バネの風

千葉県野田市の「学習教室BANETバネ」の授業内容や、川上犬、ギャラリー輝の事、おもしろい日常を綴ります。

サンタさんネタは微妙

2017-05-22 10:18:00 | バネ
 小学生の国語読解教材,物語文にて。

 物語文を二つに分けると小説とエッセイになる。
 小説読解のコツ

 その1-場面設定を押さえる
  課題文からわかる範囲で時代、場所、時間、そして事件=話題を把握する。要するに舞台セット ですね。

 その2-登場人物を押さえ、そのキャラを把握する。キャラクターは会話や態度で表現されること が多い。

 課題文に引用するのは物語のほんの一部なので、いきなり事件のクライマックスからスタートする場合もあるから、舞台セットをいち早くつかむのがポイント。だから既知の物語だったりすると理解が進むので、「とても読みやすい」となる。
 しかしながら小学生の場合気をつけないといけないのは、そのセットに「ちゃぶ台」とか「ひさし」があると、生活体験薄いこれらが理解できないことが多いし、「むくれている」とか「すねている」といった言葉の意味を説明しないといけない場合もある。このように文章の細部が理解できないことがあるにせよ、小学生向けの題材なので、登場人物の心情は無理なく理解してもらえる。

 やっかいなのはエッセイ。
 エッセイって日々のできごとを題材に思考を巡らす大人視点の文章だから、小学生が大人の感慨に腑に落ちるわけがない。「春はあけぼの」って言われて言葉の意味は理解しても、「そうだよね」って感じ入ることができるようになったのはいくつの時だっただろうか。少なくとも小中学生の時に今と同じ理解ができてはいない。
 エッセイではたいてい大人が過去を振り返り人生の歩みを反芻するから、書き手にとって過去の時代を進行形で生きている小学生には理解できない。人生先回りはできない。
 だから大人が思うほど、読後なるほど感に染まっていないなと子ども達の顔を見ればわかる。
「ふーん、それで」って反応になる。


 テキストの順番で今日の題材はエッセイ。
 授業前にざっと一読すると、
 それはサンタクロースねただった。
 サンタクロースからのプレゼントを巡る両親との攻防。子ども時代の出来事を振り返る大人になった作者。
 まいったな、と思う。
 これは小学生に読ませられるかどうか。

 その教材を開く前に小学生に質問した。ピンポイントで聞くと墓穴を掘る可能性があるから
「みんなの家にはサンタさん、来るの?」
 ニヤッとして「来るよ」と即答した子。微妙な顔をする子。何でそんなこと聞くの、という顔をする子。これらの反応から各家庭の両親と子どもとサンタさんのつながりに確信は得られなかった。
エッセイを読めばサンタさんの秘密がわかってしまう。子ども達の夢をつぶし、両親の努力を無にする可能性がほんの少しでもある以上、今日の教材はスルーってことで。

 のび太君の家ではクリスマスプレゼントは4教科のドリルだった。
 涙目になってドラえもんにすがるのび太君だったが、私には泣きすがる相手はいなかった。 
 あれは3.4歳の頃だったと思う。目覚めると枕元に包装紙に包まれたプレゼントが置いてあった。中身は白の木綿の肌着だった。兄のはアニメキャラがプリントされたズックだった。うちは子どもの頃貧しかった。父は給料全て絵の具に変えてしまうような生活をしていたので、人並みのものが買ってもらえないことは子どもながらに理解していた。わかってはいるけど、その包みを開けた時の残念感は今でもはっきり残っている。せめて兄のようにシャツに何かがプリントされているとか,花が刺繍でもされていればよかったのにとツラツラ思ったことまでも。でも誰にも愚痴は言わなかった。こうして枕元に置いたことや、包装紙にくるんだのが精一杯の親の気持ちであることが伝わったからかもしれない。
 今日の教材を扱ったら,授業中にきっとこんな思い出話に発展したことだろう。そして子ども達に微妙な顔をされ、「先生のうちは子どもの頃貧しかった」という事実だけが記憶にインプットされたことだろう。

 物語もエッセイも書き手は大人である。
 小学生の心に届くお話、書いてみたいな。




田植えとカエル

2017-05-13 10:53:01 | NPO法人アルファバドミントンネットワーク
 連休最終日の5/7,大騒ぎしながら田植えした。
 田植えやるよと言って集まったのは陸上部とバドミントン部60人あまり。他引率の大人、関係者、そしてバドミントン部保護者の皆さん。総勢100名ほどとなった。
 大イベントとなったがこの日を迎えるに当たり懸念があった。

 田植え日は4月上旬の打ち合わせ時にはすでに決まっていた。バド部は大会後、そして陸上部は大会の前日。それぞれの大会の隙間を縫った設定はピンポイントの5/7。日程打ち合わせの際星野さんは「多分大丈夫だと思うよ」と呟いた。

 そして田植えの日まであと10日という頃に田んぼの様子を見に行くと、畦を草刈りしていた農家のおばさんに言われた。
「7日にやるの? 少し早いね。多分その頃なら水入っているかな。大丈夫かな」
 水門が開き順次水が送られてくる。そうして辺り一面が水田になるには思った以上に日数がかかる。最初に星野さんが「多分大丈夫」と呟いた言葉の意味がわかった。

 2日前の昼頃様子を見に行くと隣と後ろの田には水が入っており、7日に田植えする田にはチョロッと水があった。入り始めたところらしい。
 連休最初の天気予報では7日は曇りのち雨。でも雨だってやっちゃうつもりだから、天気は懸念材料ではない。

 果たして到着すぐに確認に行くと、田には水が張られ代掻きが施されていた。田にはさざ波がたち、カエルの声が響いていた。ほっと安堵。そして同時に、星野さん、まさか昨日遅くにあるいは今朝早くやったのではないかと思うが,ごった返した中で確認できずじまい。

 集合場所には続々と車が到着し,陸上部のオレンジのテントが張られ,炊きだしの下ごしらえが始まった。喧噪を遠くに聞きながらカエルの声に聞き入る。大合唱とは言えないが相応の数のカエルが一斉に鳴いている。2日前に来た時はカエルの声はしなかったのに、このカエルたちは、一体いつどこからやって来たのだろう。不思議な気分で細い畦を歩き水面のぞき込むと鳴きやんだ。広い畦に引き上げるとまた鳴きだした。
星野さんにカエルの不思議を質問すると、「どこから来るんだろうね。水入るとすぐにこうやって鳴き出すんだよ」

 全員が田に集合し星野さんに植え方のコツを教えていただく。
「やったことないからあまりよく知らないんだけど……」で始まる星野さんの説明に一同大爆笑。手植えは最近やらないからとのこと。そうなんだ。苗を4~5束ずつ植えると良いとの説明だったので、苗をどのように持ちどのくらいの深さまで植えるのかを確認の為に質問した。

 小学生の時友達の家の田んぼを手伝った。人差し指と中指の間に苗を挟み,刺すように植えると習った記憶がある。その指をどれくらいの深さまで指すのか,指の付け根までなのか第2関節くらいまでだったのかを忘れてしまったのでその点を確認し皆の理解をフォローするためにナイスな質問をした(つもり)。
しかし星野さんはいつもの笑顔を崩さないまま「だいたいでいいよ」
とアバウトな回答で,田植えは始まった。

 友達の田植えを手伝ったその日の夕食,父に「おまえの植えたところだけ浅くて、明日プカプカ浮いているかもよ」と言われヒヤリとした。翌日確認に行くと,大丈夫だった。
打ち合わせの時も、田植え当日も、高校生達が植えた苗が翌日浮かんでいるかもしれないと言ったのに対し、星野さんは「大丈夫。そんなことはないよ」としか言わない。
でもやはり気になって次の日田んぼを見に行った。
大丈夫だった。
苗は浮かんでいなかった。
今思うと、子どもの時わたしは父にからかわれたのかもしれない。

 田植えから数日経った今も余韻を楽しんでいる。楽しかったイベントを反芻し、稲刈りの時は暑いから「すいとん」ではなくカレーにしようなどとイメージ作りしながら、ふとカエルの疑問を口にした。
「前の日はいなかったのに、水を入れた途端どこからやって来たのだろう」と。

するとチャーが「冬眠していたのが土の中から出てきたんだよ」
そうだ。カエルは冬眠するのだった。あの日鳴いていたのは先代達ということだ。水入りを合図に土の中からポコポコ出てきたんだ。だからまだ声帯滑らかとはいかず、心なしか弱い声だったんだ。そろそろ起きるかと出てきたところ、大勢に踏みつけられあわてて一斉に泥に潜った様が目に浮かぶ。そっちにはそっちの事情がある。

 地球を断面で見ると,人間はその一面で生を営んでいることを実感する。さらに、一面でしかない人間の営みにもこうして水入れの順番のように、無理が利かない決まりごとがあり、なんでも「大丈夫」と構えていれば大丈夫なんだということ、そして集いの労働の後はやはり「みんなで食べる」は必須であるということを体感した1日だった。

 田植えはおもしろかったの一言に尽きる。参加者の中高生だけでなく,保護者の皆さんからも感謝の声も多々上がっている。ここではおもしろかったことを振り返るつもりでいたが、カエルの一件が腑に落ちたところなので、あえて二つの気づきでまとめてみた。