脳のミステリー

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57.カンパネラ

2006-07-01 08:01:06 | Weblog
 若い頃から、長い間ショパンに魅せられてきた私は自称バイエル卒業者を名乗るピアノ曲愛好家である。初めて自分の小遣いをはたいて買ったレコードがカーメンキャバレロのピアノ曲、海外で初めて異性の友達がくれたのがリストのコレクション、その上、狭い我が家にはグランドピアノが窮屈そうに置かれている。そんなピアノ演奏には格好の環境だったのに私は辛うじて、ピアノのバイエル修業者を名乗る不届き者だ。
 だが、この不届き者にも自らの慰めがある。二つの内のひとつは「リストを弾く為に生まれてきた」と言われるピアニスト、フジ子・へミング、もうひとつは、またまた出ました!私特有の病魔との出遭い、である。
 フジ子・へミングは偶さか私の高等部では一回り近い先輩で、彼女の名前を聞くと「ラ・カンパネラ」の演奏が頭を横切る。彼女のリスト作品集は今、私のベッド・タイム・ミュージックの仲間のひとつでもある。
 もうひとつの慰めは、自らの病魔との遭遇である。この怪しい病魔は中々正体が掴めないのだが、時折、私に独特な安堵感を与えてくれる。先ず、「ひま」という言葉である。文字通り「貧乏暇なし」で、更にこれまでの私の貧乏は「時間貧乏」だった。「ひま」という言葉には暇と閑というふたつの漢字が使われる。
『一歳(ひととせ)に 二度(再び)も来ぬ春なれば 暇無く(いとなく)今日は花をこそ見れ』
以前の私なら、こんな素敵な詩はついぞ思い浮かばなかった筈だ。「いと」は休みの事である。閑もやはり「ひま」なのだが、こちらは何となく落ち着いてのどか(長閑)な様子が頭に浮かぶ。閑雲と言えば、ゆったり空に浮かぶ雲の事だし、更に閑雲野鶴(かんうんやかく)なんて事も言う。野原に遊ぶ鶴を大空に浮かべて、なんの束縛も受けずに伸び伸びと暮らす境遇、言わば、俗世間を離れた悠々自適の生活を例える言い回しである。私は病魔に出遭った事で、閑雲野鶴の世界に時折、身を置く自分が羨ましく思える事がある。
 きっかけは、障害者仲間の友人の存在である。彼女は先日も私に野に咲く花をくれた。その名は「カンパネラ」キキョウ科の花である。つい最近まで紫の花のイメージが強かったカンパネラはベルのような釣鐘の形から、ベルフラワーとか釣鐘草と呼ばれる。私が貰ったカンパネラはブルーに近い薄紫色で風が吹いて茎が揺れると爽やかなベルの音が聞こえてくるような気がする。
 フジ子・へミングのラ・カンパネラは真紫の花の力強さがイメージ強く、今、私を閑雲野鶴の世界に誘うカンパネラ・パルパタは薄紫の花の清々しさが、汗ばむ季節に自然とホッとする気持ちにさせる。
 野の花を貰う日は、私の車椅子は花車になり、私の「ひま」は「花」と言葉の戯れを愉しむ時になるのである。