予約した。女将さんも息子さんも前回宿泊した私のことを覚えていてくれた。「一人で来た日本人だよね」と。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 18 バルセロナの駅で野宿する危機一髪の夜

2025-02-07 11:57:21 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
18 1985年9月28日(土)

麻美に起こされる。

7:10発のバルセロナ行きの列車に乗る。この列車は今までで一番良い。6人の仕切られた部屋で片側は通路である。椅子を引き出すとベッドにもなった。音楽や照明の装置もあった。乗客の階級も良い。コンピューターの打ち違いで,席がかぶることが二度あり、車掌とのやりとりで車内がうるさい。

こっちの服装は二等車風であったので切符を切るまでは同室の人たちも変な顔をしていた。パスを見て,やれやれという様子だった。

スペインの汽車は時間がルーズなことを聞いていいたが、これのルーズさには肝を潰した。バルセロナが近くなった陽も西に傾いた頃、列車は遅れだす。あと1時間で終着のバルセロナに着こうとする時突然駅での停車が30分以上。車内放送もない。スピードも今までの半分に落ちる。バルセロナには2時間30分遅れで、夜中の11時半に着いた。

麻美がインフォメーションで宿を探す。不親切な対応だった。窓口の説明では駅の向かいあたりを探せという。重い荷物を背負い,あちこち足早に歩いて探す。汗びっしょりになる。結局見つからず、駅に戻って再びインフォメーションで聞くと,最初にバルセロナで泊まったホテルらしい。調度にタクシーが来て飛び乗った。運転手に話すと探しているホテルに連れて行ってくれた。しかしホテルは満杯でお払いをくった。

今日に限って現金は4000円余りしか手持ちになかった。予定では明日はフランスに入るので,安いホテルなら十分であるから・・・(と両替してなかった)
駅前には高級ホテルがあった。ホテルの親父は気の毒に思ってか運転手に別のホテルを教えてくれた。タクシーはどんどん田舎の寂しいところへ行く。明日の朝は早出なので心細くなってきた。次のホテルも満杯でシャットアウトをくらった。運転手が一緒に交渉してくれたがどこにも宿は見つからないので,とうとうタクシーは駅に戻った。

時刻は12:30だった。タクシー代825ペセタとチップを含め1000ペセタ払う。今夜の宿は駅と決めた。心細い。
駅を閉め出された数人が戸口で既に寝込んでいた。中は電話機などが荒らされるので,夜間は入れないとのことである。暗い中をのぞくと寝ている顔はジプシーに見え,恐ろしい気持ちで、麻美は怖がった。

アメリカの旅慣れた風の若い青年が来たので,一緒にいさせてもらった。大変安堵した。麻美の不寝番もあるので,朝まで寝なかった。麻美には防寒具を全部くるめてやった。コンクリートの壁に背を当てて寝て、ウツラウツラしていると午前2時頃、ふと目を開けると麻美の枕元に黒い肌の若いのが二人立っていた。目のみがギョロついていた。こっちと視線が合った時,二入の若者は暗い中に消えていったが,後になって恐ろしさで心臓がちぢみ上がる思いだった。それからも変なのがうろついていた。

夜が明け午前6時に駅が開いた。(ヨーロッパ時刻サマータイムが解かれた)

【追記】
マラガからの電車は遅れに遅れ,その日の最終到着列車になった。
バルセロナのインフォメーションは不親切だった。自分でホテルに電話して探せとリストを放り投げるように渡すとカウンターを閉じてしまった。駅前高級ホテルは全く我々を相手にせず,ポン引きに車に連れて行かれそうになり、調度来たタクシーに飛び乗りホテル探しを頼んだ。何軒回っても満室。ホテルフロアで交渉していると,中から宿泊している日本人青年が出てきて、「俺の部屋に泊まってもいいよ」と言ってくれた。ラッキーと思い,父を連れて来ると彼は怒ってドアを閉めてしまった。あーあって気持ちで駅に引き返し、どうせ明朝までの数時間、駅内で時間潰そうと思うが、それは思い通りにいかない。防犯のため無情にも駅員は全員閉め出すのだった。

そこへ調度人の良さそうなアメリカ人青年旅行者が同じように駅入り口で野宿当て込んでやってきたので、すぐ脇にいさせてもらい3人グループを装った。

始発電車は5:30だから、あと数時間ここで頑張れば駅が開く。
あと30分、あと10分など時計をにらみながら駅が開くのを待つと,なんとその日はサマータイムが終了する日。だから夜が1時間長かった日。
ヨーロッパの人にとっては1時間長く寝られる日。
結局そこからさらに1時間待ち、ようやく駅に入れた。
まずトイレに駆け込み,洗面を済ませると,隣でジプシーの女性が洗濯していた。なんだか妙に仲間意識がわいてきておしゃべりしながら並んで洗顔した。

怖いもの知らずとはこのことで,後に父の記録を読み返し,いかにあの時危険だったのか反省しきりである。そういえば翌朝駅に入って人心地着いた時に、父は「黒人やらが麻美の周りたむろしていた」ようなことをチラッと言ったが、それほど危険な状態とは思わずその話はスルーしていた。

この日はそんなわけで、写真もスケッチもない。


父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 17 マラガに一泊する

2025-02-01 11:51:17 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
17 1985年9月27日(金)晴れ

今日はマラガ行きだ。宿を出て外で朝食をとった。マラガにはバスで行った。11時に着く。
エステポナに比べて大きな賑やかな街で観光の街である。(ピカソの生地でもある)。港町でその反対の小高い丘は右に大きい城塞が建ち残っている。闘牛場もあった。城塞とカテラダを見ることにしていた。カテラダ(宗教的なところらしい)は行った時あいていなくて入れない。城塞に行った。
10何世紀のものか,中世の名残をとどめ外壁を残して小高い場所に残されている階段を登った。敵の侵入を防ぐ工夫がなされた構造に興味があった。中には遺跡展示室があって、見た。モザイク画の,深く落ち着いたものなど心に残る。
夕方、日も傾いていたが帰り際に夕陽の馬車に乗り45分間の遊覧を楽しんだ。日本人の姿はどこにもなく,遠い国にいる実感がわく。
今日のホテルは星二つで,二つ上のランクだった。今まで泊まった中で最高に良し。便所は消毒の匂いで気持ちよかった。


マラガスケッチ

ピカソ生家前



【追記】
マラガへの移動は順調だった。ホテルもすぐに見つかった。
マラガは大きな街で活気があった。ピカソの生家前で記念撮影した。
夕刻、観光馬車に乗った。乗り場で観光客の列に並び、自分たちの番に回ってきたのは薄汚れた馬車と白馬でちょっと残念。夕方の風が気持ちよく開放的な気分で馬車に揺られた。夕食を広場のテラスで取っていると,物売りの子供がポケットティッシュを売りに回ってきた。押し売りは即座に断っていたが,ポケットティッシュなら持っていれば便利だと父が言った。その後その子から買ったかどうかは記憶にない。

父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 16 エステポナ2日目

2025-01-23 11:24:38 | 父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行
16 1985年9月26日(木)晴れ
午前中麻美が海で泳ぎ,貴重品の番をしながら海の風景を描く。午後は家並みの写生をした。夕食は外でした。


【追記】
この日は疲れたのか,これしか記録を残していない。その代わり油やスケッチをたくさん残している。気になる風景を写真に収めるでなく,その場でスケッチするのが輝流。











No.567 エステポナ(スペイン〕太陽海岸 F3




浜辺のそこここにトップレスの女性が日光浴していた。その中でも中年の白人3人組が目立っていた。二人の女性はトップレスで寝そべり、男性がオイルを塗ってあげていた。
父に荷物番を頼み海に入ると,遠浅の海の足下に鰯やタコが泳いでいるのが見えた。タコと一緒に泳ぐみたいで気持ち悪く,早々に浜辺に上がるとしつこい老人にまとわりつかれた。
「オイル塗ってやるから横になれ」といってしつこい。
父に助け船を求めようと思うが、肝心の父は防波堤で絵を描いている。仕方ないから少し日光浴して,すぐに引き上げた。
街には少し前に日本のサーカスが来たらしく、辻辻にポスターが張られていた。それでも日本人はかなり珍しいらしい。街を歩いていると大人も子供も振り返る。遠慮なく引き返してきて顔をのぞき込む男性もいた。遠慮がない。子供たちは「ハパン、ハパン」と声を合わせて後を付いて回って来た。なぜ日本人と分かるのか不思議だったが、昨日の洋品店のおじさん辺りから聞き出したのだろうか。
夕食にレストランに入ると、付いてきた子供たちがさらに友達を呼び、店の前でたむろして中をのぞき、一挙手一投足に一々歓声上げていた。
夜遅くなってもまだ外は明るく,通りでは子供たちが遊ぶ声がいつまでも響いていた。道路にチョークで線を描いて遊ぶ様子は,自分の子供の頃昭和の風景だった。
この日の父の日記はほとんど記載がないが、帰国後、海辺で寝そべりオイルを塗ってもらっている女性の様子を作品にしている。
「地中海の女」である。(S100)この作品の覚え書きが残っているので,併せて掲載しておく。

No.1「地中海〔アンダルシアの女)S100
2/3(1986.2.3) 【描きたい絵】
「スペインの南端エステポナで麻美が泳いだ。貴重品、衣類見がてらに防波堤の突端で湾越しの街並みを描くためイーゼルを構えた。描いてしばらくしてうしろむくと描いている背後1㍍そこそこの距離に年の瀬30歳は過ぎたか接客婦にもみえる女性二人が寝ころび、そこに側立つようにして男がいた。男は女よりも年若く、ひげを携えている。
女二人ブラジャーなし。下の方は細いT字形パンツ。
 女は代わる代わる男にマッサージさせている。30を超したスペインの女は、はぶたいもちのようにぶくぶくだ。おまけに日焼けした肌が怪物のようにマッサージで動く。乳首は梅干しで黒い。一方砂浜では40過ぎの女がノーブラで砂に寝て日光浴をしている。先の二人の女達よりまた異様な怪物様だ。焼け付く地中海の太陽の海と女達。このような様を絵にしたい。