脳のミステリー

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70.差別界と平等界

2006-08-25 05:20:23 | Weblog
 以前、『差別と平等』について綴った事がある。
 戦後61年が過ぎようとしているが、戦後の日本は平等という言葉を過大評価してきたように思えてならない。「人間は障害と力を競い合う時、自分自身を発見する」という誰かの言葉を思い出す。私は自ら障害者を名乗って初めて、障害と競い合って私という人間が少しずつ理解できるようになってきた。確かに、自らの考え方や態度を貫き通そうとすればするほど、自分という人間がそれなりに偉大になっていくような気がする。自信喪失はがっかりで、自信過剰は嫌味たっぷりだが、自信満々の人は輝いているものだ。
 そこで、私は自信を持って自らの考えを述べる事にしている。それによって好評を得たり、批判を受けたり出来るからである。自信ある発言は講評を受ける事が可能になってくる。すると、私という人間が進歩するだろうと、願う事になる。
 『差別と平等』の受け入れ方を少し間違えている人が少なからずいる。仏教の世界では、差別界と平等界という言い方がある。差別のある現象界、即ち、この世に対して、すべてのものの間に差別のない平等界があるというのである。この世には差別があって当然と言っているのだ。障害に出会った私は今、時折、差別に出会う。そして、自らの障害と競い合って必ずや勝利を手にする自分を発見するのである。大きな利点は、物事を主観的にではなく、客観的に捉える事が少しづつ出来るようになってきているからだろう。
 私が子供の頃は、先生を師と仰いで、両親を敬って育ってきた。最近は、先生と生徒の間の壁がなくなり、親と子の間の塀がなくなってきている。差が偏見に振り回され、どちらが教え、どちらが教わっているのか全く分からない。そんな妙な世界では「何かを習おう」という気にもならないのではないだろうか。論語の中にある余りにも有名な孔子の言葉を今更ながら、噛み締めてみたい。
― 子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず ―                
誰にでも分かるように現代語に代えるとこうなる。
― 私は十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命(人間の力を超えた運命)をわきまえ、六十になって人の言葉が素直に聞かれ、七十になると思うままに振舞って、道を外さないようになった ―
 少しの間、『8月に想う事』を続けてみよう。私自身が還暦を迎えて少しは他人の言葉を素直に聞く事が出来るようになったかしら? 古希を迎える頃には想うがままに振舞う事が出来るようになるかしら? 老計に向う正しい姿勢が僅かづつでもみられる様になるかしら?

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