まいにちまいにち

お母さんの毎日は いつも同じようで、
少しの素敵がチラリ。

続けて想うこと。

2009-10-22 | お母さんのひとりごと
だれかが亡くなるということは  ほんとに とても悲しく残念なことです。

仕方ないことなのだけれど そういうことに接しないと学べないことって きっとあって
誰かの死によって気付いたり 考えさせられたりすること たくさんあります。
悲しいことだけれど。

最近、近くの市で 葉っぱと同学年の男の子が亡くなりました。
自転車に乗っていて。 自動車は逃げたのだと ニュースで知っていました。
ある日のサッカーの試合の開会式で 子どもたちに話がありました。
「○○サッカークラブは、今日参加予定でしたが お別れ会のため参加しません」
その少年は この試合に参加して、葉っぱたちと汗を流すはずだったのだと、その時知りました。
顔も知らない少年の死を こんなに身近に感じたことはありません。
もし 大切な友達を急に失ったら・・・  子どもたちはどうやって受け入れたらいいのだろう。
引越しをして 離れ離れになるのではなく、その「形」がなくなるということを。
そして 当然ながら 母の気持ちにもなりました。

私の母は もう13年間も寝たきりで 話すことも 口から食べることもできません。
首も据わらないし 体のどこも自分の意志で動かすことができません。
でも、怒ります。 笑います。 緊張も します。
もし 私が母みたいになったら どうするだろう・・・?  と離婚した夫と話しているとき
「俺が看るんじゃないの~?」 と言われました。
「へっ? へんなこと言うねぇ。。。」
内心 それは逆なんじゃないの? と思っていますが、長い人生 何が起こるかわかりません。
離婚はしましたが 大事にしていきたいと思います。 ヘヘヘ

私の両親は 今年で 金婚式を迎えます。
その時は ちゃんと帰省しなくちゃね。


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4 コメント

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寄らせてもらいました。 (あれん)
2009-10-22 15:56:42
素敵な文面のブログですね。
お人柄を感じました。

我が家は娘が幼稚園年長の時にパパが星になりました。

命は今日までなのか、それともとても長生きするか
わからないところが人生の難しさなんだと感じています。
人の死は必ず、みなに訪れるのになぜかあまり語られません。
死生観は幼稚園生でも小学生でも学べることだと我が娘を見てきてわかりました。
もっと命の大切さというきれいごとばかりでなく死生観を子供たちに学んでほしいと思っていたので
思わず寄らせていただきました。
目の前の命がいなくなるというのは壮絶です。
かわいそう、大変ですねなんてあまい言葉では表現できません。
日本にもっとグリーフケアが浸透してほしいと願わずにはいられません。

生きている若い世代の毎日の生活が優先でいいのです。
なので無理せず帰省してくださいね。
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*あれんさんへ (jasumin)
2009-10-23 09:11:11
あれんさん、コメントくださってどうもありがとうございます。
お嬢さんがまだ小さい頃に、ご主人は逝かれてしまったのですね。
私、考えてしまいました。
私自身は、実際には家族を失ったことがないので、
もしも何かお気に触る部分があったなら申し訳ありません。
ただ、母が2度も生死の境を彷徨ったために、少し考え方が変わってきたと思っています。
あれんさんの仰る「命の大切さというきれいごとばかりではなく」ということは
何度もうなずかせていただきました。
それから長門さんの会見で「死は予想している」というような発言があったときに
「死を待ち望んでいる」というように誤解を受けなければいいな・・・と思っていました。
子どもたちには、生きる醍醐味や楽しさを知って欲しいし
身近にある「最期」も感じて欲しいです。

グリーフケアがわからなくて、調べてしまいました。(スミマセン)
そうですね。カウンセリングとか専門的なことでなくても
思いやる気持ちで補うことはできるでしょうか?
息子の親友で二人、柔道の強い子がいるんですが、ひとりは負けると必ず泣いちゃうんです。
そんな時、もうひとりは何か言葉をかけるでもなく、ずっと傍に座っているんです。
そんな彼らの姿も思い出しました。

>生きている若い世代の毎日の生活が優先・・・
娘が3人もいて父に介護を任せるなんて・・・と悩んだときに
姉に言われた言葉です(笑)。私は関東にいて、実家は九州なのです。
なかなか帰省できないのですが、たまには頑張ってみますね!(笑)


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ほーんとに (こもも)
2009-10-23 14:56:59
死について語ること、死について考えること。
ほーんとに、少ないですよね。
もっともっと、学校でも、家庭でも、話し合って良いテーマだと思います。
生は死と隣あわせだということ、だからこそ尊いのだということ。
もっともっと、知ってほしいなって思うのです。
高学年で、ではなく、小さい頃から。

事故に遭われた男の子。なんてことでしょう。
言葉も見つかりません。
ご家族のことを思うと、もっと、見つかりません。
私は、わが子の死に接し、何のケアも受けずにここまで来ました。
そのせいか、未だに、ちょっとしたことで、わが子の死を連想し、
パニックを起こしそうになります。
グリーフケアの専門家が、病院に、教育機関に、当たり前のようにいてくれると、どれだけ、救われる人がいるだろうなあと思います。

介護のこと、死のこと。
きれいごとじゃなく、もっともっと、当たり前に、話し合える世の中になるといいですね。
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*こももさんへ (jasumin)
2009-10-26 13:06:40
こももさん、こんにちは。

こういうことを書いていいものかどうか・・・
私、こももさんのことも思い出していました。
私なんかが言うと、軽軽しくはないだろうかって。
でも「死」っていうことばを使いたくない(使うのが怖い)くらい知っていれば
心無い軽口はなくなるでしょうし、
「死」を感じることができれば「生」の重みも理解できますよね。
私はちっとも用心深くないくせに、「私が」子どもを守らなければ・・・と思った途端
強盗が来たとき、火事が起こったとき、川の事故にあったとき、といろんな想像をしてしまいます。
どう守るかのシュミレーションだったりもするのですが
死ぬことを想像するなんて不謹慎な!と思われるかな?と心配になることもありますが
想像なしに「かわす」ことができないでいます。

「死」は悲しくて辛いものだけれど 忌み嫌うものではなくて、尊いもの。
介護されること・することには苦労はつきものだけれど
それもまた尊いこと。言葉の使い方が違うかもしれないけれど、そんな風に思いたいんです。
心無い人に「お母さんみたいにならないようにね」と言われたとき
「何が悪いんでしょう?そういわれるくらいなら、私はなってもいいです」と言いたかったのです。
今はやるべきことがあってなれませんけれど、反抗心からそう思ってしまいました。
ちょっと極端だけれど、生と死は隣り合わせだし、介護だって誰がなってもおかしくないって
みんなが理解できたらいいのに、と思います。

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