脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

64.感覚が戻ってくるという事

2006-07-28 08:58:29 | Weblog
 日常において、我々は何の気なしに「あの人は鈍感だ」とか「あの人は敏感だ」とかと他人の感じ方を簡単に表現する事がある。鋭敏な感覚を褒め称える分には如何なる言葉を起用しても心配無用で、「鈍いなあ」とか「気が利かないなあ」などをちょっと悪ふざけの気持ちで使うのなら、然程差し支えはないだろうが、鈍感の表現には充分な配慮が必要だと想う。愚鈍などの使用は感心しないが、魯鈍などはとても愚かで頭の働きが鈍いとあからさまに言ってしまう事になるだろう。軽愚などはもっての他で軽度な精神遅滞を意味するから間違っても簡単に口に出す言葉ではない。「さすが良心と鋭感の持ち主」などと褒められれば舞い上がってしまうが、そんな事は滅多にある事ではない。
 感覚とは、人間が外界からの光、音、匂、味、触などの刺激を感じる働きだが、それによって起こる意識は障害社会でなくとも千差万別という事になる。
 私は病魔に出会って、触の刺激を感じる機能を損傷して、意識が全く無かった所から、極最近になって、やっと「痒い」次に「痛い」を僅かながら感じるようになってきた。正に、痛し痒しの心境で具合はよい様で悪い様でホントに困る。痒いと感じ出したのは凡そ二年前の事で、痛みを感じ始めたのは一年前からである。外敵刺激は痒みも痛みも時と場合で感じる事もあれば、感じない事もある。だが、内的刺激は痛覚が紛れもなく、感覚機能を揺さぶっている。内的刺激による痛覚は鋭感そのもので脳神経を興し、痺れは相も変わらず、傍若無人な動きをする。全く、堪ったものではない。
 的確なマッサージを規則正しく受けるようになって、私の右半身は正直に反応してきている。足先が脳からの指令を無視する事が心なしか僅かだが少なくなってきた。上腕は未だ未だ期待薄しだが、下肢は中々期待できそうだ。
 だが、右腕も、腰掛けたままで左手に誘導されて頭上に持って行かれるに当たって、かなり従順になっていた。無論、上腕の方は日増しによくなるという表現には程遠いが、確かに変化は感じる。
 今まで眠っていた他の機能が働き始めたりして明らかに変化を感じるという事は、医学的に考えると向上と言えるのかもしれないが、痺れに決定的な変化が現れない限り、良くも悪くも語る事は私には出来ない。だが、可能性にチャレンジするのが私らしいのである。
「PNFをやってみましょうか」
「PNF? 何それ?」
Proprioceptive Neutromuscular Facilitation固有感覚受容性神経筋促痛手技、いやはや何とも英語も日本語も長い名称だ。ProprioceptiveだけでPNFを意味する。そして、neutroは神経でmuscular筋肉、facilitationが促進だとすると、素人の私でもPNFイコール筋肉を刺激して神経の働きが早く捗るように促すという訳かという事で、と何となく理解できてくるから、やっぱり私にとっては英語様々になるわけだ。療法士だって、暗記していないみたいでPNF、PNFと言っている。とにかく、療法士は私の体を以て実例を見せてくれた。「ああ、あれか!」懐かしい事に数年前、リハビリ初期の頃、私がよく受けていた方法だった。あの頃は脳の話もリハビリの話もチンプンカンプンだった。リハビリもある程度、理屈がわかった方が遣り甲斐もある。然るにPNFとは動作に抵抗を加えて深部の筋肉を刺激して、神経筋機構の反応を促し早める手法である。然るべき要求を作り出して反応を引き出すよう努力すれば、潜在能力という人間誰もが持っているものを伸ばす事が出来るという訳だ。この動作を繰り返し反復すると、学習効果があり、身体活動の技能(skill)を熟達させ、協調性を獲得する事ができる。身体活動を継続的に実施すると、耐久性が向上し、また、動作に変化をつければ回復効果があり、疲労が和らぐ、という事である。
 何事も、反復し、持続が大切だ、という事だ。そう言えば、ここ二週間ほど、雨天の為、リハビリ病院を休んでしまったので、歩行練習を怠ってしまった。結果はてき面で、久しぶりに出かけた研究所病院では初めの歩行練習は一往復がやっとでいつものリズムを取り返すのに僅かだが、時間がかかった。それでも嬉しい事に連日のマッサージの効果は出ていた。